氣楽亭 日乗

大阪生まれで奈良県広陵町の長閑で氣楽な田舎暮らしの氣功師が氣ままに綴る懐かしい昭和の年代記です。

人生

2006-06-30 00:27:32 | 氣功
人生とは何でしょう?

人は社会や他者(家族や友人知人・・有縁の人達)から必要とされることで
意味の有る人生を感じ覚醒するものです。
自分自身の出世や利益、幸福を求め必死に頑張り努力します。
その結果ある人は目的の人生を手に入れ皆が羨む幸福な生活を楽しみます。
反対に夢破れ挫折して絶望の淵に佇む失意の人も存在します。

ところで目的を達成した幸福な人の内面は如何なものなのでしょう?
夢や目標は叶った瞬間から当たり前な日常の些細なことに成ってしまい手に
入れた瞬間から新たな夢や目標が生まれ、際限が有りません。
何時も飢餓感に襲われ、欲求不満に陥ります。
今日よりは明日、今年よりは来年、隣よりは我が家が幸福で有る様に頑張り
ます。
また、それで当たり前と思い込もうともしています。

でもそんな生き方が本当に幸福な人生なのでしょうか?
それで満足している人達は誰も悩みません。
しかし満足出来ない人も確実に存在します。

自分の人生に満足出来ない人たちへ。

自分の人生に満足出来ない人たち・・・
その人たちは満足を求めて二通りの方法を選択します。
一つはもっと頑張って努力し無駄を省き目標に迫る。
有意義に時間や人間関係を管理し有効に行動する。
皆が認める理想的な生き方です。
挫折したり絶望しても執念で生き抜き・・・その結果人生に疲労します。
人生の黄昏で自分の来し方行く末を振り返り如何思うのでしょう?

もう一つの生き方は今までの普遍的な価値観からは逸脱している生き方です。
一見、敗者の消極的な生き方に誤解される事の多い困難な方法かも知れません。
有限の人生を無限の欲望や欲求に捉われず「既に有る物に満足する」生き方です。

しかし、条件があります。
人生経験の少ない若年者達にはお勧め出来ません。
何故なら若年者には無限の可能性と無限の選択肢が存在します。
達成も挫折も未経験でしょうし、満足も絶望もレベルが異なる。
若年者は成長途上のエネルギーと将来への希望に満ち溢れているでしょう。
それ故に「既に有る物に満足する」生き方はお勧め出来ないのです。

「既に有る物に満足する」生き方は中高年の生き方なのです。
有る程度の財産も有り挫折や絶望も経験して此れからの将来に不安を感じて
いる人たちに有効なのです。
身体も心も気力も疲れ果て将来の選択肢も限られています。
家族にはギャップを感じ政治や社会に遣り切れない不満を持っています。
ギャンブルや飲酒に逃げるか不倫の快楽に逃避するか?
どれも精神衛生や健康には良く有りません。

今までの価値観や常識を捨て禁欲的な生活を勧めているのでは有りません。
のめり込まず、ほど程の楽しみ方を勧めているのです。
其のキーワードは老子の名言「足るを知る」なのです。
今既に有る物に満足する・・・健康・名誉・地位・収入・財産・etc

何事にも程ほどで溺れない事です。
定年を迎えて収入が減少すれば収入に見合った生活レベルに合わす。
車も手入れして長年使用する、家電製品もモデルチェンジに踊らされない。
そういうものは旺盛な若年層に任せれば良いのです。
休日が増えたら公共の図書館へ行き読書三昧の生活を楽しむ。
新刊本は図書館へリクエストする。時間は急がないのが余裕です。
近所の散歩で季節の移り変わりを楽しむ。
目的の無い散歩や外出を楽しむ。
時間の無駄使いは贅沢で素敵に楽しいものです。

自分の後輩や甥、姪、子供、有縁の人達に良いことを教えてあげてください。
今現在の現状に満足して他者に良い影響を与え続けてください。
動物や植物などの周囲の生命体に良い影響を与え続けてください。
大地や自然の有機体や無機質の集合にも良い影響を与え続けてください。
他者や他の生命体、大自然が自分を必要としていることを認識してください。

人は社会や他者(家族や友人知人・・・有縁の人達)や大地自然から必要とさ
れることで意味の有る人生を感じ覚醒するのです。

明日からでなく今日この場から実践して下さい。
心(氣)の持ち方で毎日の味気ない無意味な人生は必ず変化します。
今まで自分に良い影響を与えてくれた両親や祖父母そして先輩や友人達を思い
出して家族や後輩達に良い影響を与え伝えるのです。
自分を育んでくれた大地自然にも良い影響を与え返してください。
意味の有る人生は既に貴方の手の中に有るのです。

老荘思想

2006-06-29 08:17:15 | 氣功
芭蕉の「奥の細道」の出だしはとても有名です。

>「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也。」

芭蕉も此の世の真理である無常を極め老いとともに旅に出ます。
老いたからと雖も隠居せず足の三里に灸をすえて奥州路を走破する芭蕉の
心は青年です。

もっともこの芭蕉の有名な文章の原点は「李白」の詩であります。

>「夫レ天地ハ万物ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ。」

此の世の真理である万物の有為転変(無常)を簡潔明瞭に表しています。

鴨長明の「方丈記」も同様です。

>「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」
>「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
> 久しくとどまりたる例なし。」
>「世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし」

私は学者でも文学研究家でも有りませんがこの三名の優秀な人生の先達
に影響を与えたのは「老子」の「道徳経」・「無為自然」と「荘子」の
「虚無絶対」を標榜した「老荘思想」だと確信します。

果てしなく過去から現在そして未来へと続く時間を見事に捉え表現して
います。

私はその時間の流れの中で偶々生命を受け生まれ出でて来ました。
両親に育てられ成長し恋愛をし子供を授かり懸命に金儲けに明け暮れま
した。
両親を見送り子供も成人し気が付けば中年期の終わりで老年期の始まり
です。

そんな時に台湾で陳老師の氣功に出逢い生き方を変えたのです。
金儲けに明け暮れた仕事を全て整理してWeb氣功塾を開きました。
借り入れも有りませんし、仕入れも買掛金も有りません。
従業員の給料も不要です。勿論、生活費や経費は掛かりますが過去の
資金繰りとは格段の違いです。
身の丈を縮めた良心に恥じない料金設定で営業しています。

ま、うたかたのような存在ではありますが、御縁有る人達を大切に
少しでも氣楽な人生を過ごして欲しいと願っています。

怪我と弁当は自分持ち

2006-06-28 07:54:35 | 名言
「怪我と弁当は自分持ち」・・・昨今あまり聞かなくなった俚諺です。
相手の不注意で怪我をして保障して貰っても治るまでの痛さは自分で耐え
なくては成りません。
私達はいとも簡単に落命する脆弱な肉体を持って生きています。
今の日本人(私も含めて)には戦後の60年近い平和に呆けてしまい危機
管理能力が著しく欠如しています。
何処に居ても生命、財産は安全に国家や自治体に守られている・・・
此れっておかしいと思いませんか?

自分の命と家族の安全は自分で守る気概が必要だと思います。
しかし個人の力には限度が有り対処不能な事態に陥る事も否めません。
其の時には向う三軒両隣、あるいは隣組の互助に頼るとか、警察への通報
が大きな力に成ります。

自治会や地域の自警が今こそ見直されるのでは無いでしょうか?
ガキ大将が居て頑固で一徹な御隠居が居る煩わしく思った時期もある日常が
懐かしく思えます。
他所の家も自分の家もお構いなく出入りしたりして、プライバシーは皆無だっ
たかも知れません。
しかし不幸な犯罪の抑制には成っていました。

集合住宅やニュータウンにも自治会は有ります。
しかし、近所に何処の誰が住んでいるか知らないことの方が多いのが現状で
はないでしょうか?
棄てて来た物を再構築する時が来ている様に思えて成りません。

自分や家族の命や安全が尊いものなら、隣人や地域の人達の生命や安全も同
じように尊いものです。
核家族化が進み、煩わしい同居生活や近所付き合いを受け入れない生き方で
は地域の安全は保てません。

国防を日米安保条約に頼り石油エネルギーや食料も外国からの輸入に頼る脆弱
な日本の縮図が家庭や地域に置き換えても見えてくる・・・
今更、自給自足は理想論としても「自給率」を少しでも高めないと国際社会で
の日本の将来は暗い物に成ります。

何も悪い事をしていないのに・・・罪も無い無辜の市民が・・・理不尽な事が
起きるのが此の世の定めです。
危機管理能力の欠如こそが大いなる罪だと思います。

「治に居て乱を忘れず」
安全と平和は只では手に入りません。
まず向う三軒両隣とお付き合いを再構築し直して地域の輪を広げて行きましよう。
何も難しい事は有りません。
顔を合わせた時の朝晩の挨拶から始めたら良いのです。

台湾省國術会

2006-06-27 08:10:34 | 台湾
中國武術本来の伝統を受け継ぐ中華民国台湾省國術会。

第二次世界大戦後、中国大陸では中華民国政府軍と中国共産党軍との間で
内戦状態に有りました。
内戦に敗れ中国大陸を追われた国府軍(中華民国政府軍)や共産主義を嫌
った武術家、拳法の宗家は台湾や香港に逃れました。
戦後、狭い台湾に大陸各省から各門派の武術家が集まり中国武術の見本市
状態に成ったのです。

中華民国政府はそうした状況をまとめ、武術家同士の連絡を取り伝統を継
承すべき後学の育成と広く一般への普及の為に1951年に武術協会的性格を
持つ台湾省國術会を設立しました。

翌年には台湾各地に國術会の支部が作られ、全国規模の武術試合も行われ
ました。
国際的な活動としては、1956年に香港、マカオなど東南アジア各国の武術
協会と交流を開始し合同の試合なども開催されています。
中華民国国家を代表する武術団体となる中華民国國術会が誕生したのもこ
の頃です。

各武術団体の活動は順調に行われ、国立台湾大学を始め各大学、高校、専科
学校、中学校に武術クラブ(國術社と称す)が設立され学生の間にも武術学
習は浸透し小学校の体育の科目にも取り入れられる様になりました。

大陸来の武術家が台湾に来てから育てた、第二世代の武術家が台頭しそれぞ
れ活動し始める様に成りました。
中華民国政府軍の軍事訓練での武術指導や特殊部隊の格闘技訓練の指導、国家
警察の武術指導などにも伝統武術が積極的に取り入れられています。
そのなかには外国の警察や軍隊の要請で武術指導に赴いた者も数多くいます。

時が流れ第一世代の武術家は高齢の為、引退されたり御逝去され現在は第二
世代や第三世代が主流になっています。
中華民国は国連を脱退した為に国際スポーツ界ではチャイニーズタイペイなど
と称され不本意にも中華人民共和国が中国と認知されています。

しかし伝統的な古典中国武術の本場は台湾で有る事は否めないと思います。
氣功や導引の本場は中共ではなく、中華民國台湾なのです。
私の身贔屓と勝手な思い込みかも知れませんが中共は信頼に足りる国では有り
ません。
今までの私の経験や知り合った人々の印象だけかもしれませんが、共産主義で
抑圧されて来た反動からか拝金主義の利己的な人達が多いと思います。
過日の反日デモや日本資本を狙った暴動などの影には中共政府の影を感じます。
中華人民共和国政府と国民の両方が信頼に値するかどうか甚だ疑問なのです。

そのような政府を貿易や商売の為に承認した日本政府も残念ながら信頼は出来
ません。
悲しい事ですが我が国日本と中華民国台湾とは国交が断絶した状態です・・・

しかし私は美麗島台湾が大好きでお氣に入りの寶島なのです。

信じる力

2006-06-26 09:31:02 | 氣功
一番強い「信じる力」は自分を信ずる「自信」です。
「自信」が確固たる物に成れば自分を「信頼」出来る事に成ります。
しかし全ての人達が自信を持って人生を過している訳では無いのも事実です。
何故でしょうか?

幼い時は両親や祖父母、家族の庇護の下に成長します。
其の時は自分を庇護してくれる人達を100%信頼し成長します。
昨今では幼児虐待や家庭内暴力などが大問題に成っていますが今に始まった
事では有りません。
昔から家庭内暴力や虐待は有りました。
極端な例ですが昭和の初めには貧しさの余りに幼い子女を売買する親も居ました。
現在が決して特殊な環境に有るのではないのです。

義務教育が始まり学校では教師を信頼します。
進学競争に明け暮れ学力の向上のみに偏向した教師に認められる子供は教師や
学校を信頼し自信を持ちます。
しかし落ちこぼれの(団体生活に馴染めない個性的な)子供は学校や教師を信頼
出来ませんし自信を喪失します。

運動能力に秀でた子供はコーチの教師を信頼し自信を持ちます。
しかし高校、大学とレベルが上がれば学力も運動能力もふるいに掛けられてしま
います。
選ばれて残る子供は自分に自信を持ち能力を信頼します。

では此処までで選ばれ無かった多くの自信喪失者は如何にすれば良いのでしょう。
無気力に世間を拗ねて人生を送るのでしょうか?

一方では自信満々の挫折を知らない子供たちも大人に成り社会に出ます。
一流企業や公務員に就職し順風満帆の人生に船出します。
しかし又そこでも競争に明け暮れ上司に認めれ自信を持てる人は極めて少数
なのです。
その他の多数の人達は劣等感や不安感に襲われ頑張り努力する人と現実逃避
する人に分かれます。

人間は救いを求め何かを信頼し自信を回復したいと考えます。
宗教を信仰し救いを求める人達、自己啓発セミナーで自信回復を求める人達、
資格を取るのに努力する人達、お酒やギャンブルに逃避する人達、様々です。

何に救いを求めても上手く行くとは限りません。
病気になって大病院へ行き健康を回復した人は医療や医師を信頼します。
不幸にも回復の思わしくない人は不信感を持ち他に救いを求めます。

私は宗教を否定する心算も医療を否定する事も有りません。
其れを信じて信頼する事が大切だと言いたいのです。
平穏無事な時は拠りどころは何でも構わないのです。
絶望や挫折の渕に佇み不安と恐怖に襲われた時の非常事態に如何対処するかを
問いたいのです。

私の拙い人生経験で解った事は誰も助けてくれないし救済もしてくれないと言
う事です。
神仏に縋っても居留守を使われます。
他人の教えを信じる事や価値観を信頼する事は止めました。
自分自身の生命力や自然治癒力を信じ信頼する事で自信を持てたのです。
そして氣楽に人生を送ることが出来るように成れました。

かと言って私の生き方や価値観、信じる物を押し付ける心算は有りません。
自分が上手く行ったからと言って全ての他者が上手く行くとは限りません。

しかし此れだけは言えます「自信喪失しても氣の持ち方で自信回復は可能」
です。
それに自分の生命力を信頼し自信を持つことには副作用も金銭も掛かりません。
但し「健康オタク」だけには成らないで下さい。
自分の生命力を信頼し自身を持てても限り有る生命なのですから・・・


大盈は虚しきが如し

2006-06-25 12:34:38 | 氣功
大盈(たいえい)は虚しきが如し。

氣功を長年錬功し大周天を会得し無為自然の境地に近づけたとします。
その時に手の内に入る何か・・・?
それについては氣功で目指す目的と期待するもので様々に異なるでしょうね。
健康な体、強い意志、創造力、集中力、氣力・・・これらを氣功で手に入れる
事は簡単です。
しかしそれを永遠に手にする事は出来ません。
此の世に恒常の物は存在しないからです。
それに永い時間軸で見たら限られた人生の瞬間でしかありません。

氣功だけではなく人生の成功や栄耀栄華もまた瞬間に通り過ぎてゆくものなの
です。
地位も名誉も永遠ではありません。
しかし人間というものは(私も含めてその)“瞬間”でも良いから欲しい物を
手に入れようとあくせくしてしまいます。

氣功を学ぶ事も、決して名誉や成功に背を向けてストイックな生き方をするこ
とではありません。
人によって価値観は異なります。
その人が信ずる価値観の元で楽しく人生を送れば良い・・・それだけです。

しかし全ての人々が人生で成功し栄耀栄華を手に出来るでしょうか?
出来なかった人々の救済の為に氣功は有ると思っています。
普遍的な価値観に捉えられず違う生き方を見つける事、それこそが実は「無為自然」
を理想とする氣功です。

世の中を拗ねて隠遁生活を送る事が氣功では有りません。
有るがままの自分や環境を認めて楽しむ事を学ぶ事が氣功です。
「足るを知れば万能です」

初めに出てきた「大盈(たいえい)」とは「大いに水の満ちるさま。
物の多量にあるさま」の事です。
物質や知識、財産、栄耀栄華は有りすぎると虚しいのと同じであると言う事。
何事でも極めてしまうと虚しいと言えるのでは?
氣功を本当に極めて「無為自然」の境地に遊べば其処には「虚無絶対」の虚しさ
しか無いのでは?
頃日はこのように考えています。

では何の為に氣功を学ぶのか?の疑問もあるでしょう。
其の答は「死ぬまで氣楽に楽しく元氣に生きる事」たったこれだけの事
なのです。

生命の星

2006-06-24 10:37:37 | 氣功
「地球46億年の物語『生命の星』」

NHKのTVで地球の歴史を紹介する上記の番組を見ました。
太陽系が誕生した46億年前の物語です。
理数系大の苦手な塾長ですが、こういう宇宙の話だけはなぜか文系の心を
刺激されワクワクするのです。

原始太陽系には質量の軽い惑星が現在の惑星の数よりも沢山有ったらしい。
現在のように水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星、
の太陽系惑星が出来上がるまでにはずいぶん長い歴史が有ったようなのです。

現在の惑星の姿に成るまでの原始惑星は何億年もの間に軽い質量の惑星どうしが
衝突を繰り返し徐々に質量が増え、重くて大きな惑星に成長した。
我々が現在住んでいる地も過去に数十回もの惑星の衝突を経験して今の大きさに
成長して来たのだ。

私が特に興味を持ったのが惑星の衝突を再現したCG画面でした。
最新のコンピューターを駆使したシュミレーションをCGで再現した画面はとて
も迫力が有り素晴らしい出来上がりでした。

地球に直径500kmも有る巨大な惑星が時速70000kmものスピードで衝突する。
衝突した地球は数十kmも有る地殻ごと捲り上がり地殻津波が起きます。
衝突の衝撃で飛ばされた地殻の破片は成層圏を越えて宇宙にまでも達する。
クレーターの周囲は7000mもの高さの山脈が出来た。
衝突の数分後にはクレーターの中心で岩石蒸発が起きる。
地殻津波と岩石蒸発は衝突点から同心円に波及的に広がり地球の裏側にまで
拡大した。
灼熱の岩石蒸発は原始地球の海を瞬時に蒸発させながら地球を灼熱の星に変える。
一部の微生物を除いた植物も生命体も全てを焼き尽くす出来事です。

我々の地球は過去に何度もこんな大変革の歴史を経験し繰り返して来たらしい。

質量の軽い惑星どうしの衝突、質量の重い惑星と軽い惑星との衝突、質量の重い
惑星どうしの衝突。
惑星の衝突した場所が中心どうしの場合、中心から外れた場所の衝突の場合など
衝突の条件は変化します。

様々な衝突の条件を比較するシュミレーションのCG画面を見て驚いた。
如何なる条件の衝突でもシュミレーションによれば二つの球体が合体して渦を巻
くのは同じ。
その渦はたがいに逆廻りの渦を巻きながら大きな渦に成長する。
二つの球体が合体して大きな渦を巻き回転しながら、渦の中には二つの球体が
逆転の渦を内包しているいます。
この形は何処から見ても陰陽が合体して廻る太極の形を現している。

最新の宇宙物理学とコンピューターシュミレーションを駆使してようやく科学的
に検証出来たCG画面が陰陽思想のシンボルマークである太極と相似すか?
・・・不思議な感動と驚きでした。

これは偶々の偶然の結果でしょうか?
古代の老荘哲学は宇宙(道 タオ)が恒常では無く無限に変化変転し故に万物
は生々流転すると宇宙の真理を物語っています。
現代科学がようやく追いついた宇宙(道 タオ)の真理を二千数百年前の紀元前
に老荘思想は何故に知っていたのでしょうか?

ニュートリノ

2006-06-23 08:22:46 | 氣功
去年の7月に「地球ニュートリノが初検出」されました。

岐阜県飛騨市の地下にある装置「カムランド」で地球ニュートリノ
(地球内部のウランなどが核分裂した時に発生する素粒子)を日米
仏中の共同研究チームが初検出に成功したというニュース。

ニュートリノは地球さえも通り抜けてしまう素粒子の一種で他の物質
とほとんど反応せず、検出が難しいそうです。
ニュートリノという物質の極小・究極の素粒子が「3種類」ありそれ
ぞれの反粒子「反ニュートリノ」も「3種類」あることにです。

この最新の先端科学が21世紀に漸く検出に成功した素粒子の世界に
BC406~531(2500年昔)の「老子」の思想や哲学との不思議な関連性を
感じ興味を持ちました。

「老子」「道徳経」によれば「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、
三は万物を生じる」とあり万物の根本原理は三から生じると「老子」は考え
ました。

こじ付けかも知れませんが「電子ニュートリノ」「ミューニュートリノ」
「タウニュートリノ」の「3種類」があるだけでなく、それぞれの反粒子
「反ニュートリノ」も「3種類」あるとのこと。
素粒子に反粒子まであるなんて・・・驚きました。

万物は「陰陽」の変化変転で生成流転するという「陰陽思想」も「老子」
の哲学なのです。
「陰は陽を抱き陽に変転し、陽はまた陰を抱き陰に変転する、故に万物は
変転流転する」
このイメージは養氣塾ホームページのトップで回転している黄色と黒の
陰陽マークをみるとまさにそれを表現しているのがわかります。

物質の究極の極小が素粒子の世界で、究極の極大が大宇宙だと考えると・・・
構成物質の根本は全て同じである。
これも「老子」は「万物斎同」と言い表しています。

であれば生命体である人間も無機質の物質も根本で構成する素粒子レベル
では全て同じと言う事が出来ます。
そして自分の身体内の生命体を構成する小宇宙に覚醒し氣に目覚める方法
が「小周天法」です。

「小周天」に興味の有る方は「養氣塾」のHPを御覧下さい。

儚さが素晴らしい

2006-06-22 10:45:18 | 氣功
生命の哀れさ消え去る物の儚さこそが素晴らしい。

生まれ出でた生命が消え去り滅びる事は此の世の必然であり定めです。
不老不死を求めても手に入れる事は不可能です。
健康を維持しようと懸命に努力して手に入っても一時の事ではないで
しょうか?
かと言って自暴自棄に成って勝手気儘に享楽的に生きるのも疑問です。

我執を無くし泰然自若として生きる事は理想であり困難な事です。
泰然自若と生きる方法の第一歩は何事にも執着したり拘泥する事を
少なくする。
例えば健康に執着し維持する為に好きなお酒を禁酒する、好きな煙草
を禁煙する・・・
これって不健康(精神的に)ではないでしょうか?

お酒や煙草が嫌いでする禁酒禁煙は健康的です。
しかし自分が嫌いだからと言って、他人の飲酒や喫煙を咎めたりする
事は精神的に不健康です。
公共の場所や時と場合に合わない飲酒や喫煙は勿論厳禁です。

スポーツが好きでジムに通ったり近くをジョギングしたり楽しむのは
健康的です。
しかし健康の為に好きでもないジムに通ったり嫌々ジョギングするの
は精神的に不健康だと思います。
それに運動の効果を早急に求めたり結果に一喜一憂する。
楽しむ心の余裕が不可欠だと思います。
他人の思惑や流行に囚われない自由な生き方こそが泰然自若に近付く
のではないでしょうか?

自由な生き方は一見簡単なように思われますが、此れとても困難で
なかなか実現出来ません。
自由の裏側には責任と自制が必ず付いて来るからです。
勝手気儘な享楽的な生き方が自由な生き方では有りません。
むしろ一見したら不自由な生き方に見えるかも知れないのです。
その自由の裏側に有る不自由こそが泰然自若に生きる矜持だと思います。

生命の裏側に常に存在する死から逃避しても決して逃れる事は出来ません。
健康を損ねて病気に成り・・・その先に必然的に存在する死を恐れる為に
健康に拘泥する。
不慮の事故や不運な境遇の先にある最終的な死を恐れ宗教や占術、霊媒師
などに頼り切る。
何が起ころうが目先の幸不幸に囚われず今現在の有るがままの自分を認め
人生を楽しむ生き方をお勧めします。

「花咲けば風雨多し」と言います。
桜が綺麗で全ての人から好かれるのはすぐに散るからではないでしょうか?
散らない造花の桜には誰も見向きません。
それは自然に存在しない造花の桜だからです。
人の命も散るからこそ尊いし素晴らしい輝きが有るのだと思います。
散る事を恐れずに(何時かは必ず散る)散るまでを如何に生きるかが問題
なのだと思います。


絶望の淵で

2006-06-21 08:30:05 | 氣功
絶望の淵で希望と自信を無くして何かにすがりたい時・・・

普通は神社仏閣に詣でてご祈祷や祈願をされると思います。
運良く希望が叶えられた時は満足し自信は回復します。
しかし全ての参拝者や参詣者の希望が叶えられるのでしょうか?
祈祷料が少ないのか信仰心が足りないのか多くの人の希望は叶うことは有り
ません。

私は不遜にも合格祈願や「お払い」「お祈り」「呪い(まじない)」などの他力本願
は無いと信じて居ます。
神仏や天地創造者が有ったとしてもなかなか希望を叶えてはくれません。

人々が「福をくれ、金運をくれ、健康をくれ、恋愛運をくれ、合格をれ、」な
どと全部がくれくれ、欲しい欲しいのお願いだけです。
神様なら煩くて困り果ててしまいます。
私の考えは「お願い」は与えて貰うものでは無く自分で叶えるものです。

自分の目標や希望、自信を達成したり回復するのは神仏でも天地創造者でも有
りません。
あくまでも自分自身なのです。
しかし困った事に自分自身の心は猫の目のように氣が変わりやすく一寸した
失敗や障害物でいとも簡単に自信喪失したり希望を失って絶望してしまいます。

そうかと言えば一寸した成功や低い障害物を乗り越えては自信回復を通り越し
増長し驕慢に成りもします。
此れを責めているのでは有りません。
この気まぐれな自分自身の心の有り方がが真理で此の世の道理なのです。

無為自然の道理で変転流転する此の世の真理の所為で一喜一憂するのは如何か
と思います。
喜ぶのは良いですが程度の問題で有頂天にならず冷静に喜びましょう。
憂いる事も程度の問題で深刻に考え過ぎない事が大切なのです。

氣功を実践して小周天を終えて大周天を体得したとしても自信を喪失し希望が
叶わず絶望する事も有ります。
不運な事故や健康を損なうことも有るでしょう。
反面、幸運に出会い有卦に入り自信を回復し驕慢に成るかも知れません。
これでは氣功の効験は無いのも同じと疑問を持たれる読者も多いと思います。

氣功をしてもしないでも同じように幸不幸は訪れます。
では何の為に氣功をするのか?
「幸福なときに有頂天に成らず不幸な時に絶望しない人生を歩む為なのです。」
止まぬ雨は有りませんし降らない雨も無い・・・
日の暮れない昼は有りませんし夜の明けない晩も無いのです。

思い通りに行かなくても絶望する事はないのです。
自分だけが世の不幸を一人で被っているのでは有りません。

日は又昇ります。
この簡単で明快な真理を会得する生き方が氣功体得の醍醐味なのです。
氣功体得者は有頂天にも成りませんし絶望しても直ぐに喪失した自信が蘇ります。
健康を害しても心まで病みませんだから元気を回復するのも早いのです。