■地元で「日本手話とは?」というタイトルの講演会があり、参加した。前に住んでいた地域では、この手のタイトルだと手話講習会の受講生など聴者がごっそり参加していたものだが、会場には年配のろう者の姿が目立った。私は「みんなが普段悩んでいる『日本手話』の講演会だから満員になってるんだろうなぁ~」と思っていたのだが、聴者は一部の勉強熱心な「いつものメンバー」ばかりだったようだ。
どうしてなんだろう?講習会の受講生があまりいないように感じたのは「興味がない」からなのか、「『手話通訳』には関心あるけど『日本手話』は今さら」って感じなんだろうか? でも、『手話通訳』以前の問題としてアンタのその手話が一番のネックなんだけどなぁ~」と思うのだが、受講生にそういった問題意識があまりないのだろうか。
■講演会の内容自体は、「日本手話がいかに『言語』であるか」ということを中心に進んだので、サブタイトルの「日本手話の教え方入門」を聞きたくて参加したであろう地域手話講習会講師の皆さんにはちょっと物足りなかったように思った。もう少し具体的に「日本手話の教え方」を説明してくれると面白かったんだけどなぁ~。休憩をはさんで後半は「言語学的見方で手話を見て」というテーマで再開した。これまでの「福祉としての手話=情報保障」ではなく、「文化としての手話」が大切なのだという説明に、いよいよ本題に入ったかと期待したけど、結局「それはまだ確立されていない」で終わってしまった。
■けれども質疑応答に入るとなかなか面白い展開になった。一つめの質問は「翻訳方法をどう勉強したらいいのか?」ということで、3つの例文を提起した。(1)友達3人で行く、(2)友達3人と行く、(3)友達3人が行く。講師の答えは「地域のろう者に聞いて回って、実際に大勢のろう者が使う表現方法が、日本手話だ」とのこと。う~ん、そのとおりなんだけど・・・。
二つめの質問は「自分が慣れ親しんできた手話と異なる新しい表現方法について、どう教えたらいいのか?」というもので、「印刷」という手話が自分は写植の表現だけど、今は輪転機に紙が入っていく表現になってるという例を出した。講師は「『ことばは生き物』だから、生き残る手話もあれば淘汰される手話もある」と答えた。確かにその通りなんだけど、「どう教えるか」という質問には答え切れてないよなぁ~。
三つ目の質問も二番目と同じような質問で「ホテル」と「マンション」の手話表現について、新しい手話表現があるようだが、どう判断したらいいだろうかというものだった。ここでも講師は会場に振って「みんなはどう表現する?」という回答だった。まったくそれが一番正しいんだけど、一方でそうした「新しい手話」は全日本ろうあ連盟が作ってるわけで、その日本手話研究所の研究員の立場ではどうなの?というあたりが聞きたかったな。
四つ目の質問は「日本語対応手話で教えられてきた聴者は、通訳コースになって初めて日本手話を教えようと思ってもなかなか身に付かない、それでろう者の手話も全然読み取れない。どうしたらいいのか?」という鋭い質問だった。講師は「今ではNA法(ナチュラル・アプローチ)という指導方法もあるけど、これを実際にろう者がマスターして指導するのはとても難しい」という答えで、僕は「そうか、こういう理事クラスでも、やっぱ日本語を離れていきなり手話を手話だけで教えるっていうのは難しいんだな」と妙に感心した。講師は「これまでは『単語法』だったけど、これからは『会話法』でやらなければいけない」と補足した。
そして今日の講演の中で一番印象に残った説明をしてくれた。
「ろう講師も、ろう者同士で話すときは日本手話なのに聴者と接するときには自然とスイッチングして日本語対応手話に近くなってしまう、そうした姿勢を改めなくてはいけない」
これって今のろう講師の状況をすごく的確に捉えていると思う。講座の中では「日本手話、日本手話」って口を酸っぱくして指導しているろう講師が休憩中に地元の受講生と次のイベントの打ち合わせなんかしているときにはしっかり日本語対応手話になってるのを見かけて、僕もなんかすっごく寂しく感じたことがある。しかもそうした時間には会話自体が聴者(受講生)ペースになってるのだ。これでは、なかなか日本手話を身につけさせられないよなぁ~と思った。打ち合わせの時に、ろう者が日本手話で話したら全然「打ち合わせ」にならない聴者がいけないはずなのに、なぜかろう者が遠慮(?)して聴者に合わせた手話してる。これはろう者の姿勢の問題じゃなくて、ろう者のおかれた立場の問題のように思う。まだまだ圧倒的に「弱い立場」にあるのではないだろうか。
それで思い出したけど、国リハの木村晴美さんのブログに「ASLTA(アメリカ手話教師協会)の分科会で声を出しながらシムコムで話した聴者を、参加者がボイコットした」という話しが載っていた。
私も会議の時に自分の意見を聴者にもキチンと理解して欲しいときにはついシムコムになるので、「わぁ~、アメリカだったら僕はろう者にボイコットされちゃうんだなぁ~」と感心したばかりだった。
そして、最後の質問は「最近の聴者は『指さし』がやたら多いが、ろう者はそんなに『指さし』を使わない。どう考えたらいいのか」という鋭いのが出た。先日一緒に手話通訳士養成講座を担当したろう者だった。彼女は特に自分を指さす「指さし」を、「ろう者はそんなに自分を指さしたりしない」と指摘している。会場にいたろう者を見渡すと確かに文末に「自分」への指さしをするようなろう者は少なかったように思った。この質問に対しては、講師も「個人的には」という注釈付きで賛同していた。やはり、「日本手話」とは何なのかという議論について、もっと様々な角度から研究が進み、かつ、それらが私たちのような地域の手話講習会を担当するレベルのろう者・聴者に降りてくることが必要だと感じた。
どうしてなんだろう?講習会の受講生があまりいないように感じたのは「興味がない」からなのか、「『手話通訳』には関心あるけど『日本手話』は今さら」って感じなんだろうか? でも、『手話通訳』以前の問題としてアンタのその手話が一番のネックなんだけどなぁ~」と思うのだが、受講生にそういった問題意識があまりないのだろうか。
■講演会の内容自体は、「日本手話がいかに『言語』であるか」ということを中心に進んだので、サブタイトルの「日本手話の教え方入門」を聞きたくて参加したであろう地域手話講習会講師の皆さんにはちょっと物足りなかったように思った。もう少し具体的に「日本手話の教え方」を説明してくれると面白かったんだけどなぁ~。休憩をはさんで後半は「言語学的見方で手話を見て」というテーマで再開した。これまでの「福祉としての手話=情報保障」ではなく、「文化としての手話」が大切なのだという説明に、いよいよ本題に入ったかと期待したけど、結局「それはまだ確立されていない」で終わってしまった。
■けれども質疑応答に入るとなかなか面白い展開になった。一つめの質問は「翻訳方法をどう勉強したらいいのか?」ということで、3つの例文を提起した。(1)友達3人で行く、(2)友達3人と行く、(3)友達3人が行く。講師の答えは「地域のろう者に聞いて回って、実際に大勢のろう者が使う表現方法が、日本手話だ」とのこと。う~ん、そのとおりなんだけど・・・。
二つめの質問は「自分が慣れ親しんできた手話と異なる新しい表現方法について、どう教えたらいいのか?」というもので、「印刷」という手話が自分は写植の表現だけど、今は輪転機に紙が入っていく表現になってるという例を出した。講師は「『ことばは生き物』だから、生き残る手話もあれば淘汰される手話もある」と答えた。確かにその通りなんだけど、「どう教えるか」という質問には答え切れてないよなぁ~。
三つ目の質問も二番目と同じような質問で「ホテル」と「マンション」の手話表現について、新しい手話表現があるようだが、どう判断したらいいだろうかというものだった。ここでも講師は会場に振って「みんなはどう表現する?」という回答だった。まったくそれが一番正しいんだけど、一方でそうした「新しい手話」は全日本ろうあ連盟が作ってるわけで、その日本手話研究所の研究員の立場ではどうなの?というあたりが聞きたかったな。
四つ目の質問は「日本語対応手話で教えられてきた聴者は、通訳コースになって初めて日本手話を教えようと思ってもなかなか身に付かない、それでろう者の手話も全然読み取れない。どうしたらいいのか?」という鋭い質問だった。講師は「今ではNA法(ナチュラル・アプローチ)という指導方法もあるけど、これを実際にろう者がマスターして指導するのはとても難しい」という答えで、僕は「そうか、こういう理事クラスでも、やっぱ日本語を離れていきなり手話を手話だけで教えるっていうのは難しいんだな」と妙に感心した。講師は「これまでは『単語法』だったけど、これからは『会話法』でやらなければいけない」と補足した。
そして今日の講演の中で一番印象に残った説明をしてくれた。
「ろう講師も、ろう者同士で話すときは日本手話なのに聴者と接するときには自然とスイッチングして日本語対応手話に近くなってしまう、そうした姿勢を改めなくてはいけない」
これって今のろう講師の状況をすごく的確に捉えていると思う。講座の中では「日本手話、日本手話」って口を酸っぱくして指導しているろう講師が休憩中に地元の受講生と次のイベントの打ち合わせなんかしているときにはしっかり日本語対応手話になってるのを見かけて、僕もなんかすっごく寂しく感じたことがある。しかもそうした時間には会話自体が聴者(受講生)ペースになってるのだ。これでは、なかなか日本手話を身につけさせられないよなぁ~と思った。打ち合わせの時に、ろう者が日本手話で話したら全然「打ち合わせ」にならない聴者がいけないはずなのに、なぜかろう者が遠慮(?)して聴者に合わせた手話してる。これはろう者の姿勢の問題じゃなくて、ろう者のおかれた立場の問題のように思う。まだまだ圧倒的に「弱い立場」にあるのではないだろうか。
それで思い出したけど、国リハの木村晴美さんのブログに「ASLTA(アメリカ手話教師協会)の分科会で声を出しながらシムコムで話した聴者を、参加者がボイコットした」という話しが載っていた。
私も会議の時に自分の意見を聴者にもキチンと理解して欲しいときにはついシムコムになるので、「わぁ~、アメリカだったら僕はろう者にボイコットされちゃうんだなぁ~」と感心したばかりだった。
そして、最後の質問は「最近の聴者は『指さし』がやたら多いが、ろう者はそんなに『指さし』を使わない。どう考えたらいいのか」という鋭いのが出た。先日一緒に手話通訳士養成講座を担当したろう者だった。彼女は特に自分を指さす「指さし」を、「ろう者はそんなに自分を指さしたりしない」と指摘している。会場にいたろう者を見渡すと確かに文末に「自分」への指さしをするようなろう者は少なかったように思った。この質問に対しては、講師も「個人的には」という注釈付きで賛同していた。やはり、「日本手話」とは何なのかという議論について、もっと様々な角度から研究が進み、かつ、それらが私たちのような地域の手話講習会を担当するレベルのろう者・聴者に降りてくることが必要だと感じた。