日々雑感

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暴力学校が把握

2014年12月10日 | Weblog
暴力学校が把握

西東京の中学生が自殺した。生徒への暴力を学校が昨秋には把握していた。
校長は適切な対応をしていたら事件を防げたかも知れないとしている。
学校は家庭訪問をしたいと伝えたが、断られそのまま放置。
強制立ち入り権限を持つ児童相談所に通告もせず市教委に報告したのは自殺後だった。 朝日新聞夕刊より

いじめに関して学校関係者ほど鈍感な連中はいない。こういう事件については大津の事件が全国的に問題になったじゃないか。
預かっている生徒の命に鈍感というのか、自殺という重大事件を他人事で我かんせずとものうけながしていたのか、緊急感とか切迫感というものを全然感じていない。これいう事態をつくって責任というものをどう考えているのだろうか。
教師のみならず、学校関係者ほどこういう問題に鈍感なものはいない。
国会で大津市長が教育委員会は不用だと行ったのはその働きぶりからして迅速に行動が出来ない体質を作りあげているからである。
こういう生徒の様子をまず察知するのは担任である。本来であれば担任と学年主任、生徒指導係、教頭、校長で緊急対策を相談し、教育委員会や警察に連絡すべきである。ところが学校の現状は
第一発見者の担任は自分の責任を問われるから公にしたがらない。
学年会議や、職員会議でも事件が外に出ることは好ましく思わない。ここでも出来るだけ穏便にという事でもみ消しが握りつぶしの力が働く。校長においてはなおさらだ。体面や自己保身を考えて、輪を掛けて隠そうとする。
今回の流れを見ていると校長の此の考え方が筋書き通りで、児童相談所にも通告せず生徒の自殺後市教委へ報告したという。
学校の最高責任者が此の態度で、自殺が防げることはまずない。
自殺の兆候を感知したら、大騒ぎで対策をとり、あらゆる関係機関の力を借りて未然に防ぐ手立てを講じてこそ、ようやく現場の力が働くのである。
生徒を預かりながら何の手当もせず、行き着くところまでいく。こういう状態にどういう弁解が通用するであろうか。若い命が1つ消えているのである。
いじめ問題は学校に任せておけない状態になっている。これは人権侵害の犯罪で本来警察が関わる問題である。車内のつり革に暴力は犯罪ですという広告がぶら下がっていた。いじめはれっきとした犯罪ですと何故広告しないのか。