木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

books74「少数言語としての手話」斉藤くるみ著(東京大学出版会)

2007年09月10日 21時31分18秒 | books
少数言語としての手話
斉藤 くるみ
東京大学出版会

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まだ、読み始めたばかりなんだけど、今さらながらに思ったことがあるので忘れないうちに書き留めておきたい。
この本は「手話を生み出す脳」という項目から始まっている。13ページには「左半球にある言語野というものは必ずしも音声言語だけを認知・生成するのではなく、手話も認知・生成するのだということ、人間の言語能力が音声と必然的なつながりを持つわけではない」として
「言語野とは、記号のモーダリティーにかかわらず、その奥に潜む言語特有の構造を生成し、理解する」
とのこと。
これを読んで思い出したのが、先日ハリ(鍼灸)の先生が言っていた言葉だ。私は最近左耳の調子が悪くてハリに通い出したのだが(取りあえず行った会社の近くの耳鼻科の医者からは「突発性難聴ですね」と診断され、薬をどっさり処方されたが、西洋医学は信用できないので知り合いに勧められたハリを始めてみた。)、中途失明の先生は「私も点字を習っている時に目がとても疲れたんですよ。点字ですから目はもちろん使っていないにもかかわらず、目がすっごく疲れるんですよね。手話をやった後、耳の調子が悪くなるというのは、手話も同じなのかも知れませんね。」
そう、そうなのだ。土曜日に午前中から手話通訳者養成講座の準備を始めて、講座修了後もファミレスで8時くらいまでろうの講師たちとおしゃべりしていると、一日中ずっと手話漬けとなる。そうして家に帰ると「テレビの音がうるさい」と感じるのだ。音というか「言葉が頭に入ってくる」のがとても辛くなる。わぁ~静かにしてくれぇ~と感じるのだ。もちろんずっと「音声なし」で一日過ごしてきたにもかかわらずだ。
これって「言語野が疲労困憊している」ってこと?

そしてもう一つ思ったのが、手話の勉強って「言語野を手話言語に順応させるトレーニングのはずだから、やっぱりシムコム(手指日本語)って、手話を勉強していることには、全然ならないのかも」という発見だ。いまさら「発見」って笑われてしまうけど、つまり音声対応の手話は、左脳で音声処理しながら、右脳で映像としての手話の動きを真似て(空間処理)してるだけだから、結局のところ聴者の右脳しか刺激してない=トレーニングしてないということになる。これって手話言語を左脳処理できるようにトレーニングしていることには全然ならないわけだ。
以前、酒井邦嘉さんの「言語の脳科学」(中公新書)を読んだときに「そうかあ聞こえない人は手話を言語野で処理してるんだぁ~」などと安易に納得していたが、実は聴者の場合も「手話を言語としてマスターする」ということは、手話という言葉を左脳の言語野で処理できるようになることだったのだ。
う~ん、なんか今さらこんなことを書いている自分がとても悲しくなるけど、斉藤くるみ先生は、このようなことを私に気づかせてくれたのです。よい本だと思います。
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