今日のうた

思いつくままに書いています

街場の戦争論 1

2015-03-17 12:00:31 | ⑤エッセーと物語
内田樹(たつる)著『街場の戦争論』を読む。
          ↓
https://honto.jp/netstore/pd-book_26390417.html          

付箋をつけていったら、付箋だらけになってしまった。
特に心に残った内田さんの言葉を書き記して置こうと思います。

 「日本は戦争でいったんは灰燼(かいじん)に帰したけれども、その後奇跡の成長によって
 みごとに復活を遂げました」という話を僕は信じません。
 日本人はあの戦争によって取り返しのつかないくらい多くのものを失った。
 それはもう少し知恵と気づかいがあれば守れたものでした。
 それを日本人は惜しげもなく投げ捨ててしまった。僕はそれが口惜しい。

 【日本人は戦争に負けることによって何を失ったのか】
 今こそ、それをきちんと数え上げてゆく必要があると思います。もちろん、
 「価値あるもの」で戦争を生き延びたものはたくさんあります。
 敗戦以後に新たに獲得したすばらしいものもたくさんあります。
 でも、決定的に失われたものがある。
 それをきちんとリストアップするという作業はどうしても回避できない。
 不毛な作業ではありません。
 それは喪(も)の儀式に近い。それをしないとほんとうの意味での戦争は終わらない。

 「韓国に対する謝罪をいつまで続ければいいのですか?」という質問を受けましたので、
 「相手が『もういい』と言うまで」と答えました。実際にドイツの大統領はそうしています。
 かつて占領国に行くたびに、ドイツ大統領は第二次世界大戦の戦死者の墓地に詣(もう)でて
 献花をして、ドイツ国民を代表してナチスの所業についての謝罪をしています。
 ユーゴスラビアに行って謝罪し、ギリシャに行って謝罪し、ヨーロッパ中どこの都市でも
 謝罪し続けています。ほとんどそれが大統領の主務であるかのように。
 戦争が終わって70年経っても、この謝罪の儀式は終わらない。
 戦争に負けるというのは、「そういうこと」です。

(謝罪し続けることは他国のためだけではなく、自国のためでもあると考えます。
 戦争を記憶し続けることによって、同じ過ちを繰り返さないということを将来にわたって
 意識し続ける、未来志向の考えであると、私は思います)

 僕たちが敗戦で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの
 知力です。あまりにひどい負け方をしてしまったので、そのような問いを立てる気力さえ
 敗戦国民にはなかった。その気力の欠如が戦後70年続いた結果、この国の知性は土台から
 腐蝕してきている。ですから、僕たちはあらためて、あの戦争で日本人が何を失ったのか
 という痛々しい問いを自分に向けなければならないと思います。

(戦後生まれだからとか、学校で現代史を習わなかったから、という言い訳は通じない)

 あの敗戦で日本人は何を失ったのか、それを問わずにきたせいで、僕たちの国は今
 「こんなふう」になっている。戦争から何も学んでいない人たちがもう一度
 日本が戦争できるような仕組みにこの国を作り替えるために必死になっている。
 それに喝采を送っている人たちが少なからずいる。
 戦争から僕たちは何も学ばなかった。「戦争はもういやだ」というような生理的な嫌悪感は
 あったでしょうけれど、皮膚感覚だけでは、日本が「国として失ったもの」が何であるのかを
 理性的な言葉で語ることはできない。失ったことを自覚できなければ、それから後も今も
 失い続けているものが何かを語ることもできない。

 優越していたはずの日本海軍が米軍に惨敗したのは、凡庸な指揮官による戦術的拙劣という
 人為的なファクターが主因ですが、それ以前に自国にとって楽観的な情報だけを選択的に
 聞き入れて、リスクを過小評価するという日本軍の思考上悪癖がすでに取り返しのつかない
 ほどに戦争指導部を蝕んでいたことが敗因でした。

(この構造は、福島第一原発事故においても、全く同じことが繰り返されている)

 「戦後レジーム」という言葉に彼らがどのような定義を与えているのか、首尾よくそこから
 脱却した先に「どこ」に着地するつもりなのか。そのイメージが
 まったく僕には伝わってこない。
 ただ「戦後レジーム」とか「美しい国」とかいう記号だけしかそこでは行き交っていない。
 僕が「戦後レジーム」と呼びたいのは、今の首相を2度政権の座につけた
 【レジームそのもの】のことです。
 首相自身が端的にわれわれが脱却すべきレジームの徴候なのです。
 彼が今おこなっている政治活動そのものがまさしく「戦後レジームの最終形態、
 そのグロテスクな完成形」以外の何ものでもない。(引用ここまで)

(「戦後レジームからの脱却」という修辞ではなく、「戦前回帰」という言葉が
 ふさわしいと、私は思う)

元自衛官だった泥憲和さんは、次のように書いています。

「もの凄い勢いで、自衛隊員が退職しています。
 空室なしで10号棟まであった自衛隊官舎が、みんな立ち退いて、空き部屋だらけ。
 今の政権が続いたら、もう『徴兵制』は間違いないでしょうね。
 どうやら、安倍晋三自民党政権になって、『集団的自衛権』を強引に推し進めた辺りから、
 夏のボーナスを最後に退職する自衛官が激増したらしいです」。(引用ここまで)

(戦争は起こるべきして起きるというよりも、条件が整えば、知らず知らずに
 巻き込まれてしまうことがあるということを、歴史が教えている。
 そうならないためには、しっかり政権を監視して、国民一人ひとりが
 意思表示をしていかないと、ご自分が、ご自分の子どもたちが、そしてその配偶者が、
 孫たちが、戦争に駆り出されるということが実際に起こり得ると、私は考えます)
2につづく

追記1
2015年3月22日、防衛大学校の卒業式が行われた。
卒業生は472人だが、任官辞退者は去年より15人増えて25人に上っている。
任官辞退者が10人から25人に増えた現実を、安倍首相はどう考えるのか。
彼らが入学した時には、「集団的自衛権の行使」という条件は無かったのだから、
これからますます辞退者は増えていくのではないだろうか。
(2015年3月24日 記)

コメント (2)
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街場の戦争論 2

2015-03-17 11:59:48 | ⑤エッセーと物語
 映画監督のオリバー・ストーンが広島に来て講演したときに、こう言っていました。
 日本には豊かな文化がある。映画もすばらしい、文学もすばらしい、食文化もすばらしい。
 でも、あなたがたの国には、かつて高邁(こうまい)な道徳や平和のために立ち上がった
 総理大臣がひとりでもいたか、と。

 「あなたがたはアメリカの衛星国(satellite state)であり、
  従属国(client state)である。
  経済的には大きな実力を持っているにもかかわらず、あなたがたは
  いかなる立場も代表していない(you don't stand for anything)。」

 アメリカの国益を配慮して、日本人が戦後これだけ長い間アメリカに尽くしてきたのに、
 当のアメリカ人はこの「従属国の忠義」に一片の感謝も敬意も抱いていない。
 オリバー・ストーンはそうにべもなく告げました。われわれはそのことに
 もっと衝撃を受けるべきだと僕は思います。

(安倍首相は、日本国憲法がアメリカから押し付けられたみっともない憲法だと言っている。
 だがその彼が実際にしていることは、アメリカに都合のよい政策ばかりを
 取っているように、私には思えてならない。そして自国よりもアメリカの国益に
 配慮する安倍首相が、右翼と呼ばれる人々に支持されていることが、
 私には不思議でならない)

●安倍首相が日本国憲法を「押しつけ」だと言う理由が理解できた。
 2015年5月3日(憲法記念日)の朝日新聞の社説によると

「憲法が一から十まで米国製というわけではないし、首相も誇る戦後の平和国家として
 の歩みを支えてきたのは、9条とともに国民に根をはった平和主義で
 あることは間違いない。
 一方で天皇主権の下、権力をふるってきた旧指導層にとっては、国民主権の新憲法は
 「押しつけ」だったのだろう。
 この感情をいまに引きずるかどうかは、新憲法をはじめ敗戦後の民主化政策を
 「輝かしい顔」で歓迎した国民の側に立つか、「仏頂面」で受け入れた
 旧指導層側に立つかによって分かれるのではないか。」(引用ここまで)

(安倍首相が言う「押しつけ」とは、占領軍が作ったからというだけではなく、
 それまで権力をふるってきた旧指導層にとっての「押しつけ」だったのだろう。
 そしてその考えを、安倍首相は今も持ち続けているのは驚きだ。)
(2015年5月3日 記)
  
 小泉純一郎はイラク戦争がアメリカの国益を増大するのか減殺するのかを考量する
 ことなく、「アメリカが決めたことなら支持する」という「従者の忠節」ぶりを
 国際社会に誇示して見せました。

 2013年6月に安倍首相が参院予算委員会で「安倍内閣は村山談話をそのまま
 継承しているわけではない」という発言をした直後にその発言そのものを
 撤回するという「事件」がありました。
 (日本のメディアはこの事件の重要性をみごとに黙殺しましたが)。
 官房長官は「中国韓国に配慮したため」という説明をしましたが、・・・・
 でも、日本ではその弁明が通りました、誰も首相の食言を咎めなかった。

 それは「発言を撤回しろ」と「命令」したのがアメリカだということをみんな
 暗黙のうちに知っていたからです。中韓の反発は無視できるが、アメリカからの
 命令は無視できない。
 そして、その場合に「アメリカからこういう命令がありましたので、撤回します」とは
 決して口に出すことができない。それだと日本は主権国家ではなく、アメリカの
 従属国であることを国際社会にも国民にも公言することになるからです。
 重要政策が一夜にして転換したときに、「誰の干渉でもない、気が変わったのだ」
 という言い訳を総理大臣が平然と口にして、それを誰も咎めない。
 【こういうことが起きる国を従属国と呼ぶのです。】

(当時、私はアメリカからの圧力ということは知っていたが、却って波風が立たずに
 良かったと思った。だが、こういうことだったのか)

 「戦後レジームからの脱却」というのは、本来の意味は
 「従属国からの脱却」ということです。
 「美しい国へ」というのは「主権国家へ」ということです。その目的は正しいと
 僕も思います。でも、その目的を実現するために採用されたのが
 「アメリカへの徹底的な従属を通じてのアメリカからの自立」という
 伝統的戦略の繰り返しであるなら、何の意味もない。
 「従属を通じての自立」という発想そのものが従属国マインドのもっとも徴候的な
 かたちだということになぜ彼らは気づかないのか。

 キューバにはアメリカのグアンタナモ海軍基地があります。キューバは、
 これはキューバの固有の国土だから返還してほしいとずっと要求をしています。
 でも、アメリカは返さない。
 沖縄とグアンタナモは外国軍隊が「合法的」に占拠しているというありようを
 見るとよく似ています。
 でも、日本は何千億円という「おもいやり」予算をつけて占領者を厚遇している。
 日本がアメリカの軍事的従属国であるという「現実」をまっすぐみつめているのは
 沖縄県民だけかもしれないと僕は思います。

(普天間基地の移設問題にしても、政権は沖縄県知事と会おうともしない。
 選挙での沖縄県民の民意は、ことごとく無視される。政権はアメリカと対等に交渉する
 権利を自ら放棄してしまっているので、翁長知事と会えないのだ)

 改憲草案の主目的は「九条を廃止して軍事的フリーハンドを獲得する」ことです。
 とりあえずそれが最優先課題です。
 政府がめざしている「軍事的フリーハンド」とはどういうものなのでしょうか。
 厳密に言えば、これは「フリーハンド」ではありません。というのは、
 日本はアメリカの世界戦略を後方支援する同盟軍として世界各地の紛争に
 アメリカの従属的ポジションでコミットするしかできないからです。
 3につづく

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街場の戦争論 3

2015-03-17 11:58:57 | ⑤エッセーと物語
 憲法が行政府を掣肘(せいちゅう)することをこれほど嫌う憲法草案というのは、
 憲法学史上でも希有(けう)のものではないかと僕は思います。
 つまりこの憲法草案は、逆説的なことですが、【憲法ができるだけ機能しないことを
 めざす憲法草案】なのです。

 自民党の改憲案は「官邸が国会より憲法より上位に立つ」統治体制を理想とする
 人々の作品です。
 その意味では、この改憲案は近代市民革命以来の民主化努力の果実を
 ことごとく否定しています。
 フランス人の人権宣言より、アメリカの独立宣言よりはるかに前近代的なものです。

(街場の戦争論1で、「戦後レジームからの脱却」というより「戦前回帰」の方が
 ふさわしいのではと書いたが、どうやら「18世紀に回帰」したいようです)

 問題は、どうしてこのような時代錯誤的な憲法を彼らが切望しているのか、
 そのことの【現実的な】理由です。それほど複雑な話ではありません。
 彼らが独裁的な政体を民主制よりも好ましいと感じるのは、
 【そのほうが経済活動にとって効率的】だと信じているからです。
 国家は株式会社のように組織されるべきであるというのが自民党安倍政権の考えです。

 彼らは立憲政治と民主主義が嫌いなのですが、別に確たる政治イデオロギーがあって
 嫌いなのではなく、その効率の悪さに耐えられないのです。非効率が嫌いだという気分が
 僕にはわからないではありません。というのは、もう現代人は組織というと株式会社しか
 知らないからです。

 日本の改憲派の人たちの理想はシンガポールです。彼らだって別に特に独裁制という
 政体が好きなわけじゃないと思います。でも、独裁制のほうが民主制より効率的
 経済活動に有利である。
 だったら民主制じゃなくていい。民主制じゃないほうがいい。そういうふうに
 推論している。
 選択肢は「民主制か独裁制か」ではないのです。「民主制か金か」なんです。
 そして、日本人の相当数はこの問いに対して「金」と答えようとしている。

 民主制も立憲主義も【意思決定を遅らせるためのシステム】です。
 政策決定を個人が下す場合と合議で決めるのでは所要時間が違います。
 それに憲法はもともと行政府の独走を阻害するための装置です。
 民主制も立憲主義も「ものごとを決めるのに時間をかけるための政治システム」です。
 だから、効率をめざす人々にとっては、どうしてこんな「無駄なもの」が
 存在するのか理解できない。

 メディアも理解できなかった。そして「決められる政治」とか「ねじれ解消」とか
 「民間ではありえない」とか「待ったなしだ」とかいう言葉を景気よく流した。
 そうこうしているうちに、日本人たちは「民主制や立憲主義は、
 『よくないもの』なのだという刷り込みを果たされたわけです。

(安倍政権はまるでジェットコースターのような速さで、次から次から政策を
 打ち出してくる。きちんと時間をかけた議論をせずに、閣議決定だけで日本を
 好きなように変えようとする。
 どなたかが書いていましたが、まるで「改革の食い散らかし」のようだ)
 
 安倍政権は「経済成長に特化した国づくり」をめざす現代日本人の欲望を巧みに
 掬い上げ高い支持率を誇っています。でも、そこに逆に大きな
 ピットフォール(隠れた危険)もあると思います。
 それは「成長に特化した会社経営」はありうるけれど、「成長に特化した国家統治」と
 いうものはありえないということです。この自明の真理にこの人々は
 どうやら気づいていない。

 株式会社がどれほど劇的な失敗をしても、それがもたらす被害は「株主の出資額」を
 超えることはありません。でも、国民国家ははそういうわけにはゆきません。
 失敗のツケは「出資した分」では済まない。【国民国家は無限責任組織だから】です。
 政府がその失敗によって国民国家に大損害を与えた場合、その被害について国民は
 理論的には未来永劫に償い続けなければならない。
 それは日本の現状を見ればあきらかでしょう。

 念押しするまでもないことですが、国民国家の目的は「成長すること」ではありません。
 あらゆる手立てを尽くして生き延びることです。あらゆる手立てを尽くして国土を守り、
 国民を食わせることです。国民国家は文字通り「石にしがみついてでも」
 生き延びなければならない。国土が焦土と化しても、官僚機構が瓦解しても、
 国富を失っても、人口が激減しても、それでも生き延びなければならない。
 国家はそのための制度です。

(政権を担っている時だけ景気が良ければいい、国の借金は次世代に回せばいい、
 その間だけ原発事故が起きないことを願い、核のゴミをなんとかやり過ごせればいい、
 といったものではない。
 目先の内閣支持率ばかり気にせずに、長期的な展望を示してほしい。
 最近の異常な株価上昇は心配だ。株価の上昇=景気の良さでないことは、
 火を見るより明らかだ。
 これまで以上に公的マネー(国民年金、厚生年金、、共済年金、かんぽ、ゆうちょ、日銀)
 を株につぎ込み、株価を上げる。だが、いつまでも続けられるわけではない。
 こんなリスキーなことに、私たちの年金が使われていいのだろうか。
 損失がでて私たちの年金が目減りした時の責任は、誰が取るのだろう)
 4につづく

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