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ブログ的なアレです。

サヴォナローラ

2010年05月12日 | 旅行とか出張とかアレとか
巷でちょっとした物議を醸し出している動画があった。

デキビジ「勝間和代 VS 西村ひろゆき」
デキビジ 勝間 vs ひろゆき 議論



この動画を見ながら、とある歴史的人物を思い出した。
ジロラモ・サヴォナローラだ。

サヴォナローラは15世紀にフィレンツェにいた修道士。
修道士なのにフィレンツェの実権を握ってしまった人物だ。



(出典:Wikipedia - ジロラモ・サヴォナローラ

当時、フィレンツェにおける政権は、ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチによって握られていた。
フィレンツェ市民の絶大な支持を得たロレンツォ・デ・メディチの息子だ。

ピエロは「偉大なるロレンツォ」とは異なり、些か人望や能力やに欠けるところがある人物だった。
ただ、それでも何とかギリギリのところで執政を振るっていた。

ところがある日、事件が起きる。
フランス軍がナポリ攻略を目指して南下しているという情報が入るのだ。
フィレンツェにとってみれば、フランスもナポリも同盟軍。
どっちに味方をしても不義理になってしまう。

ここでピエロはフランスに投降してしまう。
フランスの軍事力を恐れてのことだった。

このピエロの弱腰な態度に付け入ったフランス軍は、物資や金銭的な援助を求める。
さらに、フィレンツェ近辺の村々を攻略したり、フィレンツェ市内で数々の問題を起こす。
当然、フィレンツェ市民はフラストレーションを募らせていく。



ここで登場するのがサヴォナローラ。
市井の代弁者として登場し、過激な言葉で人々を煽動し始めたのだ。

以下、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」より抜粋。

十一月一日、フィレンツェの街中では、恐怖におびえる民衆を前に、サヴォナローラが説教する。

「これこそ神のくだしもうた剣だ。わたしの予言は的中した。鞭がふりおろされる。神自らが、あの群生をひきいておられる。これこそ、神のくだしたもうた怒りの試練だ!

おぉ、フィレンツェよ、ローマよ、イタリアよ、歌と踊りにあけくれるときは過ぎたのだ。今や、涙の河が流れる。わが民よ、悔いあらためて改心するのだ。神に近づくのだ!主イエスよ、われわれの罪のために、われわれへの愛のために死なれたお方よ。許したまえ、あなたの子羊であろうと努める、このフィレンツェの民を許したまえ!」

(中略)

「十一月九日、日曜日、晩鐘の時刻に、武装した市民たちが政庁前の広場に集まりはじめた。



市民集会(パルラメント)を開こう、という声があがる。そこに、サヴォナローラ派として有名なフランチェスコ・ヴァローリが馬で入ってきて、『ポポロ、リヴェルタ』(民衆、自由)と叫んだ。たちまち広場中の人々が唱和した。その間にも、広場は集まってくる人々でいっぱいになり、誰もが、『ポポロ、リヴェルタ』と叫ぶ。

(後略)


この暴動により、ピエロは着の身着のままフィレンツェから逃走。
この快挙により、勝利の雄叫びを上げるフィレンツェ市民たち。
そして、その勢いそのままにサヴォナローラがフィレンツェ市の代表者として選ばれる。

サヴォナローラは、まずフランス王と会見。
平和条約を取り付けると共に、ピエロが提供してしまった金銭や土地を一部取り返すことにも成功する。
この成果に対してフィレンツェ市民は狂喜乱舞、民衆はサヴォナローラを指導者として奉り、町はサヴォナローラ一色になる。

こうしてフィレンツェの実質的な支配権を握ったサヴォナローラは、その後も「現世での贅沢はまやかしだ!禁欲と節制に徹し、信心深く生きろ!」と例の過激な口調で説き回る。

平時であればフィレンツェ市民たちもサヴォナローラの言葉には耳を貸さなかっただろう。
しかしながら不安定な情勢下においては、人はどうも時勢や風潮に流されてしまうらしい。
そこらへんは、本質的には、今も昔もあまり変わりはない。



いずれにしても、このサヴォナローラの偏重的な思想は、フィレンツェ市民に受け入れられた。
そして、その「禁欲と節制」は日々留まることを知らずエスカレートしてゆく。

翌一四九六年。

「二月七日、今日、郡をなし頭巾をかぶった少年たちが、路という路を走り回り、少しでも贅沢品を身につけている人々からそれを取りあげるという事件が起った。あれは修道士の少年たちだ、と大人たちは驚きながらささやきあった。なかには少年の群が近づくと逃げる者もいたが、それでも人々は、堕落した習慣を追放するという、"サヴォナローラの少年たち" の行為を誉め讃えていた。このようなことは、老人たちの話では、この街にははじめてのことだそうだ。わたしも、ありがたい時代に生きる幸せに恵まれたものである。


また、こんなエピソードもある。

午後は、誰もが街をねり歩く大行列に加わった。ほとんどの人が、白衣に赤い十字架をもっている。

行列がシニョーリア広場に着いたとき、そこには大きなピラミッド型につくられた贅沢品ができていた。高さは、三十ブラッチア(約十八メートル)もあろうか、周囲も、百二十ブラッチア(約七十二メートル)はあると思われる。山は七段にきざまれ、すべて謝肉祭用の色とりどりの贅沢品でいっぱいだ。

(中略)

広場は、人で埋まっていた。少年たちは、ロッジア・ディ・ランツィの中に並んでいて、聖歌を歌いはじめる。そのうちに、誰かが合図をしたらしい。ピラミッドの四隅に火が点けられた。火はまたたくまにピラミッド全体をおおう。政府の楽隊の奏楽がはじまった。政庁の塔の金が鳴りだし、それを合図のように、全市の教会の鐘も鳴りはじめた。群集は、喜びの声をあげ、神への感謝の祈りがはじまる。祈りと聖歌と鐘の音が入りまじって、ひざまずく人々の上を流れていった。

これこそ、神の国である。焼けていくピラミッドのそばに立って祈りをささげているサヴォナローラの神々しいまでの姿を、人々はひざまずきながら見上げていた。


このイベントは "Bonfire of the vanities" と呼ばれているが、日本語に訳せば「虚構のどんと焼き」と言ったところか。
対極にある思想を焼き尽くすことにより自身の信念や立場を正当化しようとする行為は、どの時代でも見られる現象だ。



ただ、こういった偏った宗教観は、次第にフィレンツェ市民を苦しめ始める。
どの時代を見ても、教理や思想で人を煽動することは出来たとしても、どこかで反動が起きてしまうらしい。
特に「華やかさと自由」を愛したフィレンツェ市民にとってみれば「節制と禁欲」は苦痛以外の何モノでもなかったのだろう。

そんな中、反サヴォナローラ派だったドメニコ宗派の僧が口火を切る。

「あのサヴォナローラってやつはクレイジーだ。もし、やつが本当に『神の遣わした預言者』であるのであれば、燃え盛る火の中ですら歩けるだろうに」

何とも不条理な発言だが、サヴォナローラの弟子である修道士フランチェスコが挑発に乗り、この "火の試練" の挑戦を受けてしまう。
再び塩野七生「わが友マキアヴェッリ」からの引用。

「四月七日、街中は朝から昂奮の渦に巻きこまれている。

(中略)

広場はすでに、"火の試練" のための舞台ができている。それは、政庁の前からななめの方向、すなわち広場の中央にせりだした形になっている。



レンガを積みかさねた土台は、高さが二ブラッチア半(約一・五メートル)あり、その上に、高さ四ブラッチア(約二・四メートル)、長さが五十ブラッチア(約三十メートル)、幅が十ブラッチア(約六メートル)におよぶ、薪の束の廊下ができている。薪の束の間には、ところどころ火薬がおかれ、油が、まんべんなく振りかけられていた。所定の時刻である正午が迫ってきた。広場は立錐の余地もないほどの人だ。広場の周囲の家々の窓までが、鈴なりの人でいっぱいだ。



武装した兵の一団が、部隊と群集の間に立って警備にあたっている。今日の主役であるドメニコ宗派とフランチェスコ宗派の修道士たちも、両派の指導者であるサヴォナローラとフランチェスコの両修道士を先頭に、広場に入ってきてそれぞれの位置についた。これで、準備はすべて終ったわけだ。早朝から広場にきて待っている群衆は、今にも火が点けられるかと、かたずをのんで見守る。

ところが、いっこうにはじまらない。

(中略。ただ、掻い摘んで話すと「キリスト像を持って火の中に入りたい」「それはダメだ」というやりとりがずっと続いていた)

その間にも、待ちくたびれた群衆から、非難の声があがりはじめた。彼らは朝から何も食べていないうえ、約束の時刻からにしても、三時間以上は待たされているのだ。不穏な空気が流れた。しかし、警備兵の手早い処置によって、また再び自分たちの場所にもどって待つ態勢になった。だが、政庁に入ったり出たりは、まだ止まない。そうこうするうち、およそ午後の五時近くであったろうか、それまで厚く雲のたれこめていた空から、パラパラと降りはじめたと思うまに、たちまちしのつく豪雨になった。そのとき、屋根のあるロッジアの中にいたドメニコ宗派の何人かが立ち上がり、



『奇跡だ!奇跡だ!神が "火の試練" を望んでおられないという証拠だ!』と叫んだ。

われわれは怒った。こちらは何時間も待たされたあげくに雨まで浴びたのだから、怒るのはあたりまえである。群衆から、怒声がとびはじめた。彼らの非難は、ドメニコ宗派に向けられた。『あいつらは、はじめからやる気がなかったのだ』『なぜサヴォナローラ自身がやらない。彼がキリスト像をもたずに火の中に入っていたら、こんなことにはならなかったのだ』『なんだって、キリスト像にそうこだわるのだ。やる気がないからだろう』

(中略)

今にも爆発しそうな広場の空気に、政府の人々の気付いたとみえ、一人が外に出てきて政府の決定を伝えた。"火の試練" は中止するというのである。


この後、両宗派の僧たちは警備兵に守られながら各々の僧院に戻る。

しかしながら群衆の怒りは収まらない。
毎日のようにシニョーリア広場に人が押しかけ「あんなの納得いくか!裁判しろ!」と叫ぶ。
ついに政府も折れ、公開裁判を行うことを決めるのであった。

ただ、これは現在で言うような「裁判」ではなく、既成事実を作るための、ある種の儀式のようなものだった。

ローマの法王から裁きをまかされ来ている司教のロモリーノが、サヴォナローラの手首に縄を結びつけるように命じた。そして、高く引きあげさせるまえに、サヴォナローラに向ってたずねた。『おまえが白状したこと、すなわちおまえは神の言葉を聴いたわけでもないのに聴いたと人々に言い、自分は神からつかわされた預言者だと広言したが、あれはすべて嘘いつわりであったというおまえの言葉を、この場であらためて認めるか』

サヴォナローラは、認めない、自分は預言者であると答えた。司教は、めくばせをした。とたんに、サヴォナローラは高々とつりあげられた。傍聴席のわれわれの頭上から、うめくようなサヴォナローラの声が降ってきた。

『認める、わたしは罪人だ。神の声は聴かなかった』その日の公開裁判は、これで終りだった」


話は一寸逸れるが、こんな話がある。

ユダにわずかな銀貨を与えて、キリストを捕らえたローマ帝国は、一応のプロセスとして裁判を行った。
しかしながら裁判の結果は無罪。
正当に判断した場合、キリストの行動は「どう見ても無実」だというのだ。
しかしながら、裁判所の外には昂奮した群衆が有罪判決を今か今かと待ち構えている。
ここで群衆に無実を伝えたら、裁判官の地位はおろか、命すら危ない。
このような事態により、裁判所の判断は覆り、有罪判決が下されたというのだ。

もしかすると、フィレンツェ市がサヴォナローラに対して行った裁判も、それと似ていたのかもしれない。
サヴォナローラの行動が正当であったかどうかを公正に判断するかどうかなどはどうでも良かったのだろう。



いずれにしても、裁判の結果、サヴォナローラならびにその弟子たちの死刑判決は下った。
フィレンツェ市民は、ようやく怒りの矛を収める。
絞首台が急ピッチで造られた。

そして迎えた1498年5月23日。
まずは、サヴォナローラの弟子二人が吊るされる。

最後に、真中にサヴォナローラがつるされる番だった。彼を信じていた者には、これが最後の機会だった。何か、言ってくれるにちがいない。何か、われわれに言葉を残してくれるにちがいない。奇跡でなくても、神の栄光を讃える言葉とか、正しく良き生活への勇気をふるいおこせとか、教会は改革されるだろうとか、不信人者は滅びるだろうとか、われわれには何でもよかったのだ。だが、彼は何も言わなかった。サヴォナローラは、低くなにごとかをつぶやきながらつるされた。それが、多くの人々を失望させ、それらの人々の心から、彼への信仰を失わせた。

絞首台の下に積みかさねられていた薪の束に、火が点けられた。それらには火薬がしかけてあり、油をかけてあったので、火の勢いはひどく強かった。またたくまに火は、高い丸太棒をはいあがり、火炎が、死んだ修道士たちをなめまわした。




(出典:"WEB Gallery of Art - Execution of Savonarola on the Piazza della Signoria"

こうしてサヴォナローラの人生に幕が下ろされた。
その後は、メディチ家が再び執政に返り咲き栄華を手中に取り戻すが、その話はまた別の機会に。



さて、今日の記事を書きながら思ったことがある。
サヴォナローラは本当に処されるべき人物だったのだろうか。

結果だけ見れば、サヴォナローラは、当時の人たちからは「悪」として捉えられた。
が、彼は同時に、フィレンツェ市の財源回復を達成するなどの「善」をもたらした。

善の裏には悪があり、悪の裏には善がある。
そこには、ある種の等価原理が働いているようにも思える。

そういう大局的な観点で言えば、サヴォナローラも、そして現代において色々と賞賛・批難されている人々も、単なる「善悪」で判断してはいけないのだと改めて気付かされる。
アムロやカミーユを「善」とし、シャアやハマーンを「悪」として断定出来ないのと同じように。



サヴォナローラの死から四世紀後、シニョリーア広場に、とある記念碑が作られた。



"The Bonfire of Savonarola" というサイトにある原文英訳を参考にしながら日本語に翻訳してみると、概ねこんなところである。

1498年5月23日、修道士ジロラモ・サヴォナローラと彼の弟子たち、修道士ドメニコ・ブォンヴィチーニならびに修道士シルヴェストロ・マルッフィが、不当な判断により、絞首、焚刑された。その4世紀後、この記念碑が飾られた。

サヴォナローラの命日には、今でも花束が置かれる。


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2 コメント

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勝間和代 (マルコポーロ)
2010-05-17 03:03:26
はどこいった。
「わが友マキアヴェッリ」が新潮文庫から改装出版されたよ。全3冊。
Unknown (けんた)
2010-05-21 07:43:17
ホントは「勝間和代のブログも炎上したしね!」みたいなオチにしようと思っていたのだけれども、何だかそれは言い過ぎかなと思ってやめた。
それにしても、この記事。
改めて読み直してみると・・・駄文だなー。

「わが友~」は帰国してから探しておきます。

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