西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ドイツ旅行 ポツダム

2020-02-10 17:46:03 | 音楽一般
ベルリンから次の宿泊地ドレスデンに行く途中午前中はポツダム観光をした。ポツダムは実に広い。我々の旅行ではツェツィーリエンホーフ宮殿の観光が含まれていた。ポツダム会議の舞台で、我々日本人にはすぐにポツダム宣言なる言葉が思い浮かぶ。ドイツ人ガイドさんからいろいろな部屋での詳しい説明があったが、我々日本人を意識してなのかこの「ポツダム宣言」という言葉は聞かれなかったように思う。
ツェツィーリエンホーフ宮殿は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の息子である皇太子ヴィルヘルムの妻の名ツェツィーリエに由来する。ヴィルヘルム2世が息子家族のために建設を命じ、1917年に完成した。少し歴史を語ると、(西洋音楽とは逸れてしまうが)、1918年のドイツ革命後、第一次世界大戦に敗北したドイツは、父親ヴィルヘルム2世、皇太子ヴィルヘルム共にオランダに亡命することになった。だからこの宮殿での皇太子としての生活は2年もなかったことになる。その後、一市民としてドイツに帰国し、再びこの宮殿に住むことになったが。また、父親のヴィルヘルム2世は、日本との関係でも語られることが多い。日清戦争後、遼東半島の割譲に異議を唱えるロシアは、ドイツ、フランスを誘い、日本にこの地を清国に返還するよう主張した(いわゆる三国干渉)。このとき、外相の陸奥は、三国干渉の「張本ハ露国タルコト勿論ナレトモ露国ヲシテ斯ク迄急激ニ其猛勢ヲ逞クスルニ至ラシメタルハ実に独逸ノ豹変ニ基因シタリ」と言っていた。このときロシア皇帝ニコライ2世はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を「大西洋提督」と、ヴィルヘルム2世の方はニコライ2世を「太平洋提督」と、お互い呼んだそうである。まあ我々からすれば勝手に呼ばないでもらいたいところだ。

ツェツィーリエンホーフ宮殿

内部の一室


ポツダムと言えば、誰しもサンスーシ宮殿が思い浮かぶだろう。今回旅程の関係でここは訪問個所には入っていなかった。次回、いつになるか?、訪れる機会があればと思う。

ポツダム、サンスーシ宮殿と言えば、歴史を学んだ人はフリードリヒ2世(大王)をすぐ思い浮べるだろう。この人である。


王は、フランスの哲学者ヴォルテールなどとも交わり、啓蒙専制君主と呼ばれることがある。音楽にも才能を示し、フルートの演奏のみならず、作曲もする。
現代の名フルート奏者(ベルリンフィルのソロ奏者)のこの人がそのフリードリヒ大王の作品をおさめたCDを出している。大王に扮したパユである。


CD2枚からなるこのフルート作品集にはこの大王と関係する何人かの作品が入っている。


フランツ・ベンダ、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツなどの作品と共に、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、それにその父親の ヨハン・ゼバスチアン・バッハの作品も収められている。クヴァンツはフリードリヒ大王のフルートの先生で、エマヌエル・バッハは大王の宮廷にチェンバロ奏者として仕えた。父親の大バッハはフリードリヒ大王の招きに応じて、1747年5月にポツダムのサンスーシ宮殿を来訪した。ここでバッハはオルガン、チェンバロの腕前を披露するとともに、王に主題の提出を求め、それによる即興演奏を行った。ライプツィヒに戻り、フーガやカノン、それとこの作品の中心ともなるべきフルート、バイオリン、通奏低音による4楽章からなるトリオ・ソナタを作曲した。そして7月に王に献呈することとなった。これがバッハ晩年の傑作「音楽の捧げもの」である。

次回は、そのバッハが長く活躍し、晩年を過ごすことになったライプツィヒについて語ります。

ドイツ旅行 ベルリン その2

2020-02-09 20:37:28 | 音楽一般
今回の旅行には、ベルリンのフィルハーモニーホールでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートが最初から組み込まれていた。フィルハーモニーホールは、「カラヤンのサーカス小屋」などとも呼ばれることもあり、外見がとてもユニークである。



その本場フィルハーモニーホールで、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を聴く、これはいつ実現できることだろうか、などと永年思ってきたことだった。それが今回実現できた! ベルリン・フィルが日本に来たとき、1度聴いたことがある。もちろん指揮はカラヤン氏。サインも頂いたし、一度は聴いてみたいと思っていた。この時の曲目は、モーツァルトの「レクイエム」とブルックナーの「テ・デウム」だった。今回はカラヤン氏ではないが、同じベルリン・フィルをこのホールで聴くことができたのだ! 指揮は、日本でもお馴染みのパーヴォ・ヤルヴィ氏。曲目は、
前半 1.ストラヴィンスキー「幻想的スケルツォ」
   2.アブラハムセン「ホルン協奏曲」
休憩 (20分位)
後半 3.ベルリオーズ「幻想交響曲」
の3曲で、アンコールは無しでした。

開演前の様子。



2曲目が終わった後、独奏者のベルリン・フィルのソロ・ホルン奏者のシュテファン・ドール氏、指揮者のヤルヴィ氏、それに作曲者のアブラハムセン氏があいさつに立っています。この曲は昨年作曲されたばかりの新作なのですね。ドール氏の独奏を最初から考え作曲されたのだと思います。



すべての演奏が終わった後です。



今回のコン・マスは残念ながら樫本大進氏ではありませんでした。私としては、やはり樫本氏を見られればと思っていたので。しかし日本人奏者が2人いたようです。プログラムを購入しましたが、そこに楽団員の名簿がありました。第1バイオリンに町田琴和さんの名前がありましたので、2プルトのアウトの女性は、この方で間違いないでしょう。もう一人は、ソロ・ヴィオリストの清水直子さんです。私自身は確認できなかったのですが。すごいですよね。日本人がこのような世界最高峰のオーケストラで活躍しているのですから。それと、フルート趣味の妻はパユが出ていればと言っていました。演奏ですが、すべて終わった後、ベルリン・フィルはやはり「別格」だなという印象を持ちました。一糸乱れぬ演奏、曲に対する徹底的な思い入れ、楽団員相互の調和、などカラヤン時代の伝統が続いていると強く感じました。また機会があるかはわかりませんが、特別な一日でした。

ベルリンでは、古代史の博物館、美術館でも様々な芸術を堪能しました。以下はそのうちのいくつかの画像です。








次回は、ポツダムについて語ります。

2020年 ドイツ旅行 ベルリン その1

2020-02-08 21:07:30 | 音楽一般
昨年、念願のオーストリアの(ほぼ)一周旅行をした。その中でモーツァルトやベートーベン、それに指揮者カラヤンの足跡を辿ることができた。もう一つどうしても行きたかったドイツ東部の旅行を今回することができた。いわゆる西ドイツに当たる所はずいぶん前、約40年前に行った。今回のドイツ東部、ベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンの旅は初めてである。



ベルリンのブランデンブルク門と言えば、ベルリンを象徴する場所と言ってよいだろう。

ブランデンブルクというと、バッハのブランデンブルク協奏曲を誰しもすぐ思い浮べる。この題名はバッハ自身によるものではないが、この6曲からなる曲集が1721年ブランデンブルク辺境伯に献呈されたところから、一般に用いられているということだ。これらはバッハのケーテン時代(1717~23年)の作品で、バッハの協奏曲の頂点をなすものである。



この門は旧東ベルリンに属する。30年以上前になるが、この門の近くの東西ベルリンを隔てるいわゆる「ベルリンの壁」が若者たちにより壊され、東西ベルリン市民が抱き合う姿がテレビなどに映し出された。以前「バカの壁」という本が流行ったが、建てて壊される壁は、賢明な壁とは言えないだろう。旅行では、ベルリン観光の中で、ブランデンブルク門、そしてこのベルリンの壁の見学が組み込まれていた。



この壁は1989年11月9日に壊され、その年の12月25日、クリスマスの日に、東ベルリンの現在コンツェルトハウスとなっている会場で記念のベートーベンの「第九交響曲」が演奏された。東西6つの交響楽団員からなり、指揮はバーンスタインである。この時、普通Freude(喜び)と歌うところをFreiheit(自由)と歌わせた。この時だからこそ許されるのかも知れない。両語とも2音節ということで無理なくできることも理由になるかもしれない。画像はその録音を収めたCDである。右上を見ていただきたい。ここにそのベルリンの壁の欠片が収められている。「本物」である。ベルリン観光でドイツ人女性のガイドさんが完璧な日本語で詳しく分かりやすい説明をしてくれていたが、この方にベルリンの壁の欠片を持ってますと言ったら、本物なの?、と聞かれましたが、CDの表にあるように本物である。

ベートーベン巡礼―その4

2019-07-18 21:45:51 | 音楽一般
ツアー最終日、帰りの飛行機は午後5時過ぎ発のものだった。午前中はじっくり観光に当てられる。希望者を募ってのハイリゲンシュタット散策となった。
この電車に乗ってきた。

ベートーベンの「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれた地である。
「ベートーベンの散歩道」なる標識も見える。

ここにも。

ここはまた「田園交響曲」の発想のイメージが生れた地でもある。
とうとう来られた!という気持ちが先走る。今現在この地は、高級住宅地ということで、ベートーベンが訪れた200年以上前とはずいぶんと変っていた。といってもベートーベンが住んでいたころのことは想像するしかないが。
「田園」の第2楽章の小川はこれなのか? さっきから「田園交響曲」が頭の中で鳴っている。今第2楽章「小川のほとりの光景」。

ちょっと感じが違うなと思ったが、おそらくこれのことだろうと思いながら歩く。
さらに進むと、ベートーベンの像がある。

ここがBeethovenruheと呼ばれているところ。憩いの場所ということだろうか。
こんな花が咲いていた。



「遺書の家」は10時に開く。その前に十分時間に余裕をもって着いたので、教会に寄り、中を見学。



ベートーベンもここには近いし来たことだろう。ミサ曲なども書いているし、ベートーベンは決して教会とは距離を置いていたとは思えないが、キリストに関する発言など伝わっている言葉を考えると、教会に熱心に通うといったイメージは持てないでいる。私の想像だが。貴族に対する発言などとも併せて考えると、ベートーベンは決して周囲に縛られた考えなど持つことはしない。私もそのようなところは好きである。私がベートーベンを偉大だと感じる所はその辺が共感することによるのが大きいか。
オーストリアでは、国の史跡というのか、今観光の地となっているところには、国旗が飾られるようだ。これまでにもいくつかの箇所で目にした。

これは隣のホイリゲ。

さて中に入る。

撮影は自由。割と最近、ここは内部の手直しがなされたと聞く。全部で6つの部屋に分かれて、若い時から、1~6の番号が部屋に振られている。5だったか、まだ中が設営されてないところもあったように記憶する。
6から入ってしまったようだ。
この扉は、臨終の家である「シュヴァルツシュパニエルハウス」の家の扉を保存のためここに持ってきたということだ。
とにかくここではバチバチたくさん写真を撮った。
















バスと電車でホテルに戻りました。


ハイリゲンシュタットより戻り、お昼は「ナッシュマルクト」Naschmarktで食事。最後にここに寄れて(もちろん添乗員さんに連れられてですが)ウィーンのまた一つの顔を知ることができたように思います。私はこれを注文。少し食べてから、撮影。


「セセッシオン」「分離派」の展示館。クリムトの「ベートーベンフリース」が展示してある。行きませんでした。

ウィーン空港。

ベートーベン巡礼―その3

2019-06-21 17:58:20 | 音楽一般
今回の旅行でどうしても行きたい場所が2つあった。その一つがパスクァラティハウスPasqualatihausである。住所は、1区、Moelker Bastei 8番地。ベートーベンが1804年から15年にかけて暮らしていた住居である。パスクァラティは宮廷御用商人で古くからのベートーベンの後援者である。この家で、交響曲の第5・6・7番やオペラ「フィデリオ」など多くの傑作が生みだされた。建物の5階(4.Stock)にあり、目の前にはウィーン大学が見える。ベートーベンも何度も目にしたことだろう。


窓から見えるウィーン大学。訪れた日は雨だった。


ベートーベンの肖像画。


尊敬していた祖父の肖像画。ボンから取り寄せたという。



ここではどんな生活をしていたんだろう。床は歩くと、みしみしいう。ベートーベンは、生涯に70回以上引っ越しをしたという。ここはその中でも結構長く使っていたようだ。こんな言葉が残されている。


ここでは写真撮影は自由にできた。


5階へは螺旋階段を使っていく。こんな具合だ。


ベートーベンも毎日上り下りしたのだろうか。引きこもっていた日もあったことだろう。入口はこんな具合。

離れたところからだと、

というふう。
実は住所はわかっていても、地図を見ながらだったが、人に聞いたりしてやっと発見した。近辺には、亡くなったシュヴァルツシュパニエルの場所同様、少しも表示案内などない。
建物を見上げるとこんな感じ。

この一番上に住んでいた。建物は角にある。

帰りは、近道があることを知った。これが目印。

この裏手の坂を上ったところにこの建物はある。通りの前はウィーン大学である。

目印の裏の坂を上ったところにベートーベンの住居がある。ベートーベンもこの坂を上り下りしたことだろう。


この日はウィーンを離れる、旅の終りの前日。ツアーの人たちと一緒に食事をする最後のディナーの日。それで夜は、ホテルから少し行ったところのミシュラン星のいくつか付いたところで食事をした。このとき出されたデザートを美味しくいただいた。いよいよ明日はもうひとつのどうしても行きたかった場所へ。


ベートーベン巡礼―その2

2019-06-15 19:43:33 | 音楽一般
ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア絵画館でウィーン世紀末芸術を鑑賞した後、ぜひ音楽家たちに会いたいと、一行の人たちと別れた。
先ずは楽聖ベートーベンに会いに行かねば。

ベートーベンの像のある公園は、この後行く市立公園とは別にある。すぐ隣りあわせだが。ベートーベンは一人だけでいるが、市立公園はたくさんの像がある。なかでも有名なのが、黄金のヨハン・シュトラウス2世像だ。なぜこの像だけ黄金なのか。説明は見たことも聞いたこともありません。


ブルックナーとシューベルトの像です。



像だけでなく、ウィーンにはいたるところに音楽家の名が刻んであります。





オペラ座の中の案内が毎日午後3時にあるようです。言語別に案内があるのですね。我々は日本語のところで待っていると、最初はドイツ語チームが行ったのかな。英語、イタリア語などがありました。流暢に日本語を話すドイツ人(でしょう)女性に案内され、1時間近く中を見て回りました。最後はお土産コーナーです。孫たちに服を買いました。

案内の途中で撮影したものです。舞台はオーストリアの作曲家アイネムによるオペラ「ダントンの死」の舞台設定の一場面です。当日夜に上演されるのでしょう。ウィーン国立歌劇場はマーラーとは切っても切れない関係にありますね。それで飾ってあったマーラーの絵画も撮りました。




ウィーンはやはりコーヒーは別格に美味しいです。ホテルの朝食でもテーブルにポットが置いてあり、何杯でも飲めます。
これは訪れたシェーンブルン宮殿内のレストランでいただいたコーヒーです。メレンゲでいいのかな。


ベルヴェデーレ宮殿

2019-06-13 18:27:50 | 音楽一般
ベルヴェデーレとは、「見晴らし台」と言う意味である。ウィーンにはシェーンブルン宮殿、それにこのベルヴェデーレ宮殿と、2つの有名な宮殿があり、多くの観光客が訪れる名所となっている。ウィーン到着二日目にここを訪れた。今この宮殿は、オーストリア絵画館となっている。「美術史美術館」でも数多くの美術作品に触れたが、ここでは20世紀を迎える前後のいわゆる「世紀末芸術」のウィーンでの芸術運動、クリムトやエゴン・シーレなどの作品が多く見られた。クリムトの有名な「接吻」もここにある。またオーギュスト・ロダンの「マーラーの頭部」の彫刻も展示してあった。「美術史美術館」もこのオーストリア絵画館も光を出さなければ撮影自由。


さて、ここがどう音楽史に関係するかと言えば、ブルックナーの伝記で、ブルックナーがここに晩年を過ごすことになったとの記述を読んでいた。1895年、なくなる1年前の7月に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から提供されたのだった。その住居はどこだろうと思ったのだが、今手元の伝記本を見ると割と詳しく書いてあった。旅行前に見ておけばよかったか。もちろん読んではいたが、記憶になかった。館の案内人に聞くと、パソコンにBrucknerの名を入れて、調べてくれた。ブルックナーがこの宮殿に関係するのを知らなかった?、ようだ。親切に調べてくれて宮殿の案内図にこの辺りでは、と4か所に印をつけてくれ、それを頼りに探索したが、プレートのようなのは結局見つからずじまいだった。(今、本やネットで見ると、あった場所がちゃんと出ていて、銘板も置かれている。)ブルックナーは時々庭に出て散歩していたということだ。その見事な庭園はしっかり見てきた。最後となった第9交響曲をその晩年にここで作曲していたという。1896年10月11日の日曜日、よく晴れた日の午後3時ごろ、ブルックナーは息を引き取ったという。3日後、カール教会で葬儀は執り行われた。この教会もぜひ行ければと思っていたが、時間がなかった。

画像は、そのブルックナーが散歩した宮殿の庭です。オーストリア絵画館となっている上宮から撮ったもので、向こうに見えるのは下宮です。

ベートーベン巡礼ーその1

2019-06-11 22:23:50 | 音楽一般
ウィーンに着いた日、割と早い時間に着いたので、すぐに探索を始めた。幸い宿泊したホテルRはウィーン市内北西隅にあった。事前に調べていたのだが、ベートーベンの亡くなったというシュヴァルツシュパニエルハウスのあるSchwarzspanierstr.15番地はホテルのすぐ近くだった。さて探索すべくホテルを出たが、近くはわかっていたが、どこだろう、見つかるか、と思いながら歩いて行ったが、最初反対方向に行ってしまったが、難なく見つけることができた。

建物自体は、すでに取り壊されていて、今立っているのはその後に建てられたものだろう。それで今の建物の通りに面したところに「ベートーベン逝去の家」の画像のような記念碑が取り付けられたのだろう。1827年3月26日午後5時45分、雷鳴の轟く中、ここで亡くなったのだった。建物の3階が住居だったという。




建物の前の通りを写すと、下の写真。


ここまで来るのに、何もその家がここにある、のような表示はなかったように思う。伝記本でどんなところだろうと思い来たのだが、200年まえはこの近辺どんな風だったのか、などと思いながら後にしました。

ザルツブルクと言えば

2019-06-06 21:12:30 | 音楽一般
やはりモーツァルトです。40年以上前にも行きました。そう、モーツァルトの誕生した家です。ゲトライデガッセGetreidegasseの9番地です。

以前行った時、4階まであるのに、すべて見なかったように思います。今回はしっかり見ました。4階にモーツァルトの髪の毛が展示されていました。他にも、様々な資料があり、ゆっくり時間をかけて見ることができました。ここでは写真撮影はできません。後で登場しますが、ベートーベン関連の施設では全く撮影問題なしでしたが。
ザルツブルクには、モーツァルトの住居がもうひとつあります。この建物です。

モーツァルトが住んだ当時の姿で再建したということで、再建に当たり、日本の保険会社の多額の寄付をはじめとする、などとガイドブックにありましたが、現地の日本人ガイドによると、第一生命ということでした。皆さんの保険金の一部がここに、などという説明でした。ここは時間もなく、入れませんでした。

もちろんモーツァルト像が町の象徴として立っています。モーツァルト広場です。大きな噴水があるレジデンツ広場がその隣にあります。初めて行ったとき、この広場でチェスをしていた人を見かけ写真を撮りましたが、今回もチェスに興じる人がいました。

ザルツブルクでは、やはりここで食事をしたいものです。

ガイドさんの案内で十分ザルツブルクの町を楽しめた一日になりました。

カラヤン氏の生家

2019-06-05 22:07:05 | 音楽一般
ザルツブルグにはカラヤンの生家があります。ザルツブルク市内見学の時に家の脇の道を通りました。ザルツブルクを流れるザルツァッハ川に架かるマカルト小橋の近くにあります。庭には、カラヤンの指揮をする姿の像があり、すぐ目に付きます。

庭を前から見るとこのような指揮姿です。