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ブログ的なアレです。

イタリア旅行記(17)フィレンツェの残り

2010年04月29日 | 旅行とか出張とかアレとか
というわけで、残りのフィレンツェを書きたいと思います。
例によって長くてすいません。

さて、この日は朝の6:30から行動を開始したわけです。
というのも、昼過ぎにはフィレンツェを出発して、イギリスに戻らなければならなかったので。

というわけで、まずはサンタ・トリニタ橋を通り、南へ。



左手にポンテ・ヴェッキオが見えます。



そして、薄暗い通りを抜けながら、ピッティ宮を目指します。



どうでも良いんですが、こういう青って、何だか人を遠ざけるような色だよなーと。
暗澹たる陰鬱な青というか、ヨーロッパ映画とかに出てきそうな青というか。
少なくともイギリスだと、こういう何者をも寄せ付けない青っていうのは無い気がするな・・・なんてことを思っていました。

そんな話はさておいて、ピッティ宮。
この中には膨大なアレが色々とあるのですが、朝の7:00に開いているわけもなく。



ただ、ホントはものすごく行きたかった。
残念。



なので、ピッティ宮の雰囲気だけ味わって、今度はグィッチャルディーニ通りを北へ上がります。



なお、この時点では「わが友マキアヴェッリ」を読み終わっていなかったので知らなかったのですが、どうやらその昔、塩野七生女史の友、マキャヴェッリがここらへんに住んでいたらしいです。

ついでにこの「グィッチャルディーニ通り」について。
イタリア語で書くと "Via de'Guicciardini" になるんですが、この "Via" というのは英語でも使われます。
「○○行き」だとか「○○経由で」といった形で。
なので、この通りの名前も、本来は「グィッチャルディーニ通り」じゃなくて「グィッチャルディーニ家(フィレンツェの名家)の屋敷に向かう道」という意味だったんだろうなと。

加えて、ジェノヴァでも見かけた "Via Roma" という通り。
これは、ジェノヴァに限らず色々な町で見かけるわけですが、要するに「ローマ行きの道」と。
全ての道はローマに続いていたわけです。

さらに、"Via" が未だに英語で使われているというのも面白いなと。
その昔、イギリスはローマ帝国に占領されていた時期があって、ロンドンなんかも単にローマ帝国の駐屯地でしか無かったわけです。
そういう何世紀も前に使われていたラテン語が("Via" に限らず、"concentrate" とかもそうですが)未だにずーっと使われ続けているというのは、何だか悠久の時代を感じるというか、ロマンが詰まっているというか・・・個人的には大興奮ファクターです。

そこらへんを書き始めるとマジで長くなりそうなのでここらでやめておきますが、いやー、ホント面白いですよね。




というわけで、グィッチャルディーニ通りを、ポンテ・ヴェッキオ手前でクイッと右手に曲がり、今度はベルヴェデーレ要塞を目指します。
高台から早朝のフィレンツェを眺めたいと思います。



こういう、そこそこの勾配のある坂を延々と登っていくわけです。
なかなかの重労働です。



で、かれこれ15分ぐらい登ったでしょうか。
坂の上に辿りつくと・・・



閉まっております。

何これ?
自由に入れる公園みたいなところがあって、そこに展望台があるんじゃなかったの?

ちょっと別の入口試してみるか・・・。



閉まっております。

なんだよ!閉まってるじゃねーかよ!
「地球の歩き方」にそんなこと書いてなかったぞ!多分。

ベルヴェデーレ要塞
催事のみ開場
'09年5月現在、閉鎖中
要塞内部に入らないと、町を見下ろす風景は楽しめないが・・・(以下略)


ほほー。
じゃあ・・・次のところへ行きますかね。



というわけで、再び坂を下り、





アルノ河まで戻ります。



ベルヴェデーレ要塞に行ったがために30分ほどのロスを強いられましたが、まぁ、これも旅のアレだということで。



で、ナントカグラッツィエ橋。






ここから見る朝日は何とも穏やかで儚くて、このまま風景に溶け込んでしまいそうになりました。






塩野七生女史はアルノ河沿い(ここよりもっと下流のところ)に住んでいらっしゃったみたいですが、



俺も、いつかは!

と心に固く誓ってはいないですが、まぁ、でもフワッとは誓いました。

ちなみに河がこんなに穏やかなのは、上流の方で堰き止めをしているからです。
下流の方でも堰き止めしています。



さて、そんな心地よい風景を後にし、足を向けたのがサンタ・クローチェ教会。



マキャヴェッリの墓が中にあるので入りたかったのですが、復活祭につき閉館。
中に入りたかったなー。



ちなみに、教会のファサードに六芒星があったのですが、



何故これがあるのかが謎。
あんまり他の教会とかでは見かけないので。

フランチェスコ派が何かのシンボルで使ってたとか、そういう感じかなー。
まだ調べていないので今後の課題ということで。



続いて、進路を西にとり、バルジェッロ国立美術館。



再び中には入れず。

ここ、今は国立美術館ですが、元は行政長官の館で、牢屋なんかもあったらしいです。
そこらへんは塩野七生「銀色のフィレンツェ」で生々しく描かれているのでご存知の方も多いはず。



で、そこから南へちょいと行くと、再びヴェッキオ宮に戻ってくるわけです。



さて、このヴェッキオ宮について、1498年6月19日当時の描写を、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」から引用したいと思います。
マキャヴェッリという人は、フィレンツェ政府の官僚を経て、自称歴史家・喜劇作家・悲劇作家となった人であり、塩野七生女史の友です。
1498年6月19日は、マキャヴェッリが官僚として初登庁した日です。

パラッツォ・ヴェッキオ(政庁)前のシニョリーア広場は、ほぼ現代と同じ広さであったはずである。しかし、舗装は、石ではなくて赤いレンガの時代だった。政庁を正面にすれば左側に立つブロンズの騎馬像は、フィレンツェ共和国崩壊後のトスカーナ大公国初代大公コシモ・ディ・メディチの像だから、共和国健在の当時はまだない。





政庁に近接して水を噴きあげる海神ネプチューンとニンフたちの群像も、マキアヴェッリの時代にはまだない。





政庁の正面を飾るミケランジェロ作のダヴィデの虚像は、一五〇四の完成だから、初登庁の当時は眼にしなかったにしろ、その後は毎日いやでも眼に入る存在だっただろう。





これ以外は、ドナテッロ作のジュデッタの像をのぞいて、ロッジアと呼ばれる屋根つきの集会所の中に現在置かれている像の多くの像は、マキアヴェッリの時代にはなかった。



ロッジアは、雨が降っても市民の集いに支障をきたさないためという当初の目的を、当時はまだもちつづけていたのである。フィレンツェが、都市国家の中心であった時代が過ぎ、君主国家トスカーナ大公国の首都に変る十六世紀半ば以降からは、ロッジアも広場も、市民の集いの場から、君主の権勢を示す展覧会の場所に変わってしまったことになる。

だが、マキアヴェッリの時代の政庁の主は、まだ共和国ゴンファロニエレ(大統領)だった。だから政庁の正面入口のすぐわきには、政庁を守るかのように、赤いあやめを描いた盾に前脚をかけた獅子の石像が立っていた。



野生の赤あやめは、都市国家フィレンツェの紋章である。この獅子は、場所は少し移動させられたにしても、現在でも政庁の前にある。



パラッツォ・ヴェッキオを、正面からではなく、横から眺めると、不釣合に増築されたことが誰にもわかるが、この二分の一弱におよぶ増築部分も、大公国時代になってからの産物である。



(中略)わずか半世紀のちがいにすぎなくても、二つの時代の美的想像力のちがいを見せつけられる想いがする。




さ、無駄に長くなってきたので、残りをサクッと。

ウッフィツィ美術館。



元々政庁の一部です。



開館15分前に並んだのですが、既に行列が。
長蛇の列、という程ではなかったものの、うーん、どれくらい待ったのかな?それでも20分くらいは待ったような気がします。



ちなみに、右側のベニヤ板っぽいアレのちょい先が入口。

で、ウッフィツィ、面白かったです、かなり。
詳細は今日は割愛します。



で、最後。
Pineiderという革製品の店。



散財しました。

で、ここからダッシュでサンタ・マリア・ノッヴェラ駅へ。
そこからピサへ向かい、なんちゃら空港から飛行機でイギリスに戻ってきたという次第です。



それにしてもフィレンツェ面白かったなー。
復活祭とかぶったせいで行けないところも多かったのだけれども、まぁ、それは次回フィレンツェ・ローマ旅行で挽回ということで。
あと、これは強がりじゃなくて、一人旅、すげー楽しいです(飯の時間以外は)。

というわけで、旅行記は一応これで終了です。
後日、気が向いたらサヴォナローラ、コジモ1世、ウッフィツィ美術館あたりを書こうかなー、なんて思ってますが、まぁ、気分次第ということでアレを色々とよろしくお願いいたします。



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2 コメント

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ひとり旅 (耕太郎)
2010-05-07 03:17:02
楽しいですよね。あの誰にも縛られない、自由な感覚。
それにしても、フィレンツェは良い街ですね。また行きたいな。ただ、ここはできれば女の子と。
返信する
Unknown (けんた)
2010-05-08 07:05:04
なんと言っても「フィレンツェのドゥオモは恋人たちのドゥオモ」ですからね。
返信する

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