今日のうた

思いつくままに書いています

絶頂の一族 1

2015-03-29 14:50:13 | ⑤エッセーと物語
松田賢弥著『絶頂の一族 プリンス・安倍晋三と六人の「ファミリー」』を読む。
                    ↓
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062194341

本を開くと口絵が逆さまになっている。目次を含む16ページまでが逆である。
単なる乱丁だとは思うが、意図的なものかとドキッとした。
この本は大きく分けて、2つの要素から成り立っている。一つは、安倍晋三が岸信介の
遺志を継ぐことに政治生命を賭けていること。二つ目は、政治家岸信介の血を絶やさぬ
よう、その娘である安倍洋子(晋三の母)が画策し、それによって引き起こされる
周りとの確執である。

現在の安倍政権が目指しているもの、そして沖縄の現実は、すべて岸信介に遡ることが
できると理解できた。祖父のやり残したことや挫折したことを、公人である安倍首相が
権力を使ってやり遂げようとすることに、私は大いに違和感を覚える。
気になった言葉を引用したいと思います。(呼び名は本文通りとします)

 岸が他のA級戦犯容疑者18名とともに幽閉の身から解き放たれたのは、
 1948年12月24日のことだった。前日には東條ら7名のA級戦犯に絞首刑が執
 行されていた。岸は獄に繋がれながら、獄中記「断想録」では「大東亜戦争を以て
 日本の侵略戦争と云ふは許すべからざるところなり。之れ事実を故意に
 歪曲するものなり」と記していた。
 その岸はなぜ、釈放されるのか。

 伏線はあった。岸は当時、巣鴨プリズンに面会に来た弟の佐藤栄作に対し、
 「オレがここを出られるかどうかということは国際情勢が反映しているようだ、
  米国とソ連が仲良くしているころは、いつクビをはねられるかと心配していたが、
  米ソの間の仲が悪くなってからは、そんなことを心配する必要もなくなった」と
 語っていた。
 つまり、米ソ冷戦が激化する中で、日本が反共産主義陣営の一翼を担い、反共の砦
 として復興させていくというアメリカの占領政策の転機を、岸は予見していた。

 一方、占領政策が転換していく中で、GHQ内部で戦犯容疑者の扱いに変化が
 見られた。民主化を進めるGS(民主局)と対立するG2(参謀2部)は、
 48年4月24日、連合軍最高司令官・マッカーサー元帥に対し、岸の巣鴨プリズン
 からの釈放を勧告していたのだった。
 いずれにせよ、岸がなぜ釈放されるに至ったのか、その決定的な理由はわからない。
 釈放前後、岸は何を思っていたのだろうか。その片鱗を窺えるのが次の言葉だ。

 「(新憲法草案は)全体の条文がすべて分かっていたわけではないですよ。
  第九条の『戦争の放棄』とか、第一条の『天皇の地位』について具体的なことは
  分からなかったが、要するに何か押し付けられている、日本側の意向を無視した
  ものをつくっているんだ、ということは感じていました。
  戦争責任ということに関しては、アメリカに対して戦争責任があるとはちっとも
  思っていないよ。しかし日本国民に対しては、また日本国に対しては責任がある。
  ともかく開戦にあたっては詔書に副署しているし、しかも戦争に敗れたという
  責任は自分たちにもある」
 
 日本国憲法は岸が獄中にいる47年5月に施行された。岸にとって新憲法は戦勝国
 アメリカから押しつけられたものという認識で捉えられた。
 53年4月に総選挙が行われることになった。岸は4万票余りを得て当選し、念願の
 政界復帰を果たす。公職追放の解除から1年が過ぎていた。
 政界に復帰した岸は保守合同と憲法改正に奔走していく。

 岸は保守合同当時を振り返り、
 「政策協定で合意したことは、この30年間であらかた実行してしまった。
  しかし、いまに至ってもできなかったものがある。日ソ交渉をやったがまだ
  北方領土が返ってこない。それがひとつ。国内問題では、憲法改正、つまり
  自主憲法の制定を謳いながら、それが見送られている。改憲には国会で3分の2を
  制することが前提になるが、実際問題として3分の2を占めることはきわめて
  困難だ。まあ、実情に照らして解釈の上で現憲法を運用していくしかないが、
  保守合同の精神からいえば、残念なことのひとつといわなければならない」

 昭和30年11月15日の「党の政綱」の中の「独立体制の整備」で、こう謳った。
 「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の
  自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。
  世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、
  国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える」

 ここから岸の憲法改正へのグランドデザインは描かれた。
 岸の宿願だった憲法改正は現在、孫の安倍晋三総理に引き継がれている。その陰で、
 晋三の母で岸の娘の洋子が「今の自民党は父・岸信介が作った、その偉大な足跡を
 決してわすれてはならない」と、晋三に噛んで含めるように口伝えしていたとしても
 何ら不思議ではない。(引用ここまで)  
  
(岸がやり残した北方領土問題と憲法改正を、60年が経った今、孫の晋三が完成させよう
 としているのだ。それにしても昭和30年に、「駐留外国軍隊の撤退に備える」とある
 のは驚きだ。日本の防衛を自国で考えていたことが窺える。晋三は岸が目指していた
 ことをしようとしているようだが、その方向性は違うと、私は思う。岸は自ら自国の防衛を
 考え、そのためにはアメリカとどう向き合っていくべきなのかを考えていた。
 だが晋三は、始めからアメリカの庇護のもとでの防衛しか考えていないのでは
 ないだろうか。アメリカが求めることを率先して行うことにより、日本がどこに
 向かうことになるのかを考えているのだろうか。私には全く見えない)
2につづく                             (敬称略)

※週プレNEWSより
 『絶頂の一族 プリンス・安倍晋三と六人の「ファミリー」』の作者・松田賢弥氏への
 インタビューをブックマークに入れました。本の内容がよく解りますので
 是非、ご覧ください。残念ながら削除されました。(2016年2月12日 記)

※『絶頂の一族』が文庫本になりました。(講談社+α文庫・799円)この本の
 紹介文を引用します。「『昭和の妖怪』と言われた祖父岸信介、大叔父佐藤栄作、
 『岸の娘婿』と呼ばれた父晋太郎とその父安倍寛ら、安倍晋三をめぐる血脈は、
 養子縁組と結婚によって固められてきた。
 岸の悲願であった憲法改正の実現を目指す力の源とは何か。
 母洋子の執念と影響力など、関係者への取材と多数の資料から描く。
 今のこの時期に、必読書だと私は思います。
(2015年11月3日 記)


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絶頂の一族 2

2015-03-29 14:49:38 | ⑤エッセーと物語
 1955年8月に、鳩山内閣の幹事長だった岸は、ダレス国務長官に対し、
 「現在の安保条約は不平等で、日本側としては条約を対等なものに直したい」と
 提案した。しかし、ダレス国務長官はその提案が意外だったらしく、「アメリカとの間に
 対等の安保条約を結ぶなんて、日本にそんな力がないではないか」と一蹴した。
 この態度が逆に岸の神経を逆撫でし、その後の安保改正へと走らせることになる。

 ダレス国務長官と重光葵外務大臣の会談
 ダレス:「アメリカが万一攻撃を受けた場合、日本ははたして軍隊を国外に派遣し、
 アメリカを助けてくれるのでしょうか。これは疑わしいでしょう。もし、日本が妥当な
 戦力をもち、また、法的な枠組みが整備され、改正された憲法をもっているというの
 ならば、状況は変わってきます。たとえば、グアムが攻撃された場合、
 日本はアメリカのために駆けつけることができますか」

 重光:「日本はそうするでしょう。現行の体制下でも、日本は自衛のための戦力を組織できる
     のですから」

 ダレス:「私が言ったのは、日本の自衛についての問題ではありません。
     アメリカの防衛ということを言っているのです。・・・
     憲法が事実上、日本の戦力の海外派遣を妨げる以上、
     日米の協議の意味はほとんどないのではないですか」

 岸の動きは速かった。6か月後に岸は保守合同をなし遂げ自由民主党を結成、
 憲法改正を掲げた。次の、岸の政治プログラムは安保改正だった。
 それまでの安保条約(51年9月調印)は、アメリカ軍の駐留を最優先にした内容だった。
 そしてアメリカ軍の駐留を半永久的に認めた一方的な内容だった。岸の政治信条は、
 安保を日米間の片務的な内容から双務的なものにする、つまり対等関係にしなければ
 というものだった。そのことは一方で、冷戦構造の下で日本がアメリカ側に立つことを
 意味していたのである。

 岸はアイゼンハワー大統領との首脳会議を前に、国防会議と閣議で第一次防衛
 三ヵ年計画を決定。
 内容は3年間(昭和33~35年度)に、陸上自衛隊18万人、海上自衛隊は
 艦艇12万4千トン、航空自衛隊は航空自衛機1300機の整備を目標にする、
 というものだ。岸にとって第1次3ヵ年防衛計画は、日本の防衛力を内外に示す
 「大きな切り札」だった。
                            
 岸の言葉
 「要するに、抽象的には日米対等の関係において主権の平等、相互的利益、協力を
  つくり上げるといいながら、現行安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利で
  あって、まるでアメリカに日本が占領されているような状態であった。
  これはやはり相互契約的なものじゃないではないか、というのがダレス(国務長官)に
  対する私の主張でした。

  ただ、他の国と違って日本にはアメリカが押し付けていった憲法がある。対等の関係で
  相互契約にするといっても、アメリカが危険に遭った場合、日本軍をアメリカ領土に
  出動させることはできない。
  そういう憲法をあなた方(アメリカ)がつくったんだから、といいました。しかしながら、
  一方ではこんな議論もしました。アメリカが日本を防衛すると同時に、日本は
  アメリカ軍のために基地を提供して、基地におけるある種の行動を認めること、
  また、日本自体は国力に応じて防衛力を強化して日米協力の下に日本の安全を
  守ること、そしてそのことがアジアの平和の基礎になるんだという意味に
  おいて安保条約を改めなければいかん、という議論をしたわけです。

  私がそもそも戦後の政界に復帰した一番の狙いは、占領政策時代の弊害を一切
  払拭して、新しい日本を建設するということにあったわけです。そのためには、
  第1に安保条約を改正しなければならないということ、第2にはどうしても
  憲法を改正する、そのための小選挙区制の実施ということを頭に描いておったんです」

(当時すでに、小選挙区制の実施まで考えていたとは驚きだ)

 ところが、新条約の交渉開始の一方で1958年10月、岸が警察官職務執行法(警職法)
 の改正案を国会に提出、それが予想外の混乱を引き起こす。岸にとって警察官の
 職務権限の強化を盛り込んだ警職法は、安保改正の地ならしに欠かせなかった。
 警察に政治的な集団犯罪を取り締まる予防警察の性格を帯びさせるものだった。

 岸の言葉
 「安保条約は相当の反対を予想して、その反対をあくまで押切ってやるという強い
  決意をもち、命をかけてやるつもりだったから、その秩序を維持するための前提と
  して警職法の改正はどうしても必要だと考えていたんです」

 しかし、一方で戦前の治安維持法を想起させる警職法は、世間には岸の権力の
 横暴と映った。不起訴で釈放されたとはいえ、A級戦犯容疑者だった岸のイメージは
 依然、払拭されたわけではなかった。「警職法改悪反対国民会議」が結成され、
 ストライキの参加者は400万人にも及んだ。
 結局、警職法改正案は11月下旬に廃案になった。

 安保阻止国民会議が中心の反対勢力は早くから新条約阻止に加え、「アイゼンハワー
 訪日阻止」「岸内閣打倒」の闘争態勢に入った。
 焦った岸は強行手段に踏み出す。まさに5月19日から20日未明にかけて、
 国会の会期50日間延長と新条約の強行採決という挙に出たのだった。
 質疑打ち切りの動議可決の後、新安保条約、新行政協定、関連法案の採決を
 求める動議可決、さらにその採決が可決。この間、わずか3分だった。

 5月20日の岸の非民主的な強行採決は、国民に新条約への反感を呼び、
 「民主主義の破壊者・岸」とこれまで経験したことのない未曾有の新条約反対運動を
 引き起こした。
 朝日新聞は5月21日付の一面トップに「岸退陣と総選挙を要求す」と題した社説を
 載せた。
 「”多数の暴力”という議会主義としては矛盾した言葉が流行しているのも、
  このためである。議会主義に多数は当然のことである。ただその多数は、
  互いに論議が尽くされた後に出てくる賛成か反対の多数でなくてはならぬ。
  ギリギリまで論議はしてみるということが前提になるならば、多数の暴力という
  言葉などがあり得るはずはない」(引用ここまで)

(現在でも通用する社説である。60年安保の時に晋三は5歳だった。当時の事を
 洋子は晋三にどのように伝えたのだろう。いかなる反対があろうと、
 どんな手段を用いても、それを押し通すのが男とでも言ったのだろうか)
 3につづく


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絶頂の一族 3

2015-03-29 14:48:45 | ⑤エッセーと物語
 新条約が自然成立しアイゼンハワー訪日の4日前となった6月15日から16日にかけ、
 新条約阻止の行動には全国で580万人が参加、空前の規模となった。ここで悲劇は
 起こった。当時22歳の樺美智子という東京大学文学部4年生が圧死したのである。
 しかし岸は強気だった。赤城宗徳防衛庁長官は、ついに岸からデモ鎮圧のために
 自衛隊出動の要請を受けたのである。

 岸:「赤城君、自衛隊に武器を持たせて出動させることはできないかね」

赤城:「出せません。自衛隊に武器を持たせて出動させれば力にはなるが、同胞同士で
   殺し合いになる可能性があります。そうなればこれが革命の導火線に
   利用されかねません」

岸:「それでは武器を持たさずに、出動させるわけにはいかないか」

赤城:「武器なしの自衛隊では、治安維持の点で警察より数段も劣ります。それに
   武器なしの治安出動という訓練も積んでいません。そんなことをして国民の間に
   『役立たない自衛隊ならつぶしてしまえ』という声が出てきたらどうします。
   私の在任中に自衛隊をなくさなければならなくなるような原因をつくるわけ
   にはまいりません。どうしてもといわれるなら、私を罷免してからにしてください」

 アイゼンハワー訪日は延期され、岸自身が総理としての責任を決意することでも
 あった。岸が「暴徒と化したデモ隊から死者」と言うように、「暴徒」という言葉で片付け
 られる事態だったと言えるだろうか。すべての出発点は、5月20日に新条約を強行採決
 したことに帰着せざるを得ない。新条約は国民の議論を無視した、数による「一党独裁」
 の議会政治の産物言い過ぎだろうか。岸は、「(5月19日、20日の)
 『やり方に賛成できない』というのであれば、ほかにどんな手段を示すことができた
 のであろうか。あのとき会期延長も採決もしなかったならば、安保改定は廃案になった
 であろう。その結果は単に岸内閣の進退にとどまらず、日米関係に重大な亀裂を生じ、
 我が国の国際的な立場は著しく低下したであろう」と言うが、それは後から持ち出した
 理由にしか思えない。
 新条約が重要問題であればなおさらだ。議会制民主主義を形骸化し、通していいものなど
 あろうはずがない。そのことをいちばんわかっていたのは、ほかならぬ
 岸自身ではないだろうか。

(まるで現在が、当時にタイムスリップしたような錯覚に陥ってしまう。筆者がお書きの
 ように、私には岸がこのようなことが解っていてしたのだと思う。だが晋三は、
 単に岸がしたのだから自分がしても許されるくらいにしか、事の重大さを理解して
 いないのではないだろうか)

(晋三の父、晋太郎の母の静子は安倍寛と離婚した後に、西村謙三と再婚し正雄をもうけて
 いる。つまり晋太郎には異父兄弟がいたのだ。西村正雄は早世した晋太郎に代わって、
 晋三の歴史観に対して仮借なき批判の言葉を遺している。2006年8月に73歳で死去)

 西村は2006年7月当時、小泉政権の官房長官に就いていた晋三に手厳しくこう憤った。
 「晋三は、小泉総理の靖国神社参拝を巡り、(小泉総理と同様に)『心の問題だ』という
  理屈を持ち出しているが、靖国神社参拝は『心の問題』ではない。歴史的事実の問題だ。
  1銭5厘の赤紙(召集令状)1枚で強制的に徴兵されて戦死した兵士と、戦争を主導した
  A級戦犯の職業軍人らが合祀(ごうし)されている靖国神社への参拝が、アジアだけ
  でなく、国際的にも『心の問題だ』という方便は通用しないということが晋三には
  全くわかっていない。

  戦死だけではない。南方では餓死が待っていた。軍部は負けるとわかっていながら、
  兵士を投入し大量の犠牲者を出した。1931年以降は侵略戦争だ。あの戦争で他国を
  侵略し、無差別に民間人を殺した。その事実を消すことはできない。

  戦後60年の2005年8月15日に、小泉総理は談話として、『我が国は、かつて
  植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の
  損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、
  改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する』と述べた。
  侵略戦争を認めているではないか。

  晋三はあの侵略戦争がわかっていない。晋三は靖国神社参拝へのアジア諸国の
  反発に対し『心の問題だ』というが、犠牲者が300万人だろうが。1人だろうが、
  侵略は侵略だ。歴史的事実を踏まえてけじめをつけなければいけない」

 西村の中であの戦争は決して終わってはいなかった。ましてや異父兄の晋太郎の
 息子である晋三が靖国神社参拝に同調していることは、西村にとって到底
 許しがたいことだった。
 
 西村が晋三に出した手紙
 「偏狭なナショナリストと離れろ。世間では『戦争好きの安倍が総理になったら、中国や
  韓国との関係が悪くなる』との見方がある。靖国神社の付属施設
  『遊就館(ゆうしゅうかん)』では、太平洋戦争はルーズベルト米大統領に騙された
  陰謀だというビデオが上映され、戦争を美化して正当化しているのだ。
  『リメンバー・パールハーバー』の精神が生きている米国でも、靖国神社は
  軍国主義の社(やしろ)と捉えられている。国家を誤らせる偏狭なナショナリストとは、
  一線を画すべきじゃないか」

 西村はコピーを私に渡しながら、こう語気を強めた。「晋三は昭和史を知らなすぎる。
 歴史から学んでいない。政治家の言葉は重いものだということをもっと知るべきだ」

 祖父にA級戦犯容疑者で、訴追を免れた岸信介元総理を持つ晋三は2006年
 8月15日の会見で、「日本において彼らが犯罪人であるかといえば、それはそうでは
 ないということなんだろう」と答え、「犯罪人」扱いすることを認めなかった。
 戦争責任についても、晋三は会見で「戦争指導者の方々に一番重い責任があるのは
 事実だ」としつつ、
 「(戦争責任は)歴史家が判断すべきことではないか」と述べたという。

 西村は亡くなる直前、東京新聞(2006年8月19日付)の取材にも応じこう
 語っていた。
 「(西村は)兵器や遺品を展示する(靖国神社)境内の博物館『遊就館』の展示に、
  時代を引き戻さ  れたように感じたという。『八紘一宇(はっこういちう)や
  大東亜共栄圏など、僕たちが小学校で習っていた戦時中の歴史じゃないか』
  『先の戦争を肯定し、A級戦犯は「昭和殉難者」だと言うのは絶対に許せない』。
  口調は厳しかった。

  A級戦犯については『「犯罪人」という言葉に抵抗があるなら、310万人の同胞を死に
  追いやった戦争責任者と言い換えてもいい』と言った。そして『殉難者という表現は
  1銭5厘の赤紙1枚で召集された戦没者にとっては耐え難いのでは・・・』
  『日本人自ら侵略の歴史を検証し、靖国に祭られている大勢の被害者と軍部など
   加害者を明確に分け、加害者の戦争責任の軽重をはっきりさせるべきだ』と訴えた。

 晋三は2013年12月、総理(第二次)に就いて初めて靖国神社を参拝した。
 父・晋太郎の弟だった西村正雄の遺言を、晋三は一顧だにすることは
 ないのだろうか。(引用ここまで)

(西村正雄氏の言葉は重い。安倍晋太郎氏が西村氏が生きていたら、息子に、甥に、
 どのような言葉をかけるのだろうか)


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