木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

books05「言語の脳科学」(酒井邦嘉著・中公新書)

2008年06月02日 23時05分58秒 | books
この本は副題に「脳はどのようにことばを生み出すか」とあるように「人間に特有な言語能力は、脳の生得的な性質に由来する」というアメリカの言語学者、ノーム・チョムスキー「に対する誤解を解き、言語の問題を脳科学の視点からとらえ直すことを目標としている。」本だ。

しかし、実は、僕が一番衝撃を受けたのは次の部分だ。

このように、言語は、膨大な数の無意識的な文法の規則に従ってできあがっている。外国語を身につけるには、理屈抜きにこれらの文法を頭に入れる必要がある。外国語が達者の人は、必ずしも一般の記憶力がよいとは限らない。むしろ、このような無意識的な文法を、「無意識的」にそのまま覚えられるようなセンスのよさが大事なのであろう。もっとも人間的な能力の一つである言語が、努力によって力業で習得できるものではない、というところに、言語の奥の深さがある。(108頁)

「センスの良さ」ですかぁ~、残念~、って感じ。
でも、実はすっごく言えてる気がする。手話通訳士養成講座などで手話通訳やってる様子を個別にチェックしていると、「どうしてわかってもらえないんだろう?」ということがしばしばある。”ほら聞こえない人ならこんな感じで表すじゃない”とか”それは聞こえない人から見たらわかりにくいよね”という「指導」は受講生と指導者にある共通の「理解」というか「イメージ」がなければ成り立たない。そういう意味で”「無意識的」にそのまま覚えられるようなセンス”ってすごく重要なのではないかと思うのだ。

もう一つ面白かったのは、

単語と文法は全く違う。(49頁)

と明快に応えている点。
単語を「学習」できても、文法を「獲得」することは難しい。
先日、入門テキストのことを書いたときにも感じたけど、いつになったら初心者向けの手話文法書ができるんだろうか?
全日本ろうあ連盟から出ている松本晶行さんの「実感的手話文法試論」という本があるけど、松本さんは「日本手話」という概念に批判的な方のように感じられる。
実際、松本さんはこの本の中で
「狭義の「日本手話」で話す者だけがろう者だ、などという言語至上主義には到底賛成できません。もう一つは、日本のろうあ者が現に口形と手話単語・指文字を併用して日本語を表現していることや、先程言った相互乗り入れ現象を、シムコムだとかピジン手話だとか言って、その概念で議論するのには賛成できないということです。」
と書いている。
ろう者であるかないか、という問題と「日本手話という言語の概念」をどう捉えるかという問題は区別して議論すべきではないだろうか。
「実感的手話文法試論」の内容は文法書というより、これまで「中間型手話」などと呼んできた「ある程度音声言語に合わせて手話の単語を並べた手話」について「これは動詞にあたります」とか「この単語は副詞としての用法です」と理由づけしているだけのように感じた。

ほかにもこの「言語の脳科学」には「第11章 手話への招待」なんて項があったりして、手話という言葉についてもっともっと知りた~いと思っている人にとってもなかなか勉強になるのだ。

言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか

中央公論新社

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<ここまでは2005-02-06 01:40:58記>

■追記
今週の末から新しい手話の勉強会を始めるので、「どんな勉強をしたらいいだろうか?」と今いろいろな本を読み返している。
この本もその中でピックアップした。集まった仲間たちにに「こんな本も読んでみるといいよ」と勧めたい気持ちもある。余計なお節介だとも思うのだが、この本に書かれたような脳と言語に関する知識を踏まえて自分の手話言語力を振り返るというのはけっして無駄な努力ではないように思うのだ。
とか偉そうに書く前にもう一度この本を読み直さなきゃね、内容をすっかり忘れてるしぃ・・・、悲しい。
<ここまで2008-05-05 16:32:09記>

■追記2
ようやく読み終えた。気になったところをいくつか書き抜いておく。
67頁「翻訳の不確実性と発話傾向」
【例文6】時計をお持ちですか。
と言われて、文字通りの意味なのか、「今、何時かわかりますか」という意味で言ったのか、という二通りの解釈ができる。もちろん、一般的には後者の方が自然であるが、相手によっては不確定となる。(中略)このように考えると、文章の理解とは、発話傾向を手がかりにとしながら、他人の言わんとすることのモデルを自分の心の中に作ることである。

これは「翻訳」を考えるときも同じことだ。
73頁「音韻の法則」
【例文7】花子、友子、洋子、田井子、てるみ、さゆり
共通語のアクセントでは、「子」のつく三音節の名前の場合、はじめの音節を高く読むのが普通である。「田井子」のように見かけない名前であっても、「太鼓」のようにはじめの音節を低く読むことはない。三音節の名前でも、「子」がつかない場合は、はじめの音節を低く読む場合が多い。こうした例も、無意識に身についた音韻の法則である。

これは驚きました。花子と同じ読み方で「てるみ」と最初の音節を高く読んだら絶対おかしい。でもなぜ絶対おかしいと分かるのか、全然わからない。まさに無意識に身についた音韻の法則なのである。手話の音韻がなかなか理解・身につけることができなくても聴者の自分にとっては「当然」なんだ、と妙に開き直ったりした。
104頁「なぜ英語がうまくならないか」
ネイティブ・スピーカー(母語の話者)は気づいていないのに、くわしく調べてみると確かに一定の規則に従っている場合が無数に存在する。その多くはほとんど説明がつかないので、文法書にも書けないわけだ。英文法の教科書をいくら完全にマスターしても英語がうまく話せるようにならないのは、むしろ当然である。

こんなこといったら身も蓋もないじゃないかと思うが、逆にこれで私は「手話の文法書がないからいつまで経っても日本手話ができない」という言い訳ができなくなってしまった。やばい。文法書に書けないものをどうマスター(指導)するのかが講習会講師に求められているのだ。
188頁「読字障害」
集中的な聞き取りと発話のトレーニングを行った結果、左脳の前頭葉が活動するようになったという。

これは読字障害を持った人のリハビリの話だが、手話の場合も「集中的な読み取り」で前頭葉が活性化されることがありうるのではないだろうか。むしろ読み取りトレーニングはそれくらいの「集中度」「繰り返し度」によってまさに「体に覚えさせる」必要があるように思う。
231頁「単語から文の理解へ」
音声または文字を提示すると、聴覚野や視覚野での知覚レベルの処理から、単語レベルと処理が進み、さらに高次である文レベルに至る。文処理は、聴覚や視覚といった入力のモダリティに依存しなくなると予想される。」

これって「手話が読める」ようになる第一段階だと思う。単語読みしているレベルの間は、手話文としての理解はできていないと断言しても良いように思う。いわゆる「読み取りが苦手です」と答える聴者の典型だと思う。手話単語を日本語ラベル読みしてそこから類推して(勝手にテニヲハを補って)日本語文を頭の中で組み立てている間は永遠に手話文の理解はできないだろう。手話通訳者養成講座の受講生を2年間見てきて、ようやく私にもそのことがちょっとだけ実感できるようになってきたように思う。手話文を理解する脳というのは、ラベル読みしている間は全く進歩がないように感じる。
277頁「母語の不思議」
計算機に文法を教えるときには、正しい例と間違った例を両方与えなければならない。はっきりと文法の規則を与えてはいないのに、なぜ幼児は、文法的な規則を自分で発見して、一歳くらいから話を始められるのだろうか。

日聴紙5月号の読者欄に日本手話研究所・高田英一氏「私は日本語対応手話とは日本手話表現の一つの形だと思います。」と書かれていますが、もうそういう屁理屈をこね回すのはやめにする時期に来ていると思います。わざわざ「日本手話「表現」の一つ」などと、なにげに「日本手話」という言葉を避けて用語の定義を混乱させているのは、「日本手話研究所」の看板が泣きます。
先日も書いたけれど、コーダである田中清さんが、初めて(?)参加した全国手話通訳者会議で他の聴者が話すシムコムを見て「さっぱり分からなかった」という例を出すまでもなく、今後、明晴学園で日本手話で教育を受けたろうの子どもたちが育っていけば、全日ろう連がずっと求めてきた「ろう学校における手話で教育」した結果、ろう児たちが身に付けた言語を「日本手話」と呼ばずに何と呼ぶというのだろうか。

それからこの本を通じて私が感じたことのもう一つが、手話表現における「口形」の意義とはいったい何だったのだろうか、という疑問である。
聴者である私にとって第二言語である手話を身に付けたいと一生懸命努力してきたにも関わらず「口形も大切ですから、口元がはっきり分かるように口形をつけて手話をしましょう」という指導によって「常に同時に日本語を話しなさい」と強要されてきたというのはいったい何だったのだろうか。異なる言語を同時に話すことを強制するような言語指導があり得るわけがない、と今ではようやく私も分かってきたが、今でもこのシムコムの壁を完全に乗り越えられたわけではない。
そう、中間型手話として20年以上も手話を学んできた身としては、まさに自分の頭の中に万里の長城のように築き上げられてしまった「シムコムの壁」。音声日本語で考え、音声日本語の口形を発しながら、「そのラベルに見合った手話単語表現を並べる」という中間型手話から、私の脳が解放されるのはいつのことになるやら。
コメント
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