日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

再生エネルギー買い取り制度

2014年12月14日 | Weblog
再生エネルギー買い取り制度

太陽光発電所が増えて再生エネルギーの受け入れは中断となった。電気の買取条件が厳しくなった。32円と言うのは欧州の2倍から3倍の買取価格である。

しかし国は全量買取と言ったはずだった。

8月にある農家が蜜柑畑に太陽光発電所を完成させた。
9月九州電力の受け入れで保留の対象になった。
これではこの農家はハシゴを外されたも同然だ。
国は買い取りはやめた、一時中止といえばすむが発電所を作った農家はいったいどうなるのか。

科学的知識の信頼度6-24

2014年12月13日 | Weblog
科学的知識の信頼度

原発事故で福島の女性は将来自分の子供に障害児がではしないかと心配しているということを雑誌で見かけた。
原発事故が原因で障害児が生まれるとは思わないが、当事者にとってはかなり深刻な問題であるようだ。
これも風評被害の一つかもしれないが、未来のことにそのような懸念を抱く状態を作ったというのはなんとしても罪なことだ。
科学的な調査や知識がどういう結果であれ、いった作られた思考回路はそう簡単には消えないものである。

国民の半数以上が原発に反対しても、政府は再稼働に動く。どこに民主主義の原則が働いているのだろうか。

原発立地地方では原発交付金がないと明日の生活にも困るような
交付金漬にしておいた政治のやり方が、立地地方住民の生活を金で縛り上げている現状が透けて見える。

年限を切って原発廃止または卒業というのなら我慢ができるが、再稼働に邁進したり、廃炉年限40年を延長したり、新設を促進した入りすることが国家百年の計を背負う政治家がえらぶべき選択肢かと情けなく思う。あまりにも冒険主義過ぎるからだ。
現時点は原子力は人間の力ではコントロールできない部分があることを考えて、謙虚になるべきだ。

放射能を浴びたので障害児ができるかもしれないと過度の心配をする人たちの声なき声に耳を傾けたらどうか

こんなことがあるので

2014年12月12日 | Weblog
こんなことがあるので


北海道での話してある。70歳の女性が3年間にわたって7,200万円とられたそうである。振り込め詐欺だか何だか知らないが、回数の多さと、金額の大きさでは驚くべき話である。どんな欲をかいたためにお咎めが出たのか知らないが、馬鹿だと言う他は無い。
お気の毒だが、この人は自己責任で行ったことだから、外につける薬は無い。それにしても程度が悪過ぎる。犯人に対してというよりはこの人に対して、その愚かさに対して腹が立つ。

暴力学校が把握

2014年12月10日 | Weblog
暴力学校が把握

西東京の中学生が自殺した。生徒への暴力を学校が昨秋には把握していた。
校長は適切な対応をしていたら事件を防げたかも知れないとしている。
学校は家庭訪問をしたいと伝えたが、断られそのまま放置。
強制立ち入り権限を持つ児童相談所に通告もせず市教委に報告したのは自殺後だった。 朝日新聞夕刊より

いじめに関して学校関係者ほど鈍感な連中はいない。こういう事件については大津の事件が全国的に問題になったじゃないか。
預かっている生徒の命に鈍感というのか、自殺という重大事件を他人事で我かんせずとものうけながしていたのか、緊急感とか切迫感というものを全然感じていない。これいう事態をつくって責任というものをどう考えているのだろうか。
教師のみならず、学校関係者ほどこういう問題に鈍感なものはいない。
国会で大津市長が教育委員会は不用だと行ったのはその働きぶりからして迅速に行動が出来ない体質を作りあげているからである。
こういう生徒の様子をまず察知するのは担任である。本来であれば担任と学年主任、生徒指導係、教頭、校長で緊急対策を相談し、教育委員会や警察に連絡すべきである。ところが学校の現状は
第一発見者の担任は自分の責任を問われるから公にしたがらない。
学年会議や、職員会議でも事件が外に出ることは好ましく思わない。ここでも出来るだけ穏便にという事でもみ消しが握りつぶしの力が働く。校長においてはなおさらだ。体面や自己保身を考えて、輪を掛けて隠そうとする。
今回の流れを見ていると校長の此の考え方が筋書き通りで、児童相談所にも通告せず生徒の自殺後市教委へ報告したという。
学校の最高責任者が此の態度で、自殺が防げることはまずない。
自殺の兆候を感知したら、大騒ぎで対策をとり、あらゆる関係機関の力を借りて未然に防ぐ手立てを講じてこそ、ようやく現場の力が働くのである。
生徒を預かりながら何の手当もせず、行き着くところまでいく。こういう状態にどういう弁解が通用するであろうか。若い命が1つ消えているのである。
いじめ問題は学校に任せておけない状態になっている。これは人権侵害の犯罪で本来警察が関わる問題である。車内のつり革に暴力は犯罪ですという広告がぶら下がっていた。いじめはれっきとした犯罪ですと何故広告しないのか。

紙に自分で書く

2014年12月09日 | Weblog
紙に自分で書く


学んだことをすぐにメモしたり、書くことによって、それらの知識が「自分のもの」として変形するため、記憶されやすくなるそうです。

・定期的に読み返す


毎日一定の時間だけ、先ほどのメモしたことや学んだことについて10分から15分ほど読み返して思い出すと効果があるとのこと。忘却曲線を見れば明らかである。

・呼吸して酸素を取り入れる


記憶力を増加させるため、酸素を脳に行き渡らせるのが有効らしい。これによって眠気を払うことができ、いくらかの水を補給することも同様に効果があるそうです。

・今考えていることをとにかく書き出す


考えているいろいろなことややるべきことをとにかく書き出すことによって自分の気持ちをすっきりさせることができ、それらを今すぐしなくてはならないという衝動を耐えることができるようになるそうです。これによって暇な時間ができたときにやるべきことをやれるようになる、というわけ。

・マルチタスクにしない


いくつものことを同時にするよりも、今目の前にあることを最優先で一つずつ処理していく方が、より短い時間で終えることができるそうです。

・既に知っていることと関連づける


新しい事実を記憶する場合、既に知っていること、記憶していることと関連づけると覚えやすいそうです。場所や逸話などと関連づければ思い出しやすくなります。

・小さく分けて記憶する


一度に大きな塊として覚えるのではなく、小さな塊として小分けに記憶する方が記憶しやすいそうです。ある知識全体を思い出すよりも、その知識のうちのどれか一つを思い出す方が思い出しやすい、と。

・子ども時代にさかのぼる


子どもの頃に覚えた歌などは今もまだ有効活用することができるため、それらを長いリストあるいは事実を記憶するのを支援するために使う、つまり記憶を思い出すためのキーとして使えば非常に有用だそうです。


定年退職日を境に翌日から

2014年12月08日 | Weblog
定年退職日を境に翌日から

定年退職日を境に翌日から 急に社会参加が止まった

家に閉じこもりが始める

在職中は早く定年を迎えたいと思った。迎えてみるとすることがなく退屈で仕様

がない

これから人口が減る 労働力は必要  退職者の再雇用

週3日10万円以内 退屈をなくし健康になる。今まで働いてきたところでは働くのは異業種に携わるのではなくて、今までの延長だから抵抗がないはず

会社も主たる部分は社員で、補助的な業務は退職者でと作業の分担が出来れば良いと思う。

小人閑居して不善を為す というがさもあらんと自分の事をそう思う

社会的に見てどうか。 
意欲能力のある健康人は、何らかの形で社会参加すべきである。頭がぼけるし、身体はなまる。
働ける人の労働力を使わないで、遊ばせておくのは、社会的なロスである。




輪廻転生

2014年12月07日 | Weblog
輪廻転生

 カルカッタ・コルカタから列車に乗って、バラナシについら、直ぐガンジス川の沐浴場に出向いた。
年間に百万単位の ヒンズー教徒がが訪れるという聖地。これがバラナシである 。
一体ここではどんな儀式があるのか、するのか、興味津々である。

沐浴する人々の姿を見て、こんな汚いところに、こんなに大勢の人が 浸って衛生上の問題はないのだろうか。水は茶褐色に濁っているし、沐浴中の人々は、体を洗い、川の水を飲んでははき出すうがいをする。それがまるでイモのこを洗うように大勢でやっているので、非衛生なことおびただしい。とても彼らに混じって、沐浴するという気にはなれなかった。またここには動物の死体、場合によっては人間の死体さえも浮かんでいることがあるという。

そこで僕はここで沐浴するのをあきらめて、人のいない上流で川につかった。
水は生暖かく、表面は穏やかな流れのようにみえるが、底のほうはかなり流れは速くて、足を取られそうになった。水中につかりはしたが、彼らのやるように、うがいをしたり、この汚水を聖水として持ち帰るなどと言うことは、どうしても出来なかった。ホテルに帰ってからは直ぐシャワーを浴びて体の隅々まで何回もシャワーで洗い流した。そうでもしなければあの汚い汚水が体にへばりついているのじゃないかという気がして気持ちが悪かった。少なくとも大勢のヒンズー教徒が沐浴して一向に平気な顔をするどころか、満足そうな表情さえ浮かべているさえ、浮かべているのとは全くかけ離れた、気分でいた。同じ事をしても、宗教が違えばこんなに違うものか。僕は体でこのことを体験した。

沐浴をすませたので、バラナシの名物?である火葬を見に行った
。火葬はこの川岸で、薪を井桁にくんで、その上に死体をのせて、燃やすのである。時間を計ったら、2時間くらいで、ほぼ骨灰になっていく。
 骨灰になると、すべてそれらは、ガンジス河の水中になげいれられる。在世した人間は、それで跡形もなく、完全に消滅して終わるのだが、ここから先についての信仰がある。
即ちヒンズー教徒が死ぬと、ここで火葬され、骨灰がガンジス河にながされることによって、魂は常住極楽に往生し、輪廻転生の輪から逃れて、極楽にいて、この世に生まれ変わることはないと信じられているのだ。つまり輪廻の輪から解脱するというのだ。だから死ぬことは悲しみには違いないが、ある一面では、輪廻の輪から逃れる、喜びであり、祝福される部分があるのだろう。

 そういえば先ほど、1団の葬列に出会ったが、バンド付だ。楽隊は
陽気な音楽を、ラッパや鉦、太鼓で奏でてる。葬式ににぎやかな音曲等ならして、不謹慎だとさえ思った。
こういう事の根底に流れる、哲学や儀式には、慣れ親しんでいないところから来る、違和感がある。
それはインズー教と仏教の哲学や儀式のあり方などの違いなのかもしれない。
 死んで生まれ変わるという話は、仏教にもあるし、キリスト教の中にも死んでのちに、パラダイスに行くと言う話もある。
 またチベットのラマ教では、前世の記憶がないと、リーダーには選ばれない、なれないという約束事があり、それについては、かなり詳しくチエックされて、パスした者のみが選ばれるらしい。
いずれも科学的には、証明されたことではないが、時間空間を超えて、共通した死生観があるのは、事実である。

さて輪廻転生ということについて、僕が理解していることを少し書いてみよう。
輪廻転生”とは、人間の本質は肉体の死を以て終了するのではなく、来世で異なった存在となって生まれかわるという思想で仏教やヒンズー教の中にある。またこれに類似する思想は、ヨーロッパなど世界中にある。
バラモン教では、人間には精神や肉体を超越する、その人間の原風景ともいうべき“我”が存在するとされ、それこそ輪廻転生する主体であり、そしてそれはバラモンの創造主梵天(ぼんてん)そのものなのである。

来世で何に生まれ変わるのかは現世の行い“業”によって決定される。それが良い業であれば身分の高い人間や神に生まれかわることができ、悪い業であればそれこそ動物や虫といった卑しい存在に転生してしまうのだ


輪廻転生とはバラモン教においても仏教においても、現世は非常に苦しいものであるとされる。その苦しみから抜け出すには輪廻の輪から抜け出す"解脱"を達成するしかない。と考える。

解脱の条件とはバラモン教では梵天一如の真理を悟ることで、仏教では無我の境地に達し仏陀となることである。これを"成仏"といい、これこそ仏教の最終目標である。









六道とは天上界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界という六つの世界で構成され、人問として存在している現世は人問界にあたる。


しかも仏教に馴染みの薄い先進各国にも輸廻転生思想は存在する。ある調査では英米ともに四人に一人が生まれ変わりを信じているという調査結果がある。  

現代の人々にある輸廻転生思想とは、バラモン教から発生し仏教が2500年問培ってきたそれを受け継いでいるものではなく、あくまで主旨の異なる独自のものであることがいえる。

「生まれ変われる」という抽象的な願望のみが強調されたものとなっているのだ。実際、人々が最近のそのような新興宗教や非科学的といえる輪廻転生思想に惹かれるのは、それを望んでいるからであって、そのこと自体がバラモンや仏教での教えに矛盾している。

元来、輪廻転生とは苦しみであったのだ。また、号れを望むということは"生"への欲望であるともいえ、すべての欲望を断ち切り解脱するといった本来の輪廻転生の教えはすでにお座なりにされているといってよい。


物質飽和と情報氾濫が現代人に何らかの精神的「満ち足りなさ」を感じさせていることは事実である。人々にとって現代とは、欲しい物は(ある程度)手に入り、すべての物事について(ある程度)予備知識として知ってしまっている、意外性のない無感動な社会なのである。こういう状態を社会学では「オブ・コース・ステイトメントの世界」と言うらしいが


、このような何もかもが当たり前に存在する現実の世界より、科学的に、常識的にはとらわれない未知が存在する可能性を秘めた宗教や超常現象に人々の関心が集まるというのは、むしろ自然な…ことといえるのではないか。無論、輪廻転生もそのひとつということになる。古代、「貧しさ」が産んだ輸廻転生が現代では「虚しさ」から興っているといえるだろう。いつの時代においても人問とは現世に満足することができないものである。


古代において輪廻転生思想とは、現世での生活を「苦」とし、死をその苦しみの中のひとつの通 過点として受けとっていた。

、現代人にとっての輪廻転生思想とは、精神的「満ち足りなさ」の反映である。文明の発展によって物欲と知識欲を飽和させられ、現実の世界に新鮮さを感じ得なくなった人々は科学にはとら、われない意外性を求めるようになるのだ。


 しかし、その意外性を求める心理のみでは現代人に宿る輪廻転生思想を説明できるだろうか


無我や六道輸廻といった本来の教義を無視し、自分たちに都合のよい解釈をしている現代人の輪廻観は「死にたくない→生きたい」という人間として、当然にして最も基本的な原理からきているように思う。科学的に解明され自らも十分に認識している肉体の死は避けることはできないにせよ、それ以外の何らかの形で「自分」を残し、存在自体の死から逃れようとする心理ともいえる。

科学的常識として自らの肉体的・精神的消滅を十分に認識しつつも、心のどこかに白らの永劫性を信じておきたいという心理があり、それが現代人を輪廻転生に惹きつけるのではないだろうか。


ロシアの思想家N・フヨードロスは「死者を蘇生させることこそ、人類最後の目標」という言葉を遺しているが、ようするに人間は永遠に生きたい、などと無体なことを考えてしまう生物なのだ。そのために輸廻転生思想とは、現代においてはその非科学的思想を以て科学的に実証されている「死」を、認識することから逃れるために機能し、古代においては「死」を不可避のものとして受け入れるための役割を果 たしていたのだ。




輪廻転生とはどの時代にあっても、誰にとっても結局「よりよく生きたい」という人間が普遍的にもつ願望が生み出すもの、ということである







婚活してる?6-30

2014年12月06日 | Weblog
コンカツしてる?」



 最近、アラサー(30歳前後)の男女が集まると必ずこんな会話が交わされるという。

コンカツ。トンカツの一種かと思ってしまうが、漢字で書くと「婚活」。結婚するための活動のことだ。盛んな婚

活の背景には、いったい何があるのか。


「『婚活』時代」の共著がある中央大学文学部教授の山田昌弘氏(家族社会学)が言う。

「20~30年前なら、若い男性は収入が安定的に増える見込みがあり、結婚後のライフスタイルも画一的だったの

で、男も女も安心して結婚することができた。適齢期になると職場結婚や見合いなどで自然と決まっていったもので

す。今は恋愛や結婚の自由化で、かえって結婚しづらい状況になっています」


就職活動と同じで、結婚したければ積極的に活動しなければならない。主戦場はネットだ。現在30歳前後といえ

ば、ちょうどネットを使った就活が定着し始めた世代。婚活にもネットを活用するのは自然な流れだろう。



 恋人探し・結婚情報サービスの「エキサイト恋愛結婚」に入会して“ネット婚活”を続けるマキエさん(31)が

語る。

「プロフィルやコメントを見て、まずはメール交換から。いいなと思えば実際に会ってみます。出会い系とどこが違

うかって? 既婚者や学生は入会できない決まりだし、本気で結婚したいと思っている人の集まりだから、どちらか

というと結婚相談所に近いですね」


2年間で10人以上の男と実際に会ったが、まだコレという相手に巡り合えない。

SNSの「ミクシィ」で知り合って結婚するケースも多い。“ミク婚”という言葉が一般化しているほどだ。趣味の

コミュニティーのオフ会などで意気投合して結婚に至るらしい。



「結婚できない男女が増えた背景には、非正規雇用など男性の経済格差が広がったことがある。コミュニケーション

能力や見た目といった魅力格差も拡大し、一部の男性に人気が集中。非常にモテる男と大多数のまったくモテない男

に二極化してしまった。女性側の要求水準が高すぎるのも問題です」(山田昌弘氏=前出)



 付き合っている相手がいても、“結婚は別”と割り切ってネット婚活に励む女性も珍しくないという。いつの時代

も女はシビア……。

結婚難の第一番の原因はやはり非正規雇用の現状でしょう。仕事の安定がないと結婚生活が大変だから女性は二の足

を踏むのじゃないですか。


若山牧水0

2014年12月05日 | Weblog
若山牧水

尾鈴

日向の山で[お鈴]はつとに有名である。優しい感じがするこの山は西を最高峰として東に向かってなだらかな稜線をなしている。
その尾鈴の北側のふもとに若山牧水の生家がある。
,
あたかも尾鈴山の持つ優しさを、地でいくかのごとく、若山牧水は抒情性あふれる作品をたくさん残して43歳で世を去った。

旅好きという性質だったのか、それとも人生は旅という哲学に殉ずるため、はたまた旅は彼の仕事場だったのか、
すなわち方々を巡りながら自然や人情にふれて沸き起こる感興を得たという形をとってその中に閉じ込めるのを唯一の生き甲斐として生涯を送ったのか。

彼の生家の前を流れる坪谷川のせせらぎは年がら年中変わることのない清流の美しさを奏で続けたことだろう。そしてそのせせらぎは今もなお私に語りかける。

幾山河越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく

旅は独りがいい。酒の上のことに限らず、なにかにつけて独りがいい。深い山などにさしかかったときの案内人すら煩わしい気持ちで私は孤独の旅を好む。

つくづく寂しく、苦しく、厭わしく思うときがある。何の因果でこんなところまでてくてく出かけてきたのだろう、と我ながら恨めしく思わるるときがある
私の最も旅を思う時期はモミジがそろそろ散り出すころである。
枯野の中を歩きながら遠く望む高嶺の雪、これも拝みたい気持ちである。


わらじを履きマントを被った彼の旅姿の等身大の写真、。パネルが飾られている。一方彼が旅したところが日本地図のみならず朝鮮半島にも足跡を残している。
それを見ると日本列島は表も裏も全国津々浦々を巡り歩き、言葉の不便もあったはずだが朝鮮にも足を延ばしている。
車や飛行機のない時代、わらじがけの足を頼りに強烈な意志と旅への憧れがないとこれほど壮大な旅はできるものではない。
雨の日も一の日も晴れた日も、体調の良い時の悪いときも、自分が晴ればれとしたときも沈んだときも、孤独と酒を友として
黙々と旅をして、黙々と作品づくりに励んだ彼の姿が目に浮かぶ。
旅がいいというのは一般論で生涯歩き続けるというのは並大抵のことではない。強烈な意思と個性の持ち主だったことがうかがえる

人生は旅。

人生はよく旅にたとえられる。もし時の流れを、足の歩みと考えるならば確かに野を越え、山を越え谷をわたり、辺りをきょろきょろ見まわしながら歩く旅に似て、
ときの流れとともに移り変わる我が心を眺めれば人生は時を歩む旅人に相違ない。

古人や先人、西行も芭蕉もよく歩いては自然や人情との出会いによって触発された心境を歌に詠み込んだ。人生を心ゆくまで味わったといったほうがよい。
自然は彼らによって飲み込まれ、ときが経つにつれて発酵し作品となって結実しそれがいまなお幾百年の時を経て人の口に膾炙されて、人の心に潤いをもたらしている。

若山牧水の生家

今日初めて若山牧水の成果を訪ねた。宮崎県東郷町坪谷が彼の生まれたところで、生家はそのまま保存されている。
生家の隣は牧水記念館になっている。二階建てで二階にはインクの跡もくっきりと生々しい直筆の原稿や、当時の雑誌などが陳列されている。
有名な作品も無名な作品もある。こんこんと湧いてくる歌心を抱えながら彼はこの山河で歌心を育んだことだろう。









プラス感情マイナス感情

2014年12月03日 | Weblog


プラス感情マイナス感情

不愉快な感情にむしゃくしゃするのはマイナス以外の何物でもない。そんなマイナス感情は即座にするべきであると思う。浮かんできたら追っ払うことである。忘れることである。受け入れないことである。

こんなことを考えていたが好き嫌いのプラス、マイナスの感情は日替わりメニューよりも激しい。そこでこんなことを考えるよりも、なるに任せてその時の感情に徹することである。
たとえそれがプラス感情だろうが、マイナス感情はだろうが。