我が地区では、12月~2月を除いて毎月21日に有志の人たちがお寺(無人)に集まって、「おこもり」なるものを行っている。ところが、今月は都合で24日に変更したという。そこで本日3ヶ月ぶりに私の両親も「おこもり」に連れて行った(私は参加しないが)。参加者は皆さん高齢者で10数名おられ、お経や念仏を唱え、その合間におしゃべりしたりしているようだ。若者や男性が参加してもいいそうだが、なぜか女性ばかりだ。
私は、この「おこもり」のはっきりとした由来・目的を知らないが、私が子供の頃には、重い病気を患ったり、手術を受ける人などのために「おこもり」と称して、大人たちがお寺に集まってお祈りをしていたことを思い出す。病人の無事回復をお先祖様・仏さまにお祈りしていたのだろうと思う。だから、「おこもり」は年中行事ではなく不定期な行事だと思っていたが、聞けば現在同様やはり昔から毎月21日に行われていたそうで、病気の方のために行うのは特別だったそうだ。その頃は「おこもり」が終わると、お供えしていたお菓子などが、お寺の前の広場で遊んでいた子供達にも配られていた記憶がある。そして、そのお菓子など(供え物)のことを「ぶっしょう(ぶっしょ?)」と言っていたと思う。「ぶつ」とは「仏」だろうが、「しょう」とは何だろう?「生」だろうか、「性」だろうか?
他の地方でも、「おこもり」という行事が行われているところがあるようだ。しかし、どうも我が地区のものとは様子が違っている。我が地区ではお寺でやっているが、他の地方では「おこもり」を神社で行うようだ。そして、多くは豊作や豊漁を祈願する年中行事だったり、香川県のように雨乞いだったりするようだ。だとしたら、お寺でなく神社でやるのは納得がいく。お願いごとの内容が違えば、お願いする相手もおのずと違ってくるだろう。
では「お百度参り」はどうだ?私の中では、あれは神社でやるというイメージがあったが、お寺でも神社でも両方ありのようだ。それとも、願い事の内容によってお寺か神社か決まるのだろうか?うー、ややこしくなってきた。
明治維新以降、神仏分離・廃仏毀釈運動が行われたが、本来日本では仏教が伝来した頃より、「八幡大菩薩」などのごとく仏教は土着の信仰(日本の神、神道)と融合していたようだから(神仏習合)、一般民衆には神と仏の区別はあまり意識されていないような気もする。
私は、この「おこもり」のはっきりとした由来・目的を知らないが、私が子供の頃には、重い病気を患ったり、手術を受ける人などのために「おこもり」と称して、大人たちがお寺に集まってお祈りをしていたことを思い出す。病人の無事回復をお先祖様・仏さまにお祈りしていたのだろうと思う。だから、「おこもり」は年中行事ではなく不定期な行事だと思っていたが、聞けば現在同様やはり昔から毎月21日に行われていたそうで、病気の方のために行うのは特別だったそうだ。その頃は「おこもり」が終わると、お供えしていたお菓子などが、お寺の前の広場で遊んでいた子供達にも配られていた記憶がある。そして、そのお菓子など(供え物)のことを「ぶっしょう(ぶっしょ?)」と言っていたと思う。「ぶつ」とは「仏」だろうが、「しょう」とは何だろう?「生」だろうか、「性」だろうか?
他の地方でも、「おこもり」という行事が行われているところがあるようだ。しかし、どうも我が地区のものとは様子が違っている。我が地区ではお寺でやっているが、他の地方では「おこもり」を神社で行うようだ。そして、多くは豊作や豊漁を祈願する年中行事だったり、香川県のように雨乞いだったりするようだ。だとしたら、お寺でなく神社でやるのは納得がいく。お願いごとの内容が違えば、お願いする相手もおのずと違ってくるだろう。
では「お百度参り」はどうだ?私の中では、あれは神社でやるというイメージがあったが、お寺でも神社でも両方ありのようだ。それとも、願い事の内容によってお寺か神社か決まるのだろうか?うー、ややこしくなってきた。
明治維新以降、神仏分離・廃仏毀釈運動が行われたが、本来日本では仏教が伝来した頃より、「八幡大菩薩」などのごとく仏教は土着の信仰(日本の神、神道)と融合していたようだから(神仏習合)、一般民衆には神と仏の区別はあまり意識されていないような気もする。