ベルリンから次の宿泊地ドレスデンに行く途中午前中はポツダム観光をした。ポツダムは実に広い。我々の旅行ではツェツィーリエンホーフ宮殿の観光が含まれていた。ポツダム会議の舞台で、我々日本人にはすぐにポツダム宣言なる言葉が思い浮かぶ。ドイツ人ガイドさんからいろいろな部屋での詳しい説明があったが、我々日本人を意識してなのかこの「ポツダム宣言」という言葉は聞かれなかったように思う。
ツェツィーリエンホーフ宮殿は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の息子である皇太子ヴィルヘルムの妻の名ツェツィーリエに由来する。ヴィルヘルム2世が息子家族のために建設を命じ、1917年に完成した。少し歴史を語ると、(西洋音楽とは逸れてしまうが)、1918年のドイツ革命後、第一次世界大戦に敗北したドイツは、父親ヴィルヘルム2世、皇太子ヴィルヘルム共にオランダに亡命することになった。だからこの宮殿での皇太子としての生活は2年もなかったことになる。その後、一市民としてドイツに帰国し、再びこの宮殿に住むことになったが。また、父親のヴィルヘルム2世は、日本との関係でも語られることが多い。日清戦争後、遼東半島の割譲に異議を唱えるロシアは、ドイツ、フランスを誘い、日本にこの地を清国に返還するよう主張した(いわゆる三国干渉)。このとき、外相の陸奥は、三国干渉の「張本ハ露国タルコト勿論ナレトモ露国ヲシテ斯ク迄急激ニ其猛勢ヲ逞クスルニ至ラシメタルハ実に独逸ノ豹変ニ基因シタリ」と言っていた。このときロシア皇帝ニコライ2世はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を「大西洋提督」と、ヴィルヘルム2世の方はニコライ2世を「太平洋提督」と、お互い呼んだそうである。まあ我々からすれば勝手に呼ばないでもらいたいところだ。
ツェツィーリエンホーフ宮殿
内部の一室
ポツダムと言えば、誰しもサンスーシ宮殿が思い浮かぶだろう。今回旅程の関係でここは訪問個所には入っていなかった。次回、いつになるか?、訪れる機会があればと思う。
ポツダム、サンスーシ宮殿と言えば、歴史を学んだ人はフリードリヒ2世(大王)をすぐ思い浮べるだろう。この人である。
王は、フランスの哲学者ヴォルテールなどとも交わり、啓蒙専制君主と呼ばれることがある。音楽にも才能を示し、フルートの演奏のみならず、作曲もする。
現代の名フルート奏者(ベルリンフィルのソロ奏者)のこの人がそのフリードリヒ大王の作品をおさめたCDを出している。大王に扮したパユである。
CD2枚からなるこのフルート作品集にはこの大王と関係する何人かの作品が入っている。
フランツ・ベンダ、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツなどの作品と共に、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、それにその父親の ヨハン・ゼバスチアン・バッハの作品も収められている。クヴァンツはフリードリヒ大王のフルートの先生で、エマヌエル・バッハは大王の宮廷にチェンバロ奏者として仕えた。父親の大バッハはフリードリヒ大王の招きに応じて、1747年5月にポツダムのサンスーシ宮殿を来訪した。ここでバッハはオルガン、チェンバロの腕前を披露するとともに、王に主題の提出を求め、それによる即興演奏を行った。ライプツィヒに戻り、フーガやカノン、それとこの作品の中心ともなるべきフルート、バイオリン、通奏低音による4楽章からなるトリオ・ソナタを作曲した。そして7月に王に献呈することとなった。これがバッハ晩年の傑作「音楽の捧げもの」である。
次回は、そのバッハが長く活躍し、晩年を過ごすことになったライプツィヒについて語ります。
ツェツィーリエンホーフ宮殿は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の息子である皇太子ヴィルヘルムの妻の名ツェツィーリエに由来する。ヴィルヘルム2世が息子家族のために建設を命じ、1917年に完成した。少し歴史を語ると、(西洋音楽とは逸れてしまうが)、1918年のドイツ革命後、第一次世界大戦に敗北したドイツは、父親ヴィルヘルム2世、皇太子ヴィルヘルム共にオランダに亡命することになった。だからこの宮殿での皇太子としての生活は2年もなかったことになる。その後、一市民としてドイツに帰国し、再びこの宮殿に住むことになったが。また、父親のヴィルヘルム2世は、日本との関係でも語られることが多い。日清戦争後、遼東半島の割譲に異議を唱えるロシアは、ドイツ、フランスを誘い、日本にこの地を清国に返還するよう主張した(いわゆる三国干渉)。このとき、外相の陸奥は、三国干渉の「張本ハ露国タルコト勿論ナレトモ露国ヲシテ斯ク迄急激ニ其猛勢ヲ逞クスルニ至ラシメタルハ実に独逸ノ豹変ニ基因シタリ」と言っていた。このときロシア皇帝ニコライ2世はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を「大西洋提督」と、ヴィルヘルム2世の方はニコライ2世を「太平洋提督」と、お互い呼んだそうである。まあ我々からすれば勝手に呼ばないでもらいたいところだ。
ツェツィーリエンホーフ宮殿
内部の一室
ポツダムと言えば、誰しもサンスーシ宮殿が思い浮かぶだろう。今回旅程の関係でここは訪問個所には入っていなかった。次回、いつになるか?、訪れる機会があればと思う。
ポツダム、サンスーシ宮殿と言えば、歴史を学んだ人はフリードリヒ2世(大王)をすぐ思い浮べるだろう。この人である。
王は、フランスの哲学者ヴォルテールなどとも交わり、啓蒙専制君主と呼ばれることがある。音楽にも才能を示し、フルートの演奏のみならず、作曲もする。
現代の名フルート奏者(ベルリンフィルのソロ奏者)のこの人がそのフリードリヒ大王の作品をおさめたCDを出している。大王に扮したパユである。
CD2枚からなるこのフルート作品集にはこの大王と関係する何人かの作品が入っている。
フランツ・ベンダ、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツなどの作品と共に、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、それにその父親の ヨハン・ゼバスチアン・バッハの作品も収められている。クヴァンツはフリードリヒ大王のフルートの先生で、エマヌエル・バッハは大王の宮廷にチェンバロ奏者として仕えた。父親の大バッハはフリードリヒ大王の招きに応じて、1747年5月にポツダムのサンスーシ宮殿を来訪した。ここでバッハはオルガン、チェンバロの腕前を披露するとともに、王に主題の提出を求め、それによる即興演奏を行った。ライプツィヒに戻り、フーガやカノン、それとこの作品の中心ともなるべきフルート、バイオリン、通奏低音による4楽章からなるトリオ・ソナタを作曲した。そして7月に王に献呈することとなった。これがバッハ晩年の傑作「音楽の捧げもの」である。
次回は、そのバッハが長く活躍し、晩年を過ごすことになったライプツィヒについて語ります。