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空港にて

2009年04月25日 | 本・映画・音楽レビュー
好きな映画の一つとして挙げられるのが黒澤明の「影武者」だ。
武田信玄と瓜二つという理由により、信玄の影武者として擁立された盗人の話だ。

この映画で特に好きなシーンが、映画の中盤で登場する合戦シーンだ。
影武者が小高い丘(ヒエラルキーの象徴)の天辺でドッシリと構えているというシーンだ。
胸中穏やかならずも貫禄を持って堂々と振舞わなければならない影武者を、言葉を一切使わずに、情景や間だけで巧みに表現したシーンだ。あの息の詰まりそうな緊張感が堪らなく心地良い。

さて、仮にこのシーンを5分だけ切り取ったとする。
それを24分の1倍速でコマ送りにして120分に引き伸ばして、さらに主人公である信玄の影武者がその時、何を見て、何を聞いて、何を感じていたのかをいちいちナレーションを入れていったとする。

これをしてしまうと、それは最早、映画ではなくただのドキュメンタリーだ。
そこには作品としての情緒はなく、行間を読むことも許されない観客は、ただただ与えられてくる情報を消化するしかない。

村上龍の「空港にて」はまさしくそんな感じだ。



「空港にて」は、空港や駅やカラオケやコンビニといったありきたりな場面において存在する「日常」という名の「停滞」の中で、辟易としながら、その日常から抜け出そうとしているかを描いた短編小説だ。

新たなる旅立ちを果たす人もいれば、悶々としながらも日常を受け入れる人もいる。ただ、その中で、誰もが抱えるであろう「自分は他人とは違うんだ、違うと信じていたい」という没個性主義からの脱却が一貫して描かれている。

ただ、文体が特殊。
主人公たちが、日常場面において見たもの感じたものが全て説明されている。

「あの人はこう言った」
「私はそれに対して何とかと言った」
「足元に虫がいる」
「駅のホームに男が立っている」
「誰それの化粧は濃い」

この調子で延々と情景が一つ一つ説明されていくのだ。

それが故に、我々の頭の中で物語の世界観を想像することは許されず、ただただ村上龍が設定した場面をとりあえず理解していくしかないのだ。

この作品の特殊性をもう一つ挙げるのであれば、それはこの短編小説が主人公たちの人生におけるわずか5分~10分程度の、ほんの一瞬にのみ焦点を当てているということだろう。その人がどういう人生を送ってきて、どういう性格をしていて、どういう嗜好があって・・・こういった情報はほとんど与えられない中で、誰かの人生における5分を理解するというのは、実は難しい。

そういう諸々の理由により、「空港にて」は作品としては全くオススメ出来ない。



が、それでもなおこの作品を紹介しようとしているのは、自分の中の何かが動いたからだろう。

没個性主義からの脱却。
新しい世界へ飛び立つ恐怖と、今ある人生をそのまま歩む恐怖。

自分は世間に流され、個性というものを失っているのではないだろうか。
今のまま、そしてこのまま抑揚のない人生を送って、この先に何があるのだろうか。
本当に大事なものとは何なのだろうか。

作品としては大分消化不良を起こしたが、ただ、自分の中で何かが少しだけ揺らいだというのは事実だと思う。

というわけで、村上龍の「空港にて」。
長文にて紹介してきましたし、かなり読みづらい作品ではありますが、心に残る作品ではありましたので機会があれば是非読んでみてください。

コメント
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