山から帰って、数日分の新聞を広げてみると、鶴見俊輔の訃報が報じられておりました。
小田実が逝き、吉本隆明が逝き、そして鶴見俊輔。
次々と鬼籍へ入っていきますな。こちらがそれ相応に歳をとってきているので
やむをえないことではありますが、寂しくなるばかりです。
かつてその昔「ベ平連ニュース」なるものを取り寄せていた頃があって、
「イントレピッドの4人」の米軍脱走兵の援助活動が華々しく
掲載され、感心するところがありましたね。1967年のことでした。
記者会見の写真には緊張した面持ちの小田実と鶴見俊輔がいてちょっと印象的でした。
その2ヵ月後には原子力空母エンタープライズの佐世保入港阻止の闘争でした。
いわゆる「エンプラ闘争」ね。1968年1月。
高校3年だったわたくしのたぶん初めてのデモ参加ではなかったでしょうか。
もう半世紀近くも前ね。結構「ベ平連小僧」だったわけであります。
鶴見はどちらかといえば、ピラミッド的に理論を組み立てていくわけでなく、
平面で、拾えるだけの物を拾っていきながら織り広げていくような印象。
だからどこからも入りやすく、またその分とっかかりにくさもあったでしょうか。
この人すごいなぁと思い出したのはもっと後年になってからでしょうね。
「期待と回想」の自伝が何といっても面白いです。
平場に立って、決して手離さない思想の核を抱いています。
いくつかの本を引っ張り出してめくってみると、そのまま引き込まれて
しばらく読み返したりしております。
司馬遼太郎がこの国の行く末に不安を抱きながら逝き、
吉本は「これからの人類は危ない橋をとぼとぼと渡っていくことになる。」
と言って逝きました。
そして時代はますます居丈高で剣呑な風潮。
でも安保法案に若い者が完全と声を上げ始めたその声を聞きながら
鶴見は逝ったのだとすれば、少しは希望を抱いて逝ったのかもしれませんね。
93歳だったとか。(合掌。)
私も『思想の科学』をよく買っていましたし、ベ平連のデモで、円山公園から市役所まで一緒に歩いたので、鶴見俊輔は一番身近な哲学者だったかも知れません(残念ながら話したことはありませんでしたが)。
なぜベ平連のデモに参加したかというと、ナベさんと全く同じ動機でした。あのイントレピッドの米兵をかくまっているという『記者会見』?は、ものすごく強烈で、いかにも権力と対峙しているという緊張感がピリピリと伝わってくるものでしたね。すぐにカンパに応じ、ベ平連の活動をしたいとの手紙を送った記憶があります。
すると直ぐにあの「殺すな!」のバッジが送られてきて、かすかな行動の第一歩が始まりました。
当時浪人だった私でした。試験も間近なときに判った「原子力空母エンタープライズの佐世保寄港」は、ホント、衝撃的でした。
何か行動しなければ、という衝動に駆られてやったのが、あのボロ家の窓に「エンタープライズ寄港反対」という張り紙をしたことと、最寄りの駅である京阪電車京津線の追分駅に一人立って、手製のカンパ袋と署名用紙を用意して反対運動への共鳴をお願いしたことでした。
朝、駅に来る人来る人ほとんど知り合いでしたが、結構皆さん温かく署名、カンパしてくれた記憶があります。その後、ベ平連のデモに参加し、鶴見さんの姿を間近に見たのでした。ただ、その頃の私は静かに「ベトナム戦争反対!」と叫ぶだけのデモにはもの足りず、一緒に参加していた浪人仲間と「反戦浪人連合」というのを作り、グレーのヘルメットを被ってデモに参加し、もう一人の主催者である飯沼二郎さんから厳しいお咎めを受けて、独自の道を歩き、あちこちのより「過激?」なデモに参加していったのでした。
そんな状態ですから、当然二浪することになり、翌年、皆さんと出会うことになったのでした。
あれがなかったら、私の人生は平々凡々な全く普通の団塊の世代で終わったように思います。
今、西と東で「SEALDs」の学生・若者達が行動を開始していますが、彼らが今接する感性豊かな人々と強い絆ができることを願わずにはいられません。
ただ、その中にいるべき中年・老年の「哲学者」が次々と逝ってしまっている現実は悲しく、寂しく、心配でなりません。
エンプラ闘争の頃は現役受験生。もう受験の直前でありましたな。受験のおりに東京へ立ち寄って、たしかお茶の水界隈の橋のたもとにあったバラック小屋のようなベ平連事務所を訪ねたことがありました。
同じように大学は落ちて、こちらは一浪の身分となったわけでありました。
たしかに、同世代も、それから同世代を越えても、今の若い人たちが互いに感性の火花を散らせながら刺激しあって欲しいものだと思いますね。
もっともそんな老人の思惑などすんなりと越えて、もっと先へ行ってくれるのでしょうけど。
何の講演だつたか....
お着物姿の澤地おばさまや、白髪のきれいな大江先生とか、とにかく、もしかして、これが見納め?と思いつつ、出かけています。
この暑さを乗り切って、まだまだ、頑張ってほしいものです。
小田の講演を最後に聞いたのも、丁度、暑い夏のさかり 8月15日の少し前のことでした。