日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

(深い川より) チャムンダー

2007年11月06日 | Weblog
インドから帰国して、僕はインドに関する本を何冊か読んだ。
本の中に描写されているインドの風景だの、インド人の人情や物の考え方なりを、自分がインドで経験したものと、比較検証したかったのである。
中でも狐狸庵先生の、『深い川』にはホテル・ド・パリの描写が、僕が見たとおり、実に正確に描かれており、これには驚いたというより、懐かしかった。
ふんふん、そうだそうだ、僕は本の中に引き込まれて行った。なかでもこの中に描かれているチャームンダという名の女神には深く心奪われた。
日本では女神と言うものは、どんな神でも、美人で柔和に描かれいて、その表情には苦悩の跡がない。すくなくとも僕が知っている女神はそうである。
ところがチャームンダは違う。全身創痍の苦しみを背負い、その苦しみに耐えてはいるが、表情には苦悩がまざまざと表れている。胸近くにはさそりが噛み付き、両足は腐りかけて、赤く腫れ上がっていると描写されている。
自らをそこまで痛めつけながら、その苦しみの中にあってなお、現世で苦しみもがく人達を、すくわんとする貴い姿こそ、この像の真の姿であることを知ったとき、僕は深い感動を覚え、思わず写真の中の像に手を合わせた。
これこそ本当の神である。我々とともに生き、苦しみ、ともにもがき、ともに悲しむ姿こそ百万言よりも説得力がある。これでこそ我々とともにある神である。
現世、この娑婆の世界で、もがき苦しむ人々と同じ次元の世界に住み、同じ次元に立ち、同じ苦しみを味わい、苦しみに顔を引きつらせ、それどころか民衆の何倍もの苦しみを背負い、しかもそのうえに、苦しむ人々を救おうとする強力な意志をもち、敢然と苦しみに立ち向かう貴さを、何故僕は見落としたのか、何故その表情から苦悩を読み取らなかったのか。
僕は非常に残念に思った。
単に像を目で見るだけなら小学生だって出来ることだし、することである。その像に託された作者の意図、願い、希望など、要するに作者の目的を何故探ろうとはしなかったのか、作者はこの像を作り、何を言いたかったのか。こういうことに思いをいたして初めてこの像と対面した値打ちがあるというものだ。
実物はデリーの博物館にあるそうだが、見ないままに帰国してしまった。次回インド訪問の時は必ず見たいものである。

大分長い間、大阪市内の映画館では、『深い川』が上映されていた。それは新聞の広告で知っていたが、そのうちに、そのうちにが重なって、ついつい見逃してしまった。
僕はどうしても見たかったので、ある日、わざわざ電車にのって遠い貝塚まで見に行った。興業はよい『映画を勧める会』みたいなところが主催して観客の層は五十歳代以上の年齢層の人達に限定されていた。
彼らは映画が終わると、考えさせられた、と一様に口々に言いながら帰って行った。 人々から漏れ聞くまでもなく、感動もので、いい映画であった。
僕はと言えば、実際に訪れて、感激を受けたバラナシの沐浴風景や、町の様子や、ホテル・ド・パリを知っているだけに、その場面が映るにつけて懐かしさが込み上げて来て、遠くでおぼろ気にかすみかけていた記憶は鮮明に蘇って来た。
特に印象深かったのは、やはりチャムンダーという女神である。
映画で映ったあの場所に安置されていたのかどうかはしらないが、満身創痍の苦しみを体全体で表しながら、なお現世に苦しむ人々を救おうとふんばる姿は、映画であるとはいうものの、思わず合掌したくなった。
インドは現在の日本に比べて、確かに貧しい。カルカッタでも、バラナシでもよい、町を歩けばその貧しさは一目瞭然だ。貧しさのなかで苦しむ人は多いが、特に女性はいまなお根強くのこる、カースト制度という社会構造からくる重圧に抑圧されながら、この女神の苦しみのように、現実生活の貧困の中で苦しんでいる人が、多いことだろうと、思わずにはいられなかった。
ところで我々日本人は女神というと、端正で美しい女人像を思い起こす。すくなくともチャムンダーのように苦しみもがく女神など、お目にかかったことはない。どの女神も美人で、いかにも福ふくしく柔和である。弁天さんにしても、観音さんにしても、吉祥天女にしても、みな見とれるほど美しい女神像ばかりである。拷問を受けている真っ最中のような苦しみの表情をしている女神など、お目にかかった事はない。そういう意味からすると、日本の女神さんは神の世界の住人であり、娑婆の住人とは違っている。
 ところがインドでは、この女神は娑婆の住人もいいところで、人間世界、特にインド社会の日常生活のなかで、のたうちまわっているインド女性の苦しみを一身にうけて、現実そのものを表しているようだ。
インド女性が天上世界の女神よりも、ともに苦しみもだえる地上に、このチャムンダー という女神の出現を願望して、この女神を迎え、作り出し、親しみを覚え、礼拝供養して、救いを求めるのは人情の自然にかなっていると僕は思った。
僕はこのチャムンダーこそが、真の意味で救済の女神だと思う。神が姿形をとって、人間を救済している瞬間を目撃したことなどないが、チャムンダーこそは神が人間を救済する姿かもしれない。
『深い川』はクリスチャン、狐狸庵先生の作品だ。先生はさすがに目の付け所がちがう。 僕はかぶとを脱いだ。






最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ツーリスト)
2007-11-07 10:17:30
実在した真の女神はマザーテレサでしょう。
彼女の意志を継ぐインド女性が居ることも
忘れてはなりません。
返信する
マザーテレサ (kc)
2007-11-07 21:07:36
生前にもカルカッタに行ったのに、会えなかった。僕の宿から歩いて10分くらいのところに彼女のお墓がある。一階の土間に棺が置かれ、修道女から入り口で
用件を聞かれた。僕は神とあがめたいテレサにせめて日本流に感謝の読経をささげたいというと、オーケーが出た。彼女の足元にひざまづき、すべての人を愛した大きな愛に包まれて、僕は感激と感謝の涙を流した。
確かに人間離れしている。神とあがめたい人だ。まるでチャムンダーを地で行った人である。東京から看護学校の生徒さんがボランチアをするためにやってきた。いや全世界から善意の人々がやってくる。戦争を仕掛けける奴もいれば、死に行く人のために命をささげて奉仕する人もいる。この現実を人間という言葉で人くくりしてよいものかどうか。考えてしまう。
返信する