手玉と的玉の分離具合とテーブルの
コンディションを把握する方法です。
この配置にして、黄色1番を入れて
オレンジ5番に手球を出す。
その際に手玉と的玉の分離具合で
スロウの度合いを見切る。
また、クッションからの返りで、
クッションの具合を見抜く。
さらに、戻しの転がり具合でラシャ
の走り具合を読み切る。
これを10発程やる。
また、手玉を右に置いてもやる。
入れて出すのは難しくないのですが、
狙い通りに出すにはコンディション
を把握していないと絶対に手玉が
ショートしたり離れ過ぎたりしま
す。
室温、湿度、ラシャの湿り具合、
ラシャの性質、クッションの反発
度合い、等々の外的要因にとても
左右される配置であるので、この
セットでのテストが一番全体を
把握できます。
当然、脳内にデータが蓄積できた
ら、それに合わせて撞き方を変え
て行く。
狙った通りに100回撞いて100回
入れて出せないと駄目です。
センターショットなどという意味
のない練習よりもずっと効果があ
あります。
センターショットは、あくまで
自分の撞き出しの確認のために
活用するものであり、センター
ショット100発連続繰り返しとか
はとても馬鹿げたものです。
野球選手は有無をいわさず走り込
まさせろ、というような埒もない
精神論のようなもの。時間の無駄
です。
野茂投手が鈴木監督と確執が生ま
れたのも、そうした具体性を欠い
た精神論で監督が野茂選手をカタ
に嵌めようとしたから。うさぎ跳
びでグランド50周やれ、のような
非科学的精神論ではスポーツ技術
は向上しない。脳筋は駄目なんで
す。
こうした前時代的スポーツ根性論
が否定されて欧米式のスポーツ
科学が日本で導入され始めたのは
私が大学の頃で、大学の体育の
授業では「隣りと雑談しながら
ランニング」というのを教員に
実験的にやらされました。(大学
の文系学部でも体育は文部省認定
単位の中に教養課程で設定されて
いる)
それまでの精神論でしかスポーツ
を捉えられない日本人の業界の限
界性を立て直す目的で実践が行な
われたのが私が学生の頃がはじめ
で、それまでの1970年代末期まで
は、クラブ活動でもミススプレー
をしたら監督が選手を平手打ちで
ぶん殴っていた。旧軍隊のように。
中学の時などはもろにそれです。
男女関係ない。女子バスケの選手
も、監督がパンと手を叩くと練習
プレーがその場で止まる。
そして監督顧問教師がつかつかと
来て、ミススプレーした女子選手
をスボコ平手打ちです。
教え方自体は上手かったので、
うちの女子は関東大会で準優勝ま
で行きましたが、まあ暴力と精神
論が昭和の代名詞だった。
しかし、スポーツではそれだけで
は技術の向上は無い訳です。
すべて、全部理論なのですから。
これは武道でもそう。
ただ、現代は「楽して利を得よう」
とする根性がスポーツ界にも台頭
して来ていて、それは間違いです。
奮闘努力無くしてスポーツの技法
は高度な領域には行かない。
如何に効率よく、正しい理論に
基づいて、それをマスターするか、
がスポーツ技法の習得の根幹です。
時に反復練習も必要ですが、やみ
くもに走り回れば上手くなるという
事は絶対に存在しない。
頭を使わないとスポーツでも技法
は身につかない。
ただ、時代に左右されない不動の
ものとして存在するのが「努力を
しない者は報われない」という
スポーツの厳しい定理です。
「上手くなりたいなぁ」という思い
だけでは絶対に(これは絶対に)
上達はしない。
努力するのです。正確な理論と
訓練法を知って。
厚みだけで玉入れしようとしたら
ミスをする配置。一番スロウ引き
ずりが発生しやすいアングルだか
らです。スキッドもしやすい。
さあ、何をどうやってどうするか。
※スロウ
玉の回転により手玉と的玉の分離
角度が不正分離角度になる状態。
予測可能。ゆえに対処可能。
※スキッド
玉とラシャの抵抗により、手玉も
しくは的玉の進路が不正進行をす
る現象。摩擦により発生する。
また、手玉や的玉の汚れ、ラシャ
の汚れ、異物付着等によっても
不正進行が発生する。予測不能。
対処は「強く撞く」事で玉の速度
を上げる。
テーブルコンディションが悪い台
では特に通常よりも強く撞いて的
玉の速度を上げてポケットさ
せる。
転がし玉の玉転がしでは物理的に
全く対処できない。
転がし玉は、上げ膳据え膳のよう
な最良コンディションの大会台や
新ラシャの極上状態の台でしか使
えない。