サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

402日目「幕末の北方探検家/松浦武四郎(静嘉堂文庫美術館)」世田谷区

2013年11月16日 | 姪っ子メグとお出かけ

姪っ子メグ おじさん、また岩崎清七さん関係のお仕事してるんだって?前に評伝書いたの、2012年だったよね。
キミオン叔父 お孫さんたちにあるラインから頼まれてね。本屋に流通させるものではなく、関係者に配布する位置づけで。そのお孫さんたちも皆さん70歳代だったから、祖父の仕事をもう一度若い人たちに伝えようと言うことで。岩崎清七さんは、これはもうすごい実業家なんだけど、オジサンも全然知らなかった。彼自身が書いた三冊の本が残っているんだけど、これをベースに評伝のスタイルにしたわけさ。
読ませてもらったよ。明治・大正・昭和と生き抜いて、終戦後ほどなくしてお亡くなりになった。表題が『不撓不屈』になっていたけど、こんな激動の人生を歩んだ人がいたんだって感動したわよ。
岩崎清七さんは日本人がまだほとんど海外留学していない時代に、エール大学で学ぶんだ。清七さんの祖父の時代から商売をやっていた家系で江戸時代から関東では名高かったけど、決して士族、後の時代では華族・貴族の人ではないからね。そういう青年が留学するなんて、前例がなかったの。帰国して、渋沢翁なんかから第一銀行に入ってくれとスカウトされたけど、彼は家業をつぐんだね。そこから先は、産業実業家として、多くの企業を立ち上げながら、財閥や役人や政治家と激しく丁々発止して、 最後は支那戦争を終結させようと私財をつぎ込んだりするけど、適わなかった。
産業人の代表として、アメリカやヨーロッパを視察したり、満州あたりを業界代表で訪れたり。とても漢詩が得意だったんでしょ?
そうそう。でも評伝にする時、そこが一番苦労したの。だってオジサンは漢詩の素養がないんだもの。恥ずかしいけどさ。そのあたりはかなりはしょってしまったけど(笑)。でも自分でもすごく勉強になったの。登場する人物だけでも百人ぐらいになるんじゃないかな。
今回の仕事は?
その評伝の時も参考にしたんだけど、小川桑兵衛という人が、晩年岩崎清七の身近にいたんだけど、昭和24年に『日本の興亡と岩崎清七翁』という本を書いてるの。もう絶版になっていて、図書館にもないみたいだから復刻しようかという話になって。でも若い人は読みにくい旧仮名遣いが多かったから、現代語仮名遣いに書き改めたの。まあ150頁ぐらいだけどね。今回は再構成しての評伝ではないから、仕事としては簡単だったけどね。
岩崎清七翁にまつわる伝説として、もともと藤岡の地が岩崎家の発祥なんだけど、その系列が土佐に移住して、三菱の祖である岩崎家になったという話があって、清七翁も「三菱の岩崎家はうちの分家だよ」なんて言ってたらしいとあったわね。
まあ、そのへんはサラリと触れるに留めたんだけどね。いまの岩崎商店も三菱ビルに入ってるから、遠慮してさ(笑)
今日の静嘉堂文庫美術館は、その岩崎家の第二代社長の岩崎彌之助と第四代社長の岩崎小彌太の父子二代によって設立されたところよね。
そう。初代岩崎彌太郎は豪放な性格で、海運事業として三菱の土台をつくった。弟の彌之助は16歳ぐらい兄と年齢は離れていたけど、思慮深く温厚な性格。米国にも留学し、事業は海運業から鉱山・炭鉱・造船・金融・保険へと拡げていった。兄と違い、若い頃から、刀剣・書画・茶道具なども蒐集しており、とくに東洋の古美術に関して造詣も深かった。その息子の小彌太は、特に中国陶磁を系統的に蒐集した。
そのコレクションの展示場所も深川の別邸、神田駿河台の自邸、高輪の邸宅などに変わったけど、関東大震災のあとにもともと父の霊廟を建立したここ岡本に洋館をのちには美術庫や鑑賞室を建立して現在に至っている。
父の霊廟もコンドルの設計だしね。このあたりは、いまでも散歩にうってつけだな。



さて、今日はその静嘉堂文庫美術館で、おじさんの地元伊勢松阪の出身の北方探検家松浦武四郎の幻のコレクション初公開ね。
前に、メグとも京橋のINAXギャラリーで松浦武四郎の展示会に行ったよね。地元松阪にも松浦武四郎記念館は出来ているんだけど、オジサンはまだ行ってないの。平成6年開館だから、もう20年前に出来てるんだけどね。今回はここ静嘉堂が所蔵する「武四郎旧蔵考古遺物コレクション」の中から選ばれたもので初公開になるらしい。
松浦武四郎って、もちろん「幕末の北方探検家」で、「北海道の名付け親」でということなんかは知られているけど、実際に北海道には13年間、6回にわたって調査して、膨大な書物は残しているけど、その後は全国を旅して歩き、考古遺物のコレクターとしても有名だったのよね。だからどの時点かわからないけど、静嘉堂がそのコレクションを買い取ったんでしょうね。あるいは分捕ったか(笑)。
そりゃ、松阪の記念館にも松浦家から数多くの資料が寄贈され、1500点余りが国の重要文化財に指定されているけどね。でも、結構、価値が高いものはこちらに持ってかれて、悔しがっていたりして(笑)
でもさ、武四郎って、いろんな顔を持ってるよね。まずは探検家の顔。それから出版人としての顔。あと途中で喧嘩して長続きしなかったけど、一時期はお役人でもあった。若くして本草学を学び、平戸では僧になったりしている。浮世絵師の画号も持っていて錦絵もものしてる。
コレクターでもあるし、風流人でもあり、最後の方は地元で登山家みたいなこともしてる。
スケールの大きな人だったと思うな。北海道探検でもアイヌの人たちに感情移入していて、松前藩に批判的な物言いをして、命を狙われたりもしている。まあ、北海道時代のポジショニングに関しては、後世の史家でもいろいろ評価が分かれているところもあるけどね。
でもさ、武四郎の写真なんかを見ると面白いよね。あんまり構えていなくてさ、飄々としている。コレクションの遺物かなんかしらねいけどさ、ネックレスみたいに首から下げている。本草学もやってたから絵がまたうまくて博物学的に観察しての写生画も多いし、一方で漫画のように滑稽な描線でスケッチをしてたりもする。
脚本次第だけどさ、すごく面白いドラマが作れると思うの。NHKの大河ドラマとかさ。でもそんなのやるにはすごくお金がかかるみたいだし、松阪じゃ無理かもなぁ。あと、アイヌに対する差別の問題も、まだまだタブーなことが多いしね。

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『幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷展』(INAXギャラリー)
 


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