日々雑感

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輪廻転生

2014年12月07日 | Weblog
輪廻転生

 カルカッタ・コルカタから列車に乗って、バラナシについら、直ぐガンジス川の沐浴場に出向いた。
年間に百万単位の ヒンズー教徒がが訪れるという聖地。これがバラナシである 。
一体ここではどんな儀式があるのか、するのか、興味津々である。

沐浴する人々の姿を見て、こんな汚いところに、こんなに大勢の人が 浸って衛生上の問題はないのだろうか。水は茶褐色に濁っているし、沐浴中の人々は、体を洗い、川の水を飲んでははき出すうがいをする。それがまるでイモのこを洗うように大勢でやっているので、非衛生なことおびただしい。とても彼らに混じって、沐浴するという気にはなれなかった。またここには動物の死体、場合によっては人間の死体さえも浮かんでいることがあるという。

そこで僕はここで沐浴するのをあきらめて、人のいない上流で川につかった。
水は生暖かく、表面は穏やかな流れのようにみえるが、底のほうはかなり流れは速くて、足を取られそうになった。水中につかりはしたが、彼らのやるように、うがいをしたり、この汚水を聖水として持ち帰るなどと言うことは、どうしても出来なかった。ホテルに帰ってからは直ぐシャワーを浴びて体の隅々まで何回もシャワーで洗い流した。そうでもしなければあの汚い汚水が体にへばりついているのじゃないかという気がして気持ちが悪かった。少なくとも大勢のヒンズー教徒が沐浴して一向に平気な顔をするどころか、満足そうな表情さえ浮かべているさえ、浮かべているのとは全くかけ離れた、気分でいた。同じ事をしても、宗教が違えばこんなに違うものか。僕は体でこのことを体験した。

沐浴をすませたので、バラナシの名物?である火葬を見に行った
。火葬はこの川岸で、薪を井桁にくんで、その上に死体をのせて、燃やすのである。時間を計ったら、2時間くらいで、ほぼ骨灰になっていく。
 骨灰になると、すべてそれらは、ガンジス河の水中になげいれられる。在世した人間は、それで跡形もなく、完全に消滅して終わるのだが、ここから先についての信仰がある。
即ちヒンズー教徒が死ぬと、ここで火葬され、骨灰がガンジス河にながされることによって、魂は常住極楽に往生し、輪廻転生の輪から逃れて、極楽にいて、この世に生まれ変わることはないと信じられているのだ。つまり輪廻の輪から解脱するというのだ。だから死ぬことは悲しみには違いないが、ある一面では、輪廻の輪から逃れる、喜びであり、祝福される部分があるのだろう。

 そういえば先ほど、1団の葬列に出会ったが、バンド付だ。楽隊は
陽気な音楽を、ラッパや鉦、太鼓で奏でてる。葬式ににぎやかな音曲等ならして、不謹慎だとさえ思った。
こういう事の根底に流れる、哲学や儀式には、慣れ親しんでいないところから来る、違和感がある。
それはインズー教と仏教の哲学や儀式のあり方などの違いなのかもしれない。
 死んで生まれ変わるという話は、仏教にもあるし、キリスト教の中にも死んでのちに、パラダイスに行くと言う話もある。
 またチベットのラマ教では、前世の記憶がないと、リーダーには選ばれない、なれないという約束事があり、それについては、かなり詳しくチエックされて、パスした者のみが選ばれるらしい。
いずれも科学的には、証明されたことではないが、時間空間を超えて、共通した死生観があるのは、事実である。

さて輪廻転生ということについて、僕が理解していることを少し書いてみよう。
輪廻転生”とは、人間の本質は肉体の死を以て終了するのではなく、来世で異なった存在となって生まれかわるという思想で仏教やヒンズー教の中にある。またこれに類似する思想は、ヨーロッパなど世界中にある。
バラモン教では、人間には精神や肉体を超越する、その人間の原風景ともいうべき“我”が存在するとされ、それこそ輪廻転生する主体であり、そしてそれはバラモンの創造主梵天(ぼんてん)そのものなのである。

来世で何に生まれ変わるのかは現世の行い“業”によって決定される。それが良い業であれば身分の高い人間や神に生まれかわることができ、悪い業であればそれこそ動物や虫といった卑しい存在に転生してしまうのだ


輪廻転生とはバラモン教においても仏教においても、現世は非常に苦しいものであるとされる。その苦しみから抜け出すには輪廻の輪から抜け出す"解脱"を達成するしかない。と考える。

解脱の条件とはバラモン教では梵天一如の真理を悟ることで、仏教では無我の境地に達し仏陀となることである。これを"成仏"といい、これこそ仏教の最終目標である。









六道とは天上界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界という六つの世界で構成され、人問として存在している現世は人問界にあたる。


しかも仏教に馴染みの薄い先進各国にも輸廻転生思想は存在する。ある調査では英米ともに四人に一人が生まれ変わりを信じているという調査結果がある。  

現代の人々にある輸廻転生思想とは、バラモン教から発生し仏教が2500年問培ってきたそれを受け継いでいるものではなく、あくまで主旨の異なる独自のものであることがいえる。

「生まれ変われる」という抽象的な願望のみが強調されたものとなっているのだ。実際、人々が最近のそのような新興宗教や非科学的といえる輪廻転生思想に惹かれるのは、それを望んでいるからであって、そのこと自体がバラモンや仏教での教えに矛盾している。

元来、輪廻転生とは苦しみであったのだ。また、号れを望むということは"生"への欲望であるともいえ、すべての欲望を断ち切り解脱するといった本来の輪廻転生の教えはすでにお座なりにされているといってよい。


物質飽和と情報氾濫が現代人に何らかの精神的「満ち足りなさ」を感じさせていることは事実である。人々にとって現代とは、欲しい物は(ある程度)手に入り、すべての物事について(ある程度)予備知識として知ってしまっている、意外性のない無感動な社会なのである。こういう状態を社会学では「オブ・コース・ステイトメントの世界」と言うらしいが


、このような何もかもが当たり前に存在する現実の世界より、科学的に、常識的にはとらわれない未知が存在する可能性を秘めた宗教や超常現象に人々の関心が集まるというのは、むしろ自然な…ことといえるのではないか。無論、輪廻転生もそのひとつということになる。古代、「貧しさ」が産んだ輸廻転生が現代では「虚しさ」から興っているといえるだろう。いつの時代においても人問とは現世に満足することができないものである。


古代において輪廻転生思想とは、現世での生活を「苦」とし、死をその苦しみの中のひとつの通 過点として受けとっていた。

、現代人にとっての輪廻転生思想とは、精神的「満ち足りなさ」の反映である。文明の発展によって物欲と知識欲を飽和させられ、現実の世界に新鮮さを感じ得なくなった人々は科学にはとら、われない意外性を求めるようになるのだ。


 しかし、その意外性を求める心理のみでは現代人に宿る輪廻転生思想を説明できるだろうか


無我や六道輸廻といった本来の教義を無視し、自分たちに都合のよい解釈をしている現代人の輪廻観は「死にたくない→生きたい」という人間として、当然にして最も基本的な原理からきているように思う。科学的に解明され自らも十分に認識している肉体の死は避けることはできないにせよ、それ以外の何らかの形で「自分」を残し、存在自体の死から逃れようとする心理ともいえる。

科学的常識として自らの肉体的・精神的消滅を十分に認識しつつも、心のどこかに白らの永劫性を信じておきたいという心理があり、それが現代人を輪廻転生に惹きつけるのではないだろうか。


ロシアの思想家N・フヨードロスは「死者を蘇生させることこそ、人類最後の目標」という言葉を遺しているが、ようするに人間は永遠に生きたい、などと無体なことを考えてしまう生物なのだ。そのために輸廻転生思想とは、現代においてはその非科学的思想を以て科学的に実証されている「死」を、認識することから逃れるために機能し、古代においては「死」を不可避のものとして受け入れるための役割を果 たしていたのだ。




輪廻転生とはどの時代にあっても、誰にとっても結局「よりよく生きたい」という人間が普遍的にもつ願望が生み出すもの、ということである