西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

西洋音楽史 3

2021-08-20 14:58:20 | 音楽一般
中世の第1期(450頃-1150頃)では、そのごく最初期に(中世以前の古代との考えもある)東方教会聖歌(シリア聖歌、アルメニア聖歌、コプト(エジプト)聖歌、アビシニア(エチオピア)聖歌、ビザンツ聖歌)が生み出された。これらの影響を一部受けて西方教会聖歌(グレゴリオ聖歌、アンブロジオ聖歌、モサラベ聖歌、ガリア聖歌)が成立した。そのうちの特筆すべきものが教皇グレゴリウス1世(在位590-604)に大成が帰せられるグレゴリオ聖歌である。以上の教会聖歌は「ルネッサンスとバロックの音楽」(筑摩書房)第1巻『中世の宗教音楽と世俗音楽』にすべて取り上げられていて、その片鱗を伺うことができる。また、私は
1.決定盤! グレゴリオ聖歌集大成(20LP)(キング・レコード)
を購入した。大部なので迷ったが、これに匹敵するものは後に出ることはないだろうと。(CDで再発されたように思う)皆川氏の監修で、解説者の1人にも名を連ねている。皆川氏の「発刊に寄せて」から少し長くなるが引用したい。
 グレゴリオ聖歌は、ヨーロッパ音楽の源泉である。それは、現存するヨーロッパ音楽のなかでもっとも古く、しかも今日なお演奏され人びとにふかい感動をあたえつつある、生命力にみちた音楽である。同時に、グレゴリオ聖歌は、祈りの音楽である。それは、ローマ・カトリック教会の典礼とふかく結びついて神への祈りとして歌いだされた音楽である。キリスト教が今日なおヨーロッパ精神のひとつの中核であるという意味でグレゴリオ聖歌はヨーロッパ音楽の精神の中核といえる。中世以来、それぞれの時代の作曲家たちはグレゴリオ聖歌から新しい霊感をうけとめ、それを作曲のひとつの規範としまたそれを楽曲構成のための素材として利用してきたのであった。あの古典派やロマン派の音楽家たちでさえグレゴリオ聖歌にたいする敬意と愛着とを隠そうとはせずその旋律を自己の作品の中に借用しさえしている。
レコードに付いた解説書ゆえ、解説が大部で詳しい。CDのだとこれほどまでのものは付かないだろう。「グレゴリオ聖歌を自分の作品に使った作曲家とその作品」と題する小石忠男氏の小論もあり、その中に、「ベートーヴェンは1818年、<ほんとうの教会音楽を書くために、修道院その他のあらゆる教会合唱を全部くわしく調べ、選び出すこと、最もよく出来た翻訳で、最も正確な韻律と歌の節を>と書き記した。彼の「第9」については、すでに述べたが、晩年の弦楽四重奏曲も、こうした彼の姿勢を反映しているものと思われる。」と述べている。
第2期(1150頃ー1300頃)では、南フランスおよびプロバンス地方に興ったトルバドゥール、それに少し遅れ北フランスに現れたトルベールの中世騎士世俗歌の時代を迎える。これはドイツでもその影響が見られ、ミンネゼンガーの芸術が生れる。
第1期に起こった多声音楽もこの時代に発展を迎え、ノートル・ダム楽派が誕生する。レオニヌスの2声オルガヌムは、1182年のノートル・ダム寺院の献堂式に鳴り響いた、との推測も出されている。ペロティヌスの3声、4声オルガヌムも寺院の拡大とともに生まれた?とも考えられている。これらは後に、アルス・アンティクヮ(旧芸術)と呼ばれることになる。
第3期(1300頃ー1450頃)はアルス・ノバ(新芸術)の時代を迎え、その代表的作曲家にギョーム・ド・マショー(1300頃-1377)がいる。マショーはボヘミア王ルクセンブルク公ヨハンに仕え、王に従い各地を旅し、戦役にも従軍したという。1337年から始まった英仏間の百年戦争はマショーの活動にも影響を与えた。百年戦争の第1期にあたるクレシ―の戦い(1346年)でヨハンを失った後、後にバロア朝を開始したフランス王フィリップ6世(在位1328-1350)の息ジャン2世に嫁いだルクセンブルク公ヨハンの娘ボンヌ、さらにナバール王シャルル2世の宮廷で仕えることになった。ボヘミア王ヨハンは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子で、息子のカール4世も同皇帝である人物である。ボンヌは、ジャン2世(在位1350-1364)が王位に就く前年に当時流行の黒死病で亡くなってしまった。マショーは、ジャン2世とボンヌの間に生まれたシャルル5世(在位1364-1380)に仕えて、ランス大聖堂で就任時の戴冠式で作曲した4声の『ノートルダム・ミサ曲』(一人の作曲家によって通作された最初の多声ミサ曲)が演奏されたとも言われるが、疑問視されている。
まず、この時代を知るために、
2.ゴシック期の音楽 デヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(アルヒーフ)(3LP)

を購入した。この「ゴシック期の音楽」で、マンロウは、
Ⅰ.ノートル・ダム楽派(1160頃-1250)
Ⅱ.アルス・アンティクヮ(1250頃-1320)
Ⅲ.アルス・ノヴァ(1320頃-1400)
と区分している。年代区分が多少異なるが、中世の音楽の第2・3期を扱っていることになる。アルス・アンティクヮ(旧芸術)にノートル・ダム楽派は含まれない? いくつか参考書に当ったが含んでいるように思われるが。
マンロウはこの時代の作品を多く我々に提供してくれている。少し先の時代のものも含むが、「マンロウ1800」のシリーズ(全10枚)をすべて挙げてみる。
3.宮廷の愛 Vol.1 (ギョ-ム・ド・マショーとその時代) デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)

4.宮廷の愛 Vol.2 (14世紀後半の様相) デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
5.宮廷の愛 Vol.3 (ブルゴーニュ宮廷の音楽) デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
6.デュファイ デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
7.ネーデルランド学派の音楽 VOL.1 世俗歌曲集 デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
8.ネーデルランド学派の音楽 VOL.2 器楽合奏曲及びミサ曲から デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
9.ネーデルランド学派の音楽 VOL.3 モテット集 デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
10.ルネッサンス・スペインの宮廷音楽 デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
11.モンテヴェルディの周辺 デイヴィッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
12.プレトリウス/‟テルプシコーレ”とモテット集 マンロウ指揮 ロンドン古楽コンソート(EMI)(LP)
中世の最後に書くことになる音楽家はイギリスのジョン・ダンスタブル(1380頃―1453)である。ダンスタブルは音楽家であると同時に外交官でもあった。百年戦争の休戦時(1413年頃までのことか)にフランスに滞在し、イギリス独自の六の和弦(ミーソードのような)の連続使用を大陸に伝え、また大陸の音楽をイギリスに伝えたということだ。この交流からルネサンス音楽が開始されることになった。ダンスタブルが亡くなったのは、1453年のクリスマス・イブの日で、この年に百年戦争は終わるとともに、東ローマ帝国の崩壊、歴史上中世が幕を閉じる年で、そういう意味で、ダンスタブルは音楽の歴史上中世の終焉に相応しい音楽家であるとともにまたルネサンスの扉を開いた人物と言えよう。CD時代になり、ルネサンス以前の作曲家の作品集は買うことはなかったのだが、コレクションを見ると、次の1枚があった。ヒリヤード・アンサンブルの名声を聞き、買ったものだったか。
2.ダンスタブル モテット集 ザ・ヒリヤード・アンサンブル(CD)(東芝EMI)


西洋音楽史 (続)

2021-08-14 12:51:41 | 音楽一般
中世に淵源を持つ西洋音楽のルーツの旅に出てみたい。

古典派、ロマン派と呼ばれる作品の多くに我々は、クラシック音楽と言えば、考え、接し、多く聴くのであるが、それらの前の時代はどのように区分されるのか。前回書いた寺西著『音楽史のすすめ』に「中世音楽史の時期的区分」の項があり、次のように出ている。
ほぼ400年(あるいは500年)ごろから1400年頃まで、とある。約1000年間である。その中で、真に中世的であったのは、900年頃から1300年頃まで、と。さらに、この1000年を5期に分けて説明を加えている。
(1)400-600年
(2)600-900年
(3)900-1150年
(4)1150-1300年
(5)1300-1400年
手元の「ブリタニカ」の西洋音楽史を見ると、古代ギリシアの後に、中世が、
第一期(400頃ー1150頃)
第二期(1150頃ー1300頃)
第三期(1300頃-1450頃)
とあり、続くルネサンスが、
ブルゴーニュ楽派(15世紀後半)
フランドル楽派(16世紀前半)
ルネサンスからバロックへ(16世紀後半)
とある。バロック時代以降は後で触れるとして今は中世、ルネサンスの時代を見てみたい。
この時代、ヨーロッパの歴史事象はどうであったか。中世はいつ? に対し、いろいろな考えはあるだろうが、一つの考えとして、ローマ帝国が東西に2分され(395年)、その後西ローマ帝国が滅亡し(476年)、そして東ローマ帝国が滅亡した(1453年)、この東西ローマ帝国の滅亡年をヨーロッパ中世の開始および終りと見る考えだ。イギリスのジョン・ダンスタブル(1380-1453)の活動時期およびヨーロッパ中世史から見て、音楽史においても、中世を400年(あるいは500年)頃から1450年頃までの約1000年間(450年から、とした)、と見てみたい。これを3期に分けるならばブリタニカに倣い、それぞれ700年、150年、150年となる。
ルネサンス時代は、1450年ごろから1600年頃の同じく150年間と見ていいだろう。
これらの時代の解説は、「ブリタニカ」および先に述べた「ルネサンス・バロックの音楽」(全12巻)についている解説書も大いに勉強になる。「中世・ルネサンスの音楽」(皆川著)を読めば、一般の愛好家にとっては充分な知識を得られるだろう。他に、私は、
1.中世・ルネサンスの社会と音楽 今谷和徳著(音楽之友社)

を読んだ。社会の動きの中で音楽家たちがどのような活動をしたか、そのような事を知りたいと思ったからだ。




西洋音楽史

2021-06-16 20:10:20 | 音楽一般
ヴィヴァルディは、後期バロックの作曲家である。後期があれば、前期、中期もあるだろう。バロックの時代の前はルネサンスの時代。その前、中世の時代の音楽は、などとやはり現代の音楽にたどり着くまでの歴史を知りたく思った。古典ギリシアの時代も音楽はあったはずだが、とりあえずグレゴリオ聖歌からの歴史をまず学びたいと思った。そのような時に出版されたのが、

1.ルネサンス・バロックの音楽 全12巻(筑摩書房)

である。文学物を主に出す社であるが、他の分野の本を出すこともある。これも私にはお気に入りの書で、愛蔵品である。LP2枚と、解説書が付いている。
第1巻 中世の宗教音楽と世俗音楽、から第12巻 古典派への道、とあり間にバッハが4巻を占める。服部幸三と皆川達夫の両氏の編集で解説もとても勉強になる。(すべてしっかり読んだわけではないが、こう書くとまだ読んでないエッセイ、以前読み学んだエッセイも再度読んでみたい気持ちが起こる。)前回書いた「世界大音楽全集」とこの「ルネサンス・バロックの音楽」で西洋音楽の流れは掴めることができたように思います。

服部さんはラジオでよく解説をされていてカセット・テープに収め、今も所持している。皆川さんは、最近亡くなられたが、いくつか本を買い勉強した。

2.バロックの音楽 皆川達夫著(講談社現代新書)

3.中世・ルネサンスの音楽 皆川達夫著(講談社現代新書)

これからもこの2冊は折に触れ読んでいきたい。演奏ものでは、

4.マンロウ ゴシック期の音楽 LP3枚組

5.グレゴリオ聖歌全集 LP20枚組(キング・レコード)

をまずあげなくてはならない。

1.の全集では、当然のことながら、ゴシック期の音楽はその一部をふれるだけであった。もう少し知りたいと思い購入したのが4.でタイムリーにレコード店で見つけ購入した。今、手元に置いていないため内容を書くことはできないが、マンロウの死去の知らせをその後ほどなくして聞いた時には驚いてしまった。つぎはどのようなレコードを出してくれるのかと思っていたところだった。

5.は、やはり1.では部分的にしか接することができなかったので、これを聴けばと思い、購入した。これまでに聴いたのは1度だけのように思う。持ち帰るのが重かった。すごく立派な解説本が付いていて、読んで勉強したいと思っているがまだしていない。

2.と3.の本は興味を持って読んだ(部分的に?)。3.は間違えて2冊買ってしまった。(1冊は後で処分)皆川さんの書かれた本は文章が読みやすいし、また深い知識に裏付けされているようでとても勉強になります。そばに置いておきたいですね。次の書も購入しました。

6.西洋音楽ふるさと行脚 皆川達夫著(音楽之友社)

これは第1部で、専門の中世・ルネッサンスの音楽を扱い、2・3部ではざっくばらんな話題を扱っていて、葡萄酒のことも語っています。ところどころつまみ読みをしただけか? 皆川さんについて、こんな言葉をどこかで見たように思います。カラヤンのヴィヴァルディの演奏は、女性の厚化粧のようだ、と。カラヤンファンの私にはそんなことが記憶にあります。まあ、すべて芸術に対する受け取りは人それぞれで、ここでは玄人・素人はないように思うので、自分に合う演奏と思えばそれでいいのではと思います。

手元にある、ブリタニカの百科事典で「西洋音楽史」の項を見ると、「古代ギリシア」の項が出ています。ピタゴラス音階など、また古代ギリシアの演劇を見ると、合唱隊なども出てきたりします、またキタラ、リラなどの楽器なども語られます。どのような音楽なのかと思っていた時がありました。そうしたらこれも何と、レコードになって出た時がありました。放送で一部を聴いたか?、覚えてないですが、このレコードは蒐集が趣味の私も結局買いませんでした。

パンフです。その後は、このような試みはなされていないように思います。

このギリシアの音楽ですが、さきほどの皆川氏は、3.の中で「古代ギリシアの音楽をもってヨーロッパ音楽の原点とみなすことはできない」「古代ギリシアの音楽がその後の時代に残した遺産は、音楽作品そのものではなく、むしろその音楽理論であり、その美学であり、また音楽劇の理念であった。」と述べています。そのように考えるべきなのでしょう。他に、買った本には、

7.音楽史のすすめ 寺西春雄著(音楽之友社)

8.音楽の歴史 ベルナール・シャンピニュール著 吉田秀和訳(文庫クセジュ 白水社)

があります。7.は、ざっと読んだ、のメモがありましたが、8.は読んでない? ざっとでもこれから読んでみたいと思います。

西洋音楽入門

2021-04-12 16:19:19 | 音楽一般
クラシック音楽には、高校1年ごろから興味関心を持ち始めた。周囲の中学から聴いているとか、楽器を学んでいるなどと言う人もいるのを知ると自分は遅い方なのかと思った。そしてその人達に負けないようにクラシック音楽について様々なことを知りたいと自然思うようになった。人と競争するようなことでもないのだが。
ちょうどそのころ

1.世界大音楽全集(河出書房)
なるものがでた。レコードを含む本で、だから大判である。いろんな意味で自分の興味を満足させてくれるとともに、大変勉強になった。

これから書いていこうとすることはこれまでのレコード・CD・音楽に関する本、などの蒐集についてであり、結構多量なものである。いまこれを書くのは、このうちで残しておきたいもの、余計な買い物だったか、など自分のためのメモ書きになる。断捨離といえばいいか。そのためのものです。記憶で書いていくこともあり、後で追加、訂正もあるでしょう。自分でこれまでの蒐集を整理してみたいということから書き始めてみることにする。(何やら兼好法師に似た書きぶりか。)

1.が出たころは、ちょうど昨年生誕250周年を迎えたベートーヴェンの生誕200年の年の前後で、

2.ベートーヴェンの作品全集(レコード78枚)(グラモフォン)

が出た。この2についてはまたベートーヴェンのみを扱った章で詳しく書きたい。

当時、西洋音楽を紹介する本も、どのような曲があるのかを知りたいと思い次の本を購入した。

3.名曲をたずねて(上)(下) 神保◉一郎著(◉は景に王偏が付く)(角川文庫)

4.名曲決定版(上)(下) あらえびす著(中公文庫)

河出書房は、1.を出す以前「世界音楽全集」を発行していた。17cm(?)のレコード2枚が付いた解説本で、もし1回配本が出る前に知っていたら全巻購入していたかもしれなかったが、数巻買っただけで、「世界大音楽全集」が出たこともあり、全巻は求めなかった。今もその数巻を所持している。いずれ処分? ウェーバーやロッシーニなど「大」に入っていない作曲家も入っている。さて、この1.だが最初24巻、のちにさらに6巻出て、全30巻の膨大なものである。ヴィヴァルディからショスタコ―ヴィチまで40数人の作品、および伝記がその構成の中心である。LPレコード2枚が付き、こんな低価格でいいのかと思っていた。そういう点、実に有難かった。いや、それよりもそこに収められていた名演奏に感謝すべきだろう。バルシャイのモーツァルト、ミュンシュなどのドイツ系の名曲群の演奏。それにこれまで何回か触れた(当時)ソ連のピアニストであるルドルフ・ケーレルによるベートーベン「皇帝」、ラフマニノフの「第2番」の協奏曲。何度言っても言い足りないくらい素晴らしい演奏だ。よくお仕着せのこういうタイプのものでは自分の望む演奏家のものが選べないなどといって良しとしない人もいるが、この全集についてもそのようなことを言う人がいるだろうか。伝記や曲の解説などもとても勉強になり、また音楽史的な解説も時たま付いていて勉強になることが多かった。ただ、ごく一部、この記述、このエッセイはない方がいい、読みたくないのもあった。出版社は採算取れたのだろうか? などと思った。私にはクラシック音楽にちょうど興味を持つ頃であり、大変ありがたい出版であった。ネットを見ると、これを出している人があるようだが、私は、記入などもあり、出せるものではないが、ずっとそばに置いておきたいものだ。

3.の著者は(1897-1976)とネットで探すと生没年がでている。(上)(下)とも初版昭和50年、再版昭和51年発行のもの。「序に代えて」には「日本の国ほど音楽に恵まれている国はない。……ベートーヴェンが禁止されたり、その国のイデオロギーをPRする曲が優先されるといったことがない。まったく自由に音楽がある。また、東洋の片隅にある遠いこの国に、世界の一流演奏者や演奏団体が、たえずやって来て名演をきかせてくれる。まったくありがたいことだ。……」とある。(昭和50年の記述)さらに読むとどうもこの本はずっと以前、戦争(大東亜戦争)前に出されたもののようだ。「戦争の最中、私のところに中国の第一線にある将校から「名曲を尋ねて(注文庫での再版に際し「たずねて」に変更)」を送ってくれという手紙が来たことがある。」の記述がある。文庫でだすにあたり、新たに記述を加えたとある。「音楽のすがた」「楽曲の形式」などの項の後に、グレゴリアン・チャント、パレストリーナから作曲家の紹介、代表曲の説明と続く。ショスタコーヴィッチの交響曲第15番なども解説されていて、これは文庫版で追加されたのだろう。私はこのような曲紹介を見ると、集めたい、聴いてみたいとチェックを入れる。98%くらいはチェックが入っただろうか。

4.著者あらえびすは、このブログを読んでくださっている方はご存知だろうか。野村長一(おさかず)(1882-1963)である。まだ? の人も多いだろう。「銭形平次捕物控」の著者である。私も最初知ったときには驚きました。しかしもっと驚いたのは、この本の内容。演奏家を挙げ、その録音物を述べているのである。(上)では、ヴァイオリン、ピアノ、チェロ、室内楽を扱い、(下)では歌、管弦楽、器楽等を扱っている。上巻の巻頭言、この書の成るまで、には「音楽を愛するが故に、私はレコードを集めた。それは、見栄でも道楽でも、思惑でも競争でもなかった。未知の音楽を一つ一つ聴くことが、私に取っては、新しい世界の一つ一つの発見であった。」と書き始められている。「その頃、日本においては、ワーグナーもベートーヴェンも聴く方法はなかった。劇詩としての『白鳥の騎士(ロ―ヘングリン、のルビ付き)』を読み、文献によって『第九シンフォニー』の壮麗さは知っても、それを音楽として聴くことの出来なかった時代に、我らは少青年時代を送ったのである。」と続けられている。今は、何たる恵まれた時代とつくづく思わざるを得ない。
「クライスラーには、特別の甘さがあり、比類のない情味がある。」
「ティボーの演奏において感ずるものは、美しさと弱さである。気高さと頼りなさである。」
「メニューインを一度聴いた人たちは、その重厚な気品と、高邁な気魄に敬服せざるはない。」 
「クーレンカンプには、猶太(ユダヤ)系提琴家たちの持つ旋律の甘美さはない。」などの言葉が続く。この時代にここまで聴いていたのかと思ってしまう。演奏家の代表的名盤もずらりと挙げられている。まったくの驚きである。弦楽四重奏団にも、カペエ、レナー、ロート、クレトリー、ロンドン、ブッシュ、プロ・アルト、フロンザリー、ローゼ、ブダペスト、デマン、等々と続く。私の名前さえ知らない団体もたくさん出てくる。歌手についても同様である。驚かざるを得ない。

ということで、このような雑文を重ねていきたいと思う。

ビックリしたこと

2020-06-29 10:19:39 | 音楽一般
ベートーベンは黒人だった?、とのネット記事を見つけたからだ。2015年ウェブサイトに投稿された記事が5年後の今取り上げられた。米で暴動が起こっていることと関係してネット記事を書いたのだろう。2015年の記事は米国のコ大学の学生新聞のウェブサイトに出たものという。「ベートーベン黒人説」の真偽より大事なこと、とNewsweekの日本語版が出てるが、もちろん私はネットで読んでいて、雑誌は見てない、このタイトルも何を言いたいのか不明と言うしかない。これら書いた人物は当然書いた責任を取ることになるがどうなのだろう。

私はベートーベンの伝記やメモ書き、手紙を読んできたが、それらにこの記事をほのめかす内容は見たことはない。本当にびっくりである。以前書いたことだが、ベートーベンの祖先は15世紀末のフランドル地方に生活する人まで遡れる。その後男系には黒人の話はない。問題にしているのは、ベートーベンの母親のことのようだ。母はマリア・マグダレーナ・ケフェリヒ(1746-87.7.17)で父ヨハン(1740頃―92.12.18)と1767年9月12日に結婚している。子供7人のうち3人が成人まで生きた。次男楽聖ルートビヒと3男のカール、4男のヨハンである。この結婚は祖父のルートビヒに反対されたことも以前記した。マリア・マグダレーナは、エーレンブライトシュタインに生まれた料理人の娘で、彼女は19歳でヨハン・ライムという宮廷の使用人と結婚したが間もなく夫と死別し、その2年後楽聖ベートーベンの父親のヨハンと結婚したのだった。楽聖が黒人なら弟2人も黒人である。カールの息子、孫も黒人である。母親について、ベートーベンは「彼女は私にとって実に良い愛すべき母であり、最良の友達でした」とアウクスブルクに住む弁護士のシャーデン博士当てのボンから出された1787年9月15日付の手紙の中で書いている。この年の春、モーツァルトに教えを受けるためウイーンに上ったが、母の病気の知らせを受け急いで帰ることになった。途中アウクスブルクでピアノ製造業者シュタインの娘でピアニストの妻を持つシャーデンを訪ね、お金を借りることになった。その返済の猶予を願う手紙である。
ベートーベンの母について、また後に、自分に良いところがあるとすれば母のおかげだ、と語っているという。(どこで言っているか後で調べようと思います)どこにも母が黒人であるとにおわす言葉はみいだせない。弟2人についても。

このウエブ記事によると、母親はムーア人の子孫だった可能性がある。理由は、生まれた地域が、先に述べたが、エーレンブライトシュタインで、ラインラント・プファルツ州に位置するが、ここがムーア人の直接の支配下にあったということからのようだ。私にはそれ以上はよくわからない。

ウエブの筆者は、「彼の音楽の素晴らしさが変わる訳ではない」と述べているが、何を言っているのか? と思う。欧州の「植民地主義がどれだけ今の人種差別に影響を及ぼしているか」などとさらに書くが、ベートーベンと結び合わせるのがよくわからない。第一次大戦後、日本はパリ講和会議において、人種的差別撤廃を提案した。これに反対したのが人種差別主義者の米大統領ウッドロウ・ウィルソンである。この人種差別を是とするウィルソンの名は、現在恥ずべき思想の持ち主として、アカデミーの中でその名称を消されようとしている。

ベートーベンの伝記の中で黒人が出てくるのは、バイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」に関してだろう。(名を書くと、すぐにその強烈なメロディーが頭に浮かんできてしまう)黒人の血を引くジョージ・ブリッジタワーであるが、献呈者をこのブリッジタワーからクロイツェルに変えるほど、楽聖はこのバイオリニストを嫌っていた。このことは以前も書いた。

なぜ、全米だけでなく、欧州でも広く猛威を振るう人種差別の名で行われる暴動にベートーベンの名が出てくるのか、私にはさっぱりわからない。黒人でないが、黒人としても聴き方は少しも変わらない。  

ドレスデン その2

2020-02-15 16:14:25 | 音楽一般
歌劇「魔弾の射手」の作曲家ウェーバーは、1817年ザクセン王国の首都ドレスデンに宮廷劇場の音楽指揮者に招かれた。劇場に向かうウェーバーは、絵画館広場に面したワーグナー家の前を、小児麻痺のため不自由な足を引きずりながら歩いていたという。それを窓から眺めていたワーグナーは妹のツェチリエに、「ごらん、あの人がこの世で一番偉い人だよ。どんなに偉いかは、お前には全然わかるまい。」と言ったという。「魔弾の射手」にすっかり魅了されたワーグナーは、ウェーバーの指揮ぶりを見て、心の中で、皇帝や国王よりも、あのような指揮者になりたいと願ったという。

ドレスデンに関し、私にまっ先に思い浮かぶのは、1970年カラヤンが当時、東西の壁を越えて、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して成し遂げたワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の録音だ。ベルリン・フィルを振ってこの楽劇をどうして残さなかったのかと思いながらも、このシュターツカペレ・ドレスデンを振ったレコードは、その歌手陣の見事さから、2度とこれを越えるのが出ることは無いのではと思わせる内容だ。何度聴いたことだろう。そして今私はダーフィト役を歌唱したペーター・シュライヤーの歌いぶりを思い返してしまう。シュライヤー、それにやはりこの録音でハンス・ザックスを歌ったテオ・アダムは当地の聖十字架合唱団の一員であったが、9歳のワーグナーもこれに付属する学校に所属していた。
オイゲン・ヨッフムがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮して成し遂げたブルックナーの交響曲全集もやはり言わないといけない。ルドルフ・ケンペがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮して成し遂げたリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲全集も、その演奏の素晴らしさとともに他では手に入れられない曲が含まれていることもあり、私にとっては貴重な全集である。マルティン・フレーミヒの指揮するさきほどの聖十字架教会合唱団によるブルックナーの「モテット集」のCDも貴重な私の財産だ。このように私にとってはドレスデンは、多くの音楽的財産を享受した都市なのであった。

前回、フラウエン教会の展望台に上ったことを書いたが、その教会は今その威容を誇っている。


この今の教会の姿は2005年に蘇ったものだ。1743年に今あるノイマルクト広場に建てられた教会は、終戦間近の1945年2月13日のドレスデン大空襲による連合国軍の爆撃で跡形もなく破壊されてしまった。そのときの瓦礫で復元できるところはそれを用いて再建されたという。なぜこの日なのか。以前にも書いたことだが、この日はドレスデンに関係の深いワーグナーの命日である。私には、どうしてこの日がなどとなるが、ある評論家はこの様な行為を日付フェチと呼んだ。(日本の戦中戦後にも同様のことが見られる。)この行為に深い傷を負っているのは連合軍側であることを知ることになる。教会の頂上にある黄金の十字架は、その連合国側の一員であるイギリスから送られたものと聞いた。私は、ワーグナーの命日が6月以降だったらどうしただろうと思ったりする。このようなことが続く限り、平和な時代は手の届かないところにあるように感じざるを得ない。

ドレスデン市内に爆撃を奇蹟的に免れたマイセン焼タイルで描いた君主の行列を見ることができる。ザクセン君主やその時代の芸術家など93名が描かれているという。


ドレスデン滞在の最終日に、チェコとの国境に近いおもちゃ作りの村ザイフェンに行った。

チャイコフスキーのバレエ音楽で有名なくるみ割り人形。

続いて、マイセンの町へ。



マイセン磁器工場を見学した後、マイセンの町の小散歩。


マイセンは、昨年暮れに亡くなった、先ほども述べたペーター・シュライヤー氏の生まれ故郷。生家は市内のどこかかと思いましたが、後で少し離れたところのようだと知りました。旅の終りで小雨の中、夕方の散策となりました。

ライトアップされたアルブレヒト城をカメラに収めて今回の観光はすべて終わりとなりました。


「ザクセン宮廷の雰囲気が漂う」とガイドブックにあるフラウエン教会隣のコーゼルパレーでツアーの人たちとのフェアウェルパーティーとなりました。



すべて美味しくいただきました。

帰りの飛行機でもこんなデザートが。



日本とヨーロッパはやはりずいぶん離れていますね。


機内から富士山を見ることができました。

(完)

ドレスデン その1

2020-02-14 22:31:45 | 音楽一般
ドレスデンは「エルベ川のフィレンツェ」と言われるそうだ。私たち(私と妻)はドレスデンの町を展望したいと思い、フラウエン(聖母)教会の塔の展望台に上ることにした。途中までエレベーターがあると聞いていたが、故障?で動いていないという。受付のおばちゃん、400段以上あるがそれでもいいかと聞いてくる。ここまで来たら、と1人8ユーロ払って階段を上り始める。途中で一度休んだ。一気にはいけない。その上登ると途中からスロープに。何とか登り切り、展望台へ。







今夜はこれから、ゼンパーオーパーでモーツァルトの歌劇「魔笛」を見ることになっていた。ここはドレスデン宮廷劇場とも言われ、ワーグナーの歌劇「リエンツィ」「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」が初演されたところだ。

ゼンパーオーパー正面。

内部に入ってみる。





ワーグナー像である。もう一人この劇場に所縁の人物の像が置いてある。


ウェーバーである。私がこのウェーバー像をデジタルカメラに収めている時、そばにじっと立つ(おそらく)ドイツ人のおばちゃんが何も言わずに立っていた。ふと私はおばちゃんの顔を見るなり、「Weber(ウェーバーですよね)」と言った。まあ、ここで私の語彙の範囲にある「Der Komponist von (~の作曲家です)」と言ったら、おばちゃん「Freischuetz(魔弾の射手)」とすかさず言う。私「Ja.(そうですね)」と。

「魔笛」間もなく開演。


第1幕が終り、休憩。


終り、出演者が勢ぞろい。


こういう演出もあるのかなという感想を持ちました。演奏は流石伝統的な音楽都市の申し分ないものでした。夜の女王のアリアは、とても印象的でした。

ドイツ旅行 ライプツィヒ(続々)

2020-02-13 22:55:30 | 音楽一般
この当時のライプツィヒはヨーロッパで有数の音楽的伝統を持つ都市であった。この都市には、1409年創立のライプツィヒ大学があり、ワーグナーもそこに在籍したが、後に音楽家として名を馳せる人物がここの大学に法律を学びに近郊の町ツヴィッカウからやって来た。ローベルト・シューマンである。1828年5月のことであった。ここでシューマンは、重要な人物に出会う。ピアノの教師のフリードリヒ・ヴィークである。そしてその次女をクララ・ヨゼフィーネ(1819年生)という。クララは5歳から父親からピアノ教育を受けた。そして1828(1827?)年には、ゲヴァントハウス管弦楽団と共にモーツァルトの「ピアノ協奏曲 変ホ長調」を満員の聴衆の前で演奏したという。(9歳である。何たる天才!)


クララが当地に生活していたことを示す銘板。
 
シューマンは、ヴィークからピアノの教授を受け、また和声と対位法も学んだ。その後、シューマンは、父親ヴィークの反対を受けながらも、1840年に娘のクララと結婚した。この年は、シューマンの「歌曲の年」と言われている。多くの歌曲を生み出した年であった。

ワーグナーに話は戻るが、1832年、19歳の時、ワーグナーは1曲の交響曲を書き上げた。ワーグナーに交響曲が、と思う人もいるかもしれない。「交響曲 ハ長調」である。私の知る限りこの曲は、日本のワーグナーのスペシャリスト若杉弘氏の録音があるだけだ。ワーグナーにはもう一つホ長調のものがあるが、こちらは1(あるいは2)楽章しかない未完である。しかしこちらは若杉氏のを含め3種のCDが出ていて、所持している。(若杉氏のだけ2楽章あり、他の2種は1楽章のみ。)このハ長調の交響曲について結婚前のクララ・ヴィークがシューマンにあてた手紙(1832年12月17日)の中で「ベートーベンのイ長調交響曲にそっくりだそうですわ。」と噂を伝えたという話が残っている。

ライプツィヒにはもう一人語るべき音楽家がいる。メンデルスゾーンである。


ハンブルク生まれのこの作曲家を語る時、まず第一に言われることは、そう、1829年3月のバッハの「マタイ受難曲」の蘇演であろう。この年を持って、バッハは復活したのであった。現代から見ると何たる不思議と思わざるを得ないが、バッハは死後ほとんど忘れ去られた状態にあったのだ。それはさておき、メンデルスゾーンは1835年にライプツィヒにゲヴァントハウス管弦楽団に指揮者として招待された。この時、ワーグナーはさきほどの「交響曲 ハ長調」の総譜を様々な思惑からメンデルスゾーンに渡した。しかしなかなか色よい返事がないまま、メンデルスゾーンは亡くなってしまった。1847年のことである。楽譜は一時紛失状態になってしまったが、後に1877年、ドレスデンで発見されて、ワーグナーの亡くなる前年に再度演奏されたということである。あの誰しもを魅了させるホ短調のバイオリン協奏曲を書いたメンデルスゾーンですが、このようなことがあったのですね。

このライプツィヒには、若き日の森鴎外が、医学研究のため行っている。鴎外が通ったところとして有名なAuerbachs Kellerアウアーバッハス・ケラーがある。その前にはこのような像が立っている。ファウストとメフィストフェレスである。



鴎外はここで一緒に行った哲学者の井上哲次郎にゲーテの「ファウスト」の翻訳を勧められたということだ。

次回から、今回の旅行の最終地ドレスデンについて語ります。

ドイツ旅行 ライプツィヒ(続き)

2020-02-12 22:52:10 | 音楽一般
上の画像は、ライプツィヒではなくこの後に行くドレスデンの街角で撮影したものです。

ライプツィヒに誕生したワーグナーだが、警察署書記のカルル・フリードリヒ・ワーグナーと製パン業者の娘ヨハンナ・ロジーナ・ワーグナーの第9子になる。ワーグナーは、1813年5月22日に生れたが、父親はその半年後の11月22日に「ライプツィヒの戦い」後に流行したチフスで43歳で亡くなってしまった。母ヨハンナは1814年8月、ルートヴィヒ・ハインリヒ・クリスティアン・ガイヤ―と再婚した。そして1815年2月に、彼女にとって第10子に当たるワーグナーの妹が生まれた。私は「大音楽家・人と作品9 ヴァーグナー」(高木卓著)(音楽之友社)を参考にして書いているが、以上がそこに述べられている事実である。子供は当然学校に上がれば、その時の父親の姓を名乗るであろう。リヒャルト・ガイヤ―とワーグナーは名乗ったこともあった。後の人はワーグナーの父親について詮索しているが、今に伝えられている名の通りと言ってよいと思う。4男のリヒャルトと長男の容貌が似ている、父親の弟(叔父)と甥リヒャルトの筆跡が類似している、とある。他の理由も出ているが、あまりワーグナーの音楽を語る上では、関係ないことと言えよう。

ワーグナーは、母の再婚に伴いドレスデンに移住するが、14歳のクリスマスにライプツィヒに戻って来た。そしてゲヴァントハウスの演奏会でベートーベンの音楽を聴き、このとき「私は音楽家になろうと決心した」と後に自伝に書いた。そしてベートーベンの交響曲を学ぶことにより作曲法を身に付けたという。それはワーグナーによるベートーベンの「第九交響曲」の2手用ピアノ編曲にその一端が示されていると言ってよいだろう。1830年ワーグナー17歳の時のことである。おそらく現在この一種しか発売されていないだろう。私は数年前CD店でそれを見つけることができた。



何とも面白い表紙である。本人たちが見たらどう思うだろうか。
(続く)

ドイツ旅行 ライプツィヒ

2020-02-11 21:50:48 | 音楽一般
ポツダムからライプツィヒに入り、Thueringer Hofというトーマス教会すぐ近くのレストランで昼食を取る。食事を終え、ライプツィヒ市内散策が始まった。
ライプツィヒは、大バッハが、室内楽曲、管弦楽曲における多くの傑作を生みだしたケーテン時代(1717ー23年)に続き、住むことになった地である。結局バッハは、この地で生涯を終えることになる。このライプツィヒ時代(1723-50年)は、聖トーマス教会付属学校カントル(合唱長)として生活を送ることになった。それゆえここではカンタータ、受難曲などの今も光彩を放つ宗教音楽の傑作群を生み出すことになる。とうとう目の前にこの像を見ることができた!


バッハに関する書を見ると必ずこのトーマス教会前に立つバッハ像が出てくる。いつかこの像を直に見ることができるだろうか、などと思っていた。そこに私は立っていた! 最初は私は、やはりモーツァルトやベートーベンの音楽を好んで聴き、バッハは周囲の人が良いと言っても、なかなか実感できないでいた。20代半ばくらいからだろうか、ちょうど大部のレコード全集が出て、買い求め、自然多く聴くようになり、今ではCDの全集でほとんどすべて聴くようになった。今ちょうどレッスンで、鈴木のバイオリン指導曲集の8巻の中のバッハのラルゴを勉強している。これは「無伴奏バイオリン・ソナタ 第3番 ハ長調」の中に含まれる曲である。

このトーマス教会にはバッハのお墓もある。


画像には、奥のステンドグラスが見られるが、その前に洗礼台があるのも見えるだろう。実は、ここで総合芸術とも言うべき楽劇の大作曲家リヒャルト・ワーグナーが洗礼を受けたのだった。1813年のことである。
ここトーマス教会で偶然にもカンタータ?のリハーサル風景に出くわすという幸運を持った。


ライプツィヒには、トーマス教会ともう一つニコライ教会がある。ニコライ教会は、知ってのごとく、毎週月曜に行われていた祈祷集会が民主化要求のデモへと発展し、1989年のベルリンの壁崩壊へと繋がった。


ライプツィヒで生れたワーグナーはこれら2つの教会に付属する学校で学んだ。
(続く)