『殯(もがり)の森』で第60回カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した河瀬直美監督が、故郷の奈良からタイに舞台を移し、多国籍の俳優とスタッフとともに創りあげた意欲作。タイにやって来た一人の女性が、古式マッサージを通して異国の文化や人々とふれあい、心の滞りを流していく。主演の長谷川京子をはじめ、俳優たちに互いの関係性や物語を知らせず、その日の撮影予定だけをメモで渡すという独自の演出が、キャスト陣のリアルな反応を引き出している。[もっと詳しく]
なぜ、あえて、こういう設定にしているのか、チンプンカンプンだ。
今回の作品も、最初はいつもの奈良を舞台にし、「周囲とコミュニケーションがとれない女の子」の物語を意図していたという。
そこから、河瀬作品のひとつのチャレンジとして、舞台を奈良から移すこと、いつもの緑濃い奈良の原生林近くの村落から、濃密な湿気と蒸せるような高温のなかでひっそりと棲息している森の中の高床式の住居に、その舞台を移した。
バンコクの南、サムットソンクラームの村落。
ここに、30歳になり人生にどこか倦怠を懐きリセットしようとする30歳の女性彩子(長谷川京子)を設定した。
英語も通じない村に、フランス人の青年グレッグ(グレゴワール・コラン)を配置した。
住居の家人には地元の素人で実際の親子でもあるアマリと幼い少年トイと祖母を住まわせた。
ナラコートホテルと告げたはずなのに、奥深い森の中に連れてきてしまったタクシードライバーに、地元のコメディアンであるマーヴィン(キッティボット・アンロニ)を起用した。
そして、ときおり訪れるオレンジ色の袈裟を身に纏った僧侶たちを点景とした。
あとは、騒音と屋台と商売女たちで賑わっている都会の群集と、素朴そうな村人たち。
ここでは、ひたすら「言語」によるコミュニケーションが疎外されている。
観客には、アマリ親子の発するタイ語や、グレッグ青年の喋るフランス語の字幕はついてはいるが、彩子との間には、ほとんど「言葉」によるコミュニケーションは成立していない。
「わかんないよ、何を言ってるのか、さっぱりわからないのよ」
予期せずこの村に迷い込んだ彩子は、戸惑いと苛立ちの中で、誰に向かってでもなく喚き続ける事になる。
アマリはタイの古式マッサージを生業にしているようだ。
グレッグもどういういきさつでこの家に住み着くことになったのかはわからないが、古式マッサージを修得しようとしているようだ。
タクシードライバーも、車を森の小道に置きっ放したまま、この家で家人のように寛いでいる。
この「言語コミュニケーションの不可能性」という設定も、河瀬作品のひとつのチャレンジとなっている。
このキャスト設定を、今回の作品では、スタッフ構成にまで拡張している。
撮影監督にはフランスのゴダール、トリュフォーら巨匠たちにつき、最近ではカラックスとパートナーを組んでいるキャロリーヌ・シャンブティエを起用、もちろん制作会社はタイの会社に決定した。
スタッフの数も、日本:タイ:フランスの各比率が、2.5:7:0.5であったらしい。
もうひとつチャレンジがある。
俳優たちには互いの関係性や物語を知らせず、その日の撮影予定だけをメモで渡すという、いわばセミドキュメンタリーのような手法で、リアルを引き出したと語られている。
それでは、カンヌ映画祭をはじめ、世界の映画祭での常連となった河瀬監督の果敢なチャレンジは成功したのだろうか?
僕の★ふたつという悲惨な評価がそのとおりなのだが、無惨な失敗に終わっているとしか思えない。
ひとつは脚本ではないか。
この作品では、小説家である狗飼恭子とタッグを組んでいる。
彼女は、脚本としては篠原監督『天国の本屋~恋火』(04年)、矢崎監督『ストロベリーショートケイクス』(06年)、蝶野監督『未来予想図~ア・イ・シ・テ・ルのサイン』(07年)の脚本に参加している。
なるほど、高校在学中からせっせと小説をものしていた狗飼恭子は期待の若手作家らしいが、一貫して恋愛をテーマにしている。
上記の3作はレヴューにもしていないが、あえて★をつけるとしたらふたつ、みっつ、ひとつというところか(笑)
そうか、彼女が、「ひとやすみとリセットを求めて、古式タイマッサージのなかで、滞りは流れ本当に美しくなる(映画のキャッチコピーです)」という奇妙で気恥ずかしい設定を考案したのか・・・。
失敗のもうひとつは、ハセキョーこと長谷川京子の抜擢である。
雑誌モデルのカリスマ元祖でありCM女王ともいわれた彼女のテレビドラマはあんまり見ないのでよくわからないが、出演映画といったら泣きそうになる演技ばかりである。
冒頭からサングラスをかけた一人旅らしい彩子をカメラは追いかける。
英語がしゃべれる人が少ないのか、それとも片言はしゃべれても訛りがきついのか、彩子は苛立っており、せわしげに雑踏をかいくぐる。
暑いのか、上着を脱いでタンクトップ姿になる。
アジアの街中で、タンクトップで肌をさらして歩く若い旅行者の(美しい)女。
それだけで、げんなりしてしまう。
「なにさまだ、この女は!」と、観客の側が腹が立ってくる。
タクシードライバーとの諍いも、勝手にこの女がつくりあげた被害妄想であろう。
森の中の一軒家に誘導されて、言葉は通じないまま、不思議と癒されていく。
自意識過剰の女の、頑なな筋肉のこわばりが、タイ式古式マッサージのおかげで、緩和してきたのかもしれないが、その親切に対する反応も、どうにも感謝の念がうすい。
たしかに穏やかな空気が満ちればそれでいいのかもしれないが、彩子はコミュニケーションの努力をしようとしない。
辞書を指し示せというつもりはないが、もっと身振り手振りで伝えるとか、絵を描くとか、やりようがあるだろうに。
結局「滞在した七夜」を通じて、彩子は自我から少し開放されたかはしれないが、たかが旅行者ではないのか。
フランス人青年もよくわからない。
このゲイの青年は、何を甘えて、この空間で寝転んでいるのだ?
フランス語で懸命に話しかけるのだが、相手に通じていないのに、何をおしゃべりを繰り返しているのだ?
タクシードライバーもよくわからない。
娘とうまくいってないようであり、暗い目をしているが、たぶん本当は子煩悩の「いい人」なのだ。
だけど、車をほっぽりだしたまま、なぜ当たり前のような顔をして、この家にいついている?
アマリ親子の父親は、日本人であることが、物語の半ばから明かされるが、その設定自体がなぜなのか、よくわからない。
だからといって、ほとんど片言の日本語も不自由なようで、コミュニケーションが成立しているとは思えない。
「いつか日本に行ってみたいね」というが、彩子には「日本」の面影があるのだろうか?
国籍不明のいまどきの、礼節を知らない、若い女性のようにしか僕には見えない。
河瀬直美監督は、あえてそうした不自然な設定の中で、それでも通い合うような世界を、彩子からみれば異国のこの自然時間の中で、映像に映し出そうとしたのだろう。
自らも、異国のスタッフに囲まれながら・・・。
たぶん、奈良のいつもの見知った地元出演者に演出をほどこす距離感から、遠く離れて・・・。
けれども、欧米の映画人からみれば、アジアの奇妙なオリエンタリズムを刺激するかもしれないが、彩子の甘やかされた「自分発見」あるいは「リセットの旅」に感じるいい気なものだという思いにも通じて、河瀬監督がこういう設定で、本当のところは何にチャレンジしたかったのか、あるいはその意図が貫徹できたのかどうか、僕にはまるで分からない。
アマリの日本人とのハーフの息子であるトイは出家することになる。
なぜか、タクシードライバーも剃髪している。
それはそれで、タイに根付いた出家の思想であり、村人たちはお祭のようにこの新しい出家僧を踊りながら、送り出す。
彩子もグレッグも愉しそうに村人に混じって笑いながら踊っている。
どうやら、後方では、この映画のスタッフたちも踊っているようだ。
わからない。
グレッグも彩子も、表面的に、タイの古層の文化に触れて、自己満足しているだけではないか?
そういう意味では、河瀬監督も、この作品のプロデューサーも、意識はそれほど違うわけではないのでは?
七夜の朧な夢物語であればそれでいいのだが、セミドキュメント風に撮られたこの作品に対しては、ちょっと意地悪く「グレッグも彩子もお世話になった分、マッサージ代も合わせて、滞在費をちゃんと払えよな」などと思ってしまうのだ(笑)。
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「殯(もがり)の森」
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喜劇調ですか。
彼女には無理でしょう。
そこはかとない、奈良の庶民の民話風のおかしさ、おもろさなら、得意でしょうけどね。
こんな寓話的な設定に即興演出という手法を選ぶのも僕みたいな凡人には何だかなあという気がします。
最初は喜劇にするという話もあったようですが、冗談だったんでしょうか。
喜劇は即興演出ではなかなか難しいので、彼女のお得意な手法を止めることになったでしょう。それはそれで観てみたかったなあ。
最後に、弊記事までTB&コメント有難うございました。
前作は尾野真千子でしたが、とても惹かれました。
トラックバックありがとうございました。(*^-^*
長谷川京子ではなく、尾野真千子だったなら少しはマシだったかも?^^
七夜の何を待つのかもイマイチよくわからなかった作品でした。。。