サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10439「四川のうた」★★★★★★★★☆☆

2010年02月10日 | 座布団シネマ:さ行

ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した『長江哀歌(エレジー)』のジャ・ジャンクー監督によるセミ・ドキュメンタリー。大地震が起こる直前の中国四川省・成都で再開発のため閉鎖される巨大国営工場「420工場」を舞台に、そこで働いていた労働者たちが語るさまざまなエピソードを通し、中国がたどってきた激動の歴史を浮き彫りにする。文化大革命や自由化政策など、目まぐるしい政治的変動の中でたくましく生き抜いてきた人々の姿が深い感動を誘う。[もっと詳しく]

50年の歴史を持つ軍需国営工場の、最後の1年が饒舌に語るもの。

『四川のうた』の舞台になっている省都である成都は、三国志時代は蜀の都があったところで、三国志の発祥の地ともなっている。
人口は1000万人を超えており、2000年から大号令がかけられた「西部大開発」の拠点都市ともなっている。
文化大革命以降の中国のドラスティックな経済変化を描こうとする『四川のうた』の着想そのものは、ジャ・ジャンクー監督が『プラットホーム』(00年)で、80年代の自由化が押し寄せる中国の地方都市の文化劇団に属する、若い男女4人の生活の激変とそれぞれの生き方を描いた頃から、持っていたようだ。
しかし、中国の現代はあまりにもめまぐるしい動きをしている。
どのような素材を撮影対象とするか、彼はずっと悩んでいた。
そんなある日、成都にある空軍関連の製造施設である半世紀の歴史を持つ国営工場(420工場)が、2007年いっぱいで取り壊され、その跡地は民営の不動産会社に売却され、住宅やショッピングゾーンを含む一大開発地域に生まれ変わるという新聞記事が目に留まったのだ。
ジャ・ジャンクーは、3万人が失業をし、10万人の敷地内に住む労働者家族に影響を与えることになるこの場所を取材しようと決意したのだ。
たぶんいまその場にカメラとともに入り込まなければ、その「事件」を証言することができなくなると確信したのだろう。
それは、前作『長江哀歌(エレジー)』で中国の一大国家事業である「三峡ダム」建設で伝統や文化が「水没」してしまう古都・奉節を、まずどういう映画を作るか以前に、カメラを持って記録し始めたことにも似ている。



ちょうどこの頃、成都から北東に列車で2時間ぐらいのある都市に、僕は仕事で三度訪れたことがある。
半年おきぐらいに行く度に、「ほんとかよ!」と呆れてしまうぐらいのスピードで、町や開発地域の景観が変化している。
そのなかで窯業関係であるが、1万5千人の従業員を抱える古い国営工場を見学したことがある。
お世辞にも近代的とは言い難い、労働集約型の古典的工場である。
その都市が先端技術をとりいれてつくろうと躍起の新設工場団地に展開するにあたっての「新技術」を核とした事業PJを、彼らは求めていたのである。
「この従業員はどうするのですか?」と僕たちは聞く。
「3分の2はリストラですね、新工場は機械化工場にしようと思いますから。それが当局の方針でもあります」
「リストラされた従業員は?」
「この町の発展はすごいでしょう。新しいデパートもでき、どんどん新しい産業も生まれています。やる気のある人間はなんとでもなりますよ」
共産党の若きエリートは、自慢げにそう言ったものだ。



ジャ・ジャンクーは『四川のうた』で、「420工場」にかかわる100人以上のインタヴューを経た後、8人の労働者にナレーションさせるという方法で、この作品を構成している。
そのうち4人は、名前の知れた役者に演じさせており、それ以外はすべて地元の労働者が被写体となっている。
全体としてはセミ・ドキュメントのスタイルをとっているが、ドキュメンタリーとフィクションがまことに見事に、計算され編集されているように思える。
50年という長い歴史の中に、労働者たちのいろんな体験が積層されている。
働きづめで体を壊してしまったが、自分に仕事を教えてくれた班長をなつかしむ労働者がいる。
十数年ぶりに故郷である瀋陽の祖父母に会うために帰郷した両親の涙を、いまさらながら思い起こす女性労働者がいる。
リストラが決定し、「自分はなにか悪いことをしたか?」と問うが、上司も「そんなことはない、決定なのだ」と弁明し、そのあとの職探しの苦労を語る人がいる。
「職場の花」と持て囃されたが、男女が自由に交際できる時代でもなく、いつのまにか婚期を逃してしまった上海から来た女性がいる。
21歳で夫と赤ん坊を連れて15日をかけて成都を目指したが、途中で赤ん坊と生き別れになってしまった思い出を、涙ぐみながら語る点滴を欠かせない女性がいる。
16歳の時の果たせなかった恋を語る男性がいる。
もうすぐ稼動を終えようとする工場やその周辺で、彼らは生真面目にカメラに向き合いながら、語り出す。
「語り」はカメラによってとらえられる「動き」の一つとしてとらえられている、とジャ・ジャンクーはコメントしている。



軍事にまつわる機密工場でもあっただろう「420工場」は、周囲の第二次産業の労働者と較べても、比較的恵まれていた待遇ではあったという。
工場内に、商業施設も映画館もすべての施設があり、つまりはこの工場施設の中で、すべての生活が営まれていたのだ。
退職した高齢者には、麻雀娯楽室なども備えられていたのだろう。
この「420工場」は、中国の大躍進政策、文化大革命、大飢饉、ベトナム戦争、高度成長、大不況・・・などすべての現代史を見つめてきたのだ。
そして、この作品が完成した翌年から現在にかけて、四川地震があり、北京オリンピックが開催され、リーマン・ショックからの世界同時不況があり、その後の数百兆にのぼるインフラ投資があり、世界が羨む経済成長の中で貧富の格差はますます拡がり、地下経済は膨張し、上海万博を間近にしているのである。



この映画の最後の「語り」として登場するのは、82年生まれのセンスよく化粧したキャリア・ウーマン風の女性である。
香港との間で、富裕層に向けたブランド品買い付けなどのバイヤーをやっており、ローンで自家用車も持っている。
両親は彼女に学歴を持ってもらうために、懸命に工場で働いたが、彼女はその期待を裏切り、男たちとの同棲を繰り返すプータロー生活を続けた。
ある日、仕事で「住民票」が必要であったため、久しぶりに家に戻ったが、鍵も持っていない。
工場に母親を探しに行くと、鋼鉄の塊を黙々と前屈みに運び続ける老いた母の姿を見て、思わず工場を飛び出してしまったと涙ながらに語る。
彼女は、「チャンスに満ちた」いまの中国で、絶対にお金を儲けるのだ、と決意している。
そして、家を買って、あの母親を住まわせてあげたい、と。
僕たちは、こういう女性を見て、拝金主義などと揶揄することはできない。



50年の流れの中で、「402工場」で働きながら、束の間の休息を愉しみながら、激変する環境に立ち向かいながら、いつも「うた」が流れていた。
そのときどきの流行歌であったり、はじめて「自由恋愛」ということで衝撃を与えた山口百恵の『赤い疑惑』のテレビドラマシリーズの挿入歌であったり、インターナショナルであったり、歌劇の歌であったり・・・中国の古典詩やイェーツの箴言を挿入しながら、ジャ・ジャンクー監督は、歴史の激動による運命には逆らえない大衆の小さな小さな証言を汲み取ろうとしている。
そして、どこかでその歴史をくぐりぬけた形で、「個人と自由」という思想が若い世代に当たり前のように根付くことを期待している。
中学生の女の子が、新旧いれかわる成都の街をバックに、ローラースケートをしている。屈託ない笑顔で、軽やかに・・・。
この子たちは、自由なファッションも身につけられれば、自分の求める職も得られるかもしれないし、世界とも交信出来るかもしれない。あるいはそんなことは楽観かもしれない。
単に、中国式資本主義万歳!ということではない。
この女の子のこぼれるような笑顔のために、現代史に翻弄されつつ、歯を食いしばって生き抜いてきた親や祖父母の世代が存在したのだということを、信じたいというジャ・ジャンクーたちスタッフ陣の切なる思いなのだ。

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