日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

近頃のTV

2011年11月09日 | Weblog
近頃のTV

無職ぶらぶらだから、時間はたっぷりある。暇つぶしによくテレビを見るが、暇つぶしにでも見ようというのに、見る気がしない。
番組の内容がお粗末なのである。幼稚でばかばかしい。
なべてタレントという人達は、芸を磨かなくてはならないのに、奇妙きてれつな意味不明の言葉を発して、お笑いをとろうとする。

お笑いというものは、天才的な才能が要求されるもので、1回や2回のだじゃれを使ってタレントとしてふさわしいか、疑問である。
安上がりなのかどうかは知らないが、そんなジャリタレを使ってみて面白くもないお笑いをみせられるものは、たまったものじゃない。

同じやるなら、もうすこし知恵がないものだろうか。たとえば国や地方が直面する
問題点などを、お笑いの技法を使って、おもしろおかしく解説できないものであろうか。
公共の電波を使って、、、などと、もっともらしいことを言う前に、この趣旨に相応する番組かどうか検討することが必要だ。

こんな番組のスポンサーになる企業も企業だ。中身のない視聴率競争が何の説得力を持ち得よう。番組の内容をみていて、つくづくそう思う。いらだつ番組のチャンネルを変えるのはもちろんだが、不快感は番組のスポンサーにまで及ぶ。こんな低俗な番組の視聴者になる前に、スイッチを切った方が気が休まる。

なべていまのTVでみたいと思うのは、ニュースと報道番組だけである。
節電が叫ばれるこんにちである。昼でも夜でもかまわないが、放映しないで、その時間帯の節電をした方がましだろう。どの番組が最もみたくない番組かアンケートでも採ったらいかがか。TV局に注文をつけたいくらいだ。

詞か曲か、どちらが先か

2011年11月09日 | Weblog
詞か曲か、どちらが先か

作曲するときには、まず詞を求める。僕の場合、詞にもられた感情に引き込まれてメロデイができあがってくる。中には、はめ込みと言って、まず曲ができ、それにふさわしい詞を作り当てはめていくと言う作品作りもある。どちらの方が先だという決まりはないから、自分に合うように、作れば良い。

古賀政男先生はご自身が作曲される時、詞はお姉さんで曲は弟だと言われた。だから先生の場合、まずいい詞(ご自身に感動を呼び起こす)があってそれに会わせて、作曲されたようである。この手法が先生の作曲法なのだ。
とはいえ生涯何千曲も作曲されたのだから、たまにははめ込みの作品もあっただろう。

僕の場合もやはり古賀先生のように、まず詞があってそれを基に作曲を始める。目の前に詞がなくて、曲を作れと言われても、まず出来ない。どんな詞でも良いからその詞の中味を音であらわす。そして不思議なことに詞が良いと、それに引っ張られていい曲が生まれる。これは不思議である。たまには曲先行のこともあるが、曲に会わせて作詞すると作品がしっくり来ない。
またこんなケースもある。詞と曲が同時並行で、できあがっていく場合がある。

さて、できあがった作品を聞いて貰う場合には、印象深く心にとまるのは詞ではなくて曲である。詞は心に訴えかけるが、曲はリズム、メロデイの2つの要素から聞く人に届くから、やはり、詞よりは迫力がある。メロデイが人の心にとまったとき、人はその曲を覚えて歌うようになる。歌う人は詞、曲のいずれかが先に生まれようとも関係が無い。要は自分のその時の心境に会わせて歌うものである。そして独りの 作曲家について言えば、ヒット作品が生まれる確率は 1000曲に1曲の割合という難関 である。

歌われるか、闇に葬られるか、作曲家船村先生は日の目を見なかった歌の数々の供養をされたそうである。
その気持ちは分かる。生むには生んだが、育たない子供が圧倒的に多いからである。
作曲したが、歌われ無いままにおわった作品へのいとおしさである。自分でヒット作品は作れない。歌う人達によって ヒットするかしないかは,決められるからである。