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イタリア旅行記(4) サン・マルコ寺院

2010年02月01日 | 旅行とか出張とかアレとか
ヴェローナから電車に乗り、1時間ほど経過したあたりからだろうか、電車は突如海の上を走り始める。



この鉄道自体は20世紀になって始めて開通されたものであり、それまでヴェネツィアとテッラ・フェルマ(イタリア本土)を繋いでいたのは「船」である。



というわけで、ヴェネツィア上陸。



ラグーナ(干潟)という不安定な地盤の上に作られた街なのに、足場はしっかりとしている。反面、自身はかなり浮き足立っていた。ヴェネツィアは今回の旅行のメインなので。



さて、ヴェネツィアでの滞在記をどう書こうか悩んでいたのだが、今までのように時系列でダラダラ書いても面白くないので、特定の箇所にスポットを当てていきたいと考えている。また、以前にも予告したように、ガイドブックなどに出てくるような内容は必要以上に話が長くなるので極力省いていきたいと思う。

というわけで、今日は「サン・マルコ寺院」について。



あいにくの改装中だけれども。



サン・マルコ寺院の見所は、有名どころを挙げると、「4頭の馬の銅像」、「パラ・ドーロ」、そしてちょっとマニアックなところで言うと「聖遺物」だろう。

「4頭の馬の銅像」は1204年の第4回十字軍の際にコンスタンティノープル(現イスタンブール)から略奪してきたものである。



それにしてもこの第4回十字軍というのがヒドイ。
本来十字軍というのは、キリスト教国によるエルサレム奪還を目的として設立されていたのだが、この第4回十字軍は様々な経済的・政治的・宗教的な理由により話がこじれにこじれて、最終的には、何故か東ローマ帝国配下にあったコンスタンティノープルを攻撃・制圧してしまったのだ。

当時のヴェネツィアにしてみれば、コンスタンティノープルという重要貿易拠点の制圧によりもたらされる経済的メリットは大きかったので、コンスタンティノープルの制圧(実質的な支配)に、さぞかし狂喜乱舞したのだろうことは推測される。ただ、まぁ、結果的に見てみれば、あれは理不尽な殺戮だったとする見方が強く、戦利品だったはずの「4頭の馬の銅像」も、皮肉なことにそういう野蛮の象徴にしか見えなかったりする。

「パラ・ドーロ」は、ビザンチン美術を総結集して作られた金色の背障。まぁ、要はデカイ壁みたいなもの。豪華絢爛かつ繊細な芸術品の圧巻さも然ることながら、曼荼羅風のレイアウトが、もしかするとオリエントのテイストを組み込んでいるのかもしれないという点で個人的には興味深かった(寺院内は撮影禁止なので写真は撮ってません。気になる方はWikiあたりで検索してください)。

そして「聖遺物」。当時のヴェネツィアは、「聖○○の骨」など、聖者の遺物を祀る風習があり、それがある種コレクターズアイテム的に金銭取引されていた。その遺物自体にご利益があるかどうかはともかくとして、そして、それが本物であったかどうかは別として、こういう考え方や姿勢が、当時のキリスト教における金満主義の結果として表れた一つの事象であったという見方も出来る。加えて、その風潮自体が後々の宗教改革・反動宗教改革に繋がったとも考えられ、そういう観点から、この「聖遺物」はなかなか面白いと思ったり思わなかったり(これも写真は撮ってません)。



と、このように見所満載のサン・マルコ寺院なのだが、個人的に一番面白かったのが、この赤線部分にあったモザイクタイル。



実際のモザイクタイルを見て始めて気付いたのだが、実はこれ、物語になっている。

で、その物語をどうやって説明しようかと悩んでいたのだけれども、ここは塩野七生「海の都の物語 - ヴェネツィア共和国の一千年物語(1)」から丸々抜粋してみたいと思う。私の稚拙な説明では、ヴェネツィアの歴史的イベントを過不足なく伝えることが出来ないことを予めご理解頂ければ幸甚である。

聖マルコ
年代記によれば、八百二十八年の出来事という。トリブーノとルスティコという名の二人のヴェネツィア商人の船が、エジプトのアレクサンドリアの港に錨を降ろした。もちろん、商売のためだった。しかし、当時は、イスラム教徒との交易はローマ法王によって禁止されていたから、この二人のヴェネツィア人は、御禁制破りでもあったわけである。

彼らの見たアレクサンドリアの街は、ただならぬ騒ぎで騒然としていた。街に住むキリスト教徒たちは、家の中にひそんでいるのか、街には、口々にわめき武器をふりまわすアラブ人の姿しか見えない。例によって、カリフが、時たま起こす、反キリスト教の発作なのであった。これが起きると、黙認の形で存続を許されているキリスト教の寺院も、暴徒の襲撃を受けて痛めつけられる。

そんなことには慣れている二人のヴェネツィア商人は、それでも要心はしながら、品物を持って行くことになっていたある僧院の扉を押した。福音書の著者である聖マルコの遺骨が祭ってあるということで有名な僧院である。

恐る恐る扉を開け二人を中に入れてくれた僧は、すっかり怖じ気づいていた。他の僧たちもふるえている。イスラム教徒の乱暴の目標が今度は自分たちのところらしいと伝え聞いて、恐怖におののいていたのだった。

「聖マルコさまの御聖体に、もしものことがあったらどうしよう」

二人のヴェネツィア商人は、われわれがヴェネツィアに移しましょう、あそこなら安全ですから、と申し出た。ところが、

「とんでもない」

と、僧たちは首を振る。あれがこの僧院にあることによって、エジプト中のキリスト教徒が巡礼に訪れるので、御賽銭のあがりも良いのである。

そんなうちにも、外の騒ぎは大きくなるばかりだった。突然、扉が激しくたたかれた。とんで開けにいった僧を突き放すような勢いで、カリフの部下が入ってきた。僧院の回廊をささえている大理石の柱を、カリフが浴室に使いたいといわれるので、夕刻前に取りにくる、というのである。高圧的なアラブ人が去った後も、僧たちの怖じ気は消えるどころか、もっとひどくなった。カリフが奪うということは、庶民にも略奪の許可が出たということなのである。聖マルコの遺骨の安全は、ますます危うくなった。ヴェネツィア人は、今度は、売ってほしいと申し出た。しばらく迷った後、ついに僧たちは頭をたてに振った。

二人はすぐに外に出、まもなく、豚肉のかたまりのいっぱい詰まった、パンを入れるのに使うおおきな籠を二つのせた手押車を押して戻ってきた。

幾ら払われたのかは知らない。だが、商談は成立したのだ。聖マルコの遺骨は、籠の底に入れられ、そのうえに豚肉のかたまりが、すき間もないように詰められた。二人の商人は、手押車を押して、涙ながらに見送る層たちに送られて門を出た。





ちょうどその時、円柱調達のための人夫を従えた、先ほどのカリフの部下が向うから来るのが見えた。その後には、すでに略奪品を想像して興奮している、庶民の一群もついていくる。



二人のヴェネツィア人は、

「カンヅィル!カンヅィル!」

と、大声で叫んだ。アラブ語で豚の意味である。アラブ人たちはいちように嫌な顔をし、車の前に道を開けさえした。



イスラム教徒は、豚と聞くだけで頭痛がし、吐き気をもよおすのである。とくにパン籠の一番上には豚の頭がのっていたから、ほんとうに吐く者まであらわれた。



アレクサンドリアの広い街を、二人のヴェネツィア商人は、交代で、カンヅィル、カンヅィルと叫びながら横断し、彼らの船まで安全にたどりついたのであった。



だが、これですべてが終ったのではない。港を出る船はみな、税関の役人の検査を受けてパスした後はじめて、出帆ができる決まりになっていたからである。ヴェネツィア人の船にも役人が乗船したきた。二人のヴェネツィア人は、これが最後の難関であることを知っていた。



もしも役人が聖遺物を発見したら、キリスト教徒がこれほども欲しがるものならばと、法外な値をふきかけられ、それが不承知ならば没収するということになりかねないからである。こうして、またも豚肉と同居せざるをえなくなった聖者の遺骨は、パン籠に入れられて、倉庫になっている船底にしまわれることになった。案の定、イスラム教徒である役人は、二人のヴェネツィア人の

「水夫たちの食糧です」

という説明も終りまで聞かず、鼻を押えて甲板にあがって行ってしまった。ルスティコもトリブーノも、ほっと胸をなでおろしたことだろう。

エジプトの港を無事に出帆した船も、ギリシアの沖に近付いた頃、猛烈な時化に襲われた。船は、木の葉のように波にもてあそばれ、帆柱が今にも折れそうに音をたてた。だが、豚肉との同居から解放され、洗われ、香料さえもただよわせた聖マルコの遺骨は、この時はじめて、聖者らしく奇跡をもたらしたのである。

翌朝、昨夜の時化が嘘のように思われる夏のギリシアの海を眼前にした二人のヴェネツィア商人は、金で買ったことなど忘れて、聖者の守護を感謝したにちがいない。あとはヴェネツィアまで、これも船室に安置した聖遺物の御加護か、順風に帆をあげっぱなしの航海であった。

二人の商人の持って帰った聖人の遺骨は、年代記によればこんな風に迎えられた。







「街中が狂気した。どの街角でも、人が寄るとさわると、聖人はヴェネツィアの国の繁栄と栄光を保証してくださる、と言い合うのだった」





聖遺物のヴェネツィア上陸は、元首以下、庶民の端々に至るまでヴェネツィア中の人々の迎える中で、賛美歌の合唱に伴われて行われた。







元首は、自らの財産の大きな部分を、聖遺物を祭る寺院、聖マルコ寺院の建設に寄付した。トリブーノとルスティコの二人は、共和国に大いなる功績をもたらした人として、歴史に名が残ることになった。





ヴェネツィア人が、同時代の他の国の人々に比べて、特別に信仰が深かったわけではない。法王の発した禁制でも平然と破るくらいだから、あの二人のようなヴェネツィア商人は他にもいたことは史料が実証してくれる。それくらいだから、他の国のキリスト教徒に比べて、狂言的信仰から最も遠いところにいたのがヴェネツィア人であったのである。

ヴェネツィア人も、他のキリスト教徒と同じく、それまでにも自分たちの守護聖人をすでに持っていた。聖テオドーロである。



ただ、このギリシア出身の聖者は、聖人のヒエラルキーのうえでは、どうもあまり高い地位にある聖人とは言いかねた。言ってみれば、三流どころというわけである。

ところが、聖マルコはちがった。聖人のヒエラルキーの一番うえは、キリストの弟子であったということで、もちろん十二使徒である。それに続いて、聖パウロと、福音書を書いた聖ルカと聖マルコがくる。ここまでが、一流ということになっている。洗礼者聖ヨハネも、このグループに属する。ちなみに、フィレンツェの守護聖人は洗礼者聖ヨハネ、ローマは、当然ながら聖ペテロである。ヴェネツィアもこれで、一流の聖者を守護聖人に持ったことになったのだった。当時のヴェネツィア人の得意さも、想像できるというものだろう。早速、聖テオドーロには次席に退いてもらって、聖マルコが、ヴェネツィアの正統な守護聖人と定められた。

しかも、聖マルコを寓意するのが、獅子ときている。福音書作家の四人の聖人には、それぞれ寓意の動物が決められていた。ヨハネ黙示録に出てくる四つの動物である。

聖マテオには、誕生をあらわす人間、
聖ルカには、犠牲をもたらす牝牛、
聖マルコには、復活を意味する獅子、
聖ヨハネには、昇天を寓意する鷲。

これらの動物はいずれも翼をつけている。

翼をつけた獅子、聖マルコの獅子、これならば誰でも景気づけられる。



ヴェネツィア人は、福音書を書いた知識人の聖人には、彼に捧げた寺院で安息してもらって、聖書に片脚をかけた翼のある獅子の像を、国旗にしたのであった。現在も残る、緋色の地に金糸で刺繍したそれは、ヴェネツィア人の行くところ、どこにでもひるがえるようになる。商船はもちろんのこと、この紋章は金貨にも使われる。聖マルコの遺骨を故国へ持ち帰った二人のヴェネツィア商人は、一流の守護聖人を与えただけでなく、国旗まで与えたことになる。聖者の遺骨が本物であるかどうかなど、また、それがカネで買われたものであることなど、問題にする者は一人もいなかった。

きっかけはできたのである。困難な国づくりに庶民の端までが喜んで参加する、景気づけはなされたのであった。


丸々の抜粋だけれども、以上、サン・マルコの成り立ちについて。

あとは細かい話をすると、それぞれのモザイクタイルの構図やら色合いがそれぞれ異なるという点で、製作された年代が異なることが推測されるだけれども、既に文章が長くなってきているのでここでは割愛。

以上です。
書くのすごく疲れました。
次回はまた別の箇所にスポットライトを当ててみます。
あんまり長くならないように気をつけます。


コメント (4)
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