サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 08301「たとえ世界が終わっても」★★☆☆☆☆☆☆☆☆

2008年05月28日 | 座布団シネマ:た行

短編映画「演じ屋」シリーズやテレビドラマ「駄目ナリ!」で、若いファンを獲得した野口照夫の長編映画デビュー作。この“時をめぐる3部作”と題する連作の第1作で描かれるのは、生と死をめぐるスピリチュアルなファンタジー。日本、イタリア、カナダの合作映画『シルク』のヒロインに抜てきされた新人の芦名星に、TEAM NACSの安田顕、そして大森南朋といった実力派が競演。ヒロインが再生していく過程は、切ないながらもじんわりとした幸福感に満たされる。[もっと詳しく]

展開のすべてが読めてしまう。そのことに、苛立ちがつのる。

こうしたインディーズ監督の長編映画デヴュー作品は、たぶんとてつもなく低予算で、興行(上映館)のさしたる保証もなく、クランク・インしたに決まっている。
ほんとうは、こういう映画にこそ、期待しなければいけないし、よいところを少しでも評価しないといけないと思うのだ。
けれども、「自殺サイト」の登場、「練炭による車中での集団自殺」という相次いだ社会現象、といったある意味で旬なテーマを織り込みながら、安田顕や大森南朋といった渋好みの役者を起用しながら、ベテランでは平泉成や白川和子といった出てくるだけで嬉しくなってしまう人を据えて、あるいは大型新人というふれこみの芦名星を指名しながら、僕にはスピリチュアル・ファンタジーと銘打ったこの作品は、邦画の新人監督の陥りやすい罠に嵌り込んでいるように思えるのだ。



宮野真奈美(芦名星)は余命数年と告げられ、職場では誰にも打ち明けないが、自暴自棄になっている。
ふとしたことから自殺サイトに誘われて、ある夜電車に乗って、待ち合わせの駅に向かう。
管理人である妙田(大森南朋)は、真奈美など数人を乗せて、車で「実行場所」に向かう。
妙田は結構、オチャラケるが、自殺の道連れ人たちは、暗く、固く、自閉している。
妙田は、「腹が減ったからラーメンでも食べよう」とか「最後だからボーリングに付き合ってくれ」とか、メンバーを引回し、結局「自殺決行」のタイミングを逃すことになる。

後日、妙田は真奈美と再会し、自分が管理人でもあるアパートに真奈美を招く。
そこでは、奇妙な住人たちが、奇矯な行動をしながら、ゆるやかに妙田に保護されているような印象を受ける。
妙田は「苦しまずに死ぬ薬」をあげるということを条件に、アパートで働くカメラマン長田(安田顕)は末期癌であるが治療費もないので真奈美と偽装結婚をし、真奈美の生命保険を長田にあげて欲しいと依頼する。
死ぬことしか頭にない真奈美は了承し、ふたりの交際の証拠写真を撮ろうということで、車に真奈美と長田を乗せ、妙田は遠出をし、あるところで二人を下ろし、自分は先に帰ってしまう。
そこは、長田が勘当同然で家出をしてから15年ぶりに戻ることになった故郷であった・・・・。



自殺に心が傾斜している者たちに、どうやって生の側に引き留めたらいいのか、僕にはえらそうなことは何も言えない。
そのとき、なにかの場に立ち合わせて、あるいはその傾斜する心を感知して、なんらかの行為ができるのか、そうなってみないとわからない、というのが正直な思いだ。
ここで、野口照夫監督が、脚本として用意したのが、妙田というある意味道化役のような男である。
妙田は一見すると「死」への道先案内人のようにみえるが、実は天使のような「死」を阻止する役割が与えられている。



いや「死」そのものではない。妙田は、運命そのものは、否定していないからだ。
もともと、前世からの「縁」の監視人のような性格も併せ持たされていて、どちらかというと、運命に逆らうような行動を修正するような役割といったほうが、正確かもしれない。
だから「自殺」というのは、そもそもの運命(自然死あるいは寿命)に背く行為であり、それは不自然なことなのだ。
真奈美と長田は会うべくした機縁のもとで、妙田のちょっとした計らいで、結ばれることになる。
真奈美は自殺の観念を忘れることが出来るし、真奈美によって親に再会した長田は、ずっと抱え込んでいた悔悟の念から解放されることになる。
けれども、運命そのものが、チャラになるわけではない。
長田は駅のホームで飛び込みそうになった女を助け、命を落とす。
その女は、映画の冒頭で、真奈美と一緒に約束の駅まで来て、そのまま降りずに帰ってしまった女であった。



こうして粗筋を追いながら、「たとえ世界が終わっても」という大袈裟なタイトルをつけたこの作品の、どこに僕は苛立っているのだろうか?
同じ大学映画部出身メンバーと主力会という映像制作集団をつくり、それなりのファンも持っている実直そうな野口照夫監督に、落胆しているのだろうか?
「時をめぐる三部作」の第1部とされるこの作品だが、たぶん続編も期待できないな、となぜ決め付けてしまうのだろうか?

言いたいことはいくつもあるのだが、ひとつだけあげれば、この寓話はすべて予定調和になっており、どこにも観客を裏切ったり、飛躍させたり、躊躇させたり、するところがないということなのだ。
起承転結を考えて、よく構成しましたね、というだけだ。
自殺に向かう電車のひとりが(赤い服の女)が行為を翻すこと。
集団自殺が、結局は、回避されるだろうこと。
長田と真奈美は不器用に結ばれるだろうこと。
故郷で親と和解を果たすだろうこと。
公園でこどもの写真を撮り、最後に昔の思い出でしゃべっていた四つ葉のクローバーを撮れたこと。
そして、最後にもう一度赤い服の女が登場するだろうこと・・・。



これらの物語の進展は、映画を見ながら、「たぶん次はこうなるんだろうなあ」という僕の読みを、あまりにもドンピシャと裏切ることがなかった。
たとえば、駅のホームで幸せそうに、ちょっと離れた場所にいる長田と真奈美が写る場面でもいい。
カメラがホームに続く階段に振られる。
僕は、このとき、一秒の誤差もなく、「あの階段の上から、きっと赤い服の女が下りて来るぞ」と思い、その通りであった。

たぶん、テーマを構想し、脚本を構成し、画面を展開する中で、現在の若手監督は大きくふたつに分かれるのだと思う。
そこに破調とギャグやコミカルな演技を突っ込みすぎて、ただいまどきのテレビ芸人のように騒がしいだけになってしまう作品と。
もうひとつは「たとえ世界が終わっても」もそうなのだが、あまりに優等生的なこじんまりとした心温まるヒューマンストーリーをつくり、「文句の言いようも突っ込みもしないけど・・・」と脱力させられる作品と。
もちろん、そうではない作品もあることはある。
けれどここには、大きな物語への取り組みも、映画体験の新しい表現の屹立も、物語の不可能性への居直りも、細部にこだわるマニア的視線も、なにもない。
そのことに、たぶん僕は、苛立っているのだ。










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