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日々雑感

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再度顕彰碑について思うこと 9,883

2011年06月01日 | Weblog
再度顕彰碑について思うこと

大阪の再開発で、大規模おそらく、最後になるだろうと思われるのが、大阪駅北側にある貨物列車操作場だ。再開発の波は避けようもないが、この顕彰碑の存在と、そこに記された話は、これからも多くの人の心に、刻まれることになってほしい。

もう20年以上も前の話だが、私はこのあたりをぶらぶら歩いていて偶然に、この顕彰碑(岩のような石の台座)と碑文(畳半分くらいの大きさに碑文の由来が書かれていた)を発見した。たまたま通り掛かりに、僕が偶然発見したもので、ここに顕彰碑があると知って訪ねたものではなかった。
ここにこのような顕彰碑があるということは、大きく報じられた記憶もないから、偶然見つけたとしか言いようがない。しかし、僕はその碑文を読んで、感動しないわけにはいかなかった。

俗に、北ヤードと言われるところに、再開発のスケールから考えて見ると、小さな顕彰碑は、邪魔になって、どこかの隅っこに追いやられていることだろう。、しかし、時代がどのように変わっても、この話は伝えておきたいという思いから、僕はこの文章を書く気になった。

大阪駅と、ヨドバシカメラの間の道を西へ行くと、貨物線が、道路を横切る所があり、その手前に、日本通運の社屋がある。
このあたりも、大きく変貌して高速道路などが出来ているので、どの辺にあったか。
目当ての石造の顕彰の碑はいくら捜しても、どこにあるのか、わからなくなってしまった。
おぼろげながらの記憶をたどって、顕彰碑の内容を思い出してみると、それは次のような話である。

大阪駅ができて、どのくらいの時が経った時に、発生した事故の話なのか忘れたが、ある日、子供が列車に轢かれそうになった。その時、子供を助けようとした踏切番が、身代わりになって殉職したという話である。

この殉職の話がどこからどう伝わったのかは知らないが、結果的には顕彰碑と、由来を記した碑文となって残った。

この碑を再建したのは、当時の国鉄総裁 十河信二さんと、大阪商工会議所会頭の杉道助さんだったと記憶している。インターネットで調べてみると十河さんと杉さんについては次のように書かれている。
十河さんについて調べると、
十河信二は第4代国鉄総裁として新幹線計画にGoを出した人物である。新幹線計画は国鉄内部にも反対論が根強かったが、当時の十河総裁の決断により進められることとなった。この人物がいなければ今日の新幹線の姿はなかったことになる。ただし、1964年10月の新幹線開業時、既に国鉄総裁の職を解かれていた十河信二は記念式典には呼ばれなかった。 そして開業の年の暮れに亡くなっている。

杉さんについての記述は
関経連の『外史』は、杉の会頭就任を満場一致で決め、本人の承諾を求めにお歴々が杉を訪ねたが、杉は散歩に出てどこにもいなかったと、飄々たる杉の態度を示す逸話を紹介している。維新の元勲、西郷隆盛の大きさを連想させる話である。
彼は昭和21年に大阪商工会議所の第16代会頭に就任、以後35年までの5期14年、戦後の関西経済復興をリード、「五代友厚の再来」(『大阪商工会議所百年史』)と称される偉大なリーダーだった。吉田松陰の甥であることを誇りにしていたというが、財界リーダーとしての足跡は、今も関西の至る所に見聞することが出来る。
安岡正篤著『東洋人物学』に、幕末の志士、真木和泉の一文が引用されている。
「此にいふ才は斡旋の才といふて人事をなす才なり。いかばかり善き人にても、いか程の徳ありても、人として此斡旋の才なきものは世の用にたつことなく無用物なり。たとひ無学にても此斡旋の才あるものは何事にあたりても功をなし用立つなり」
これを引用し、安岡師は次のような解説を加える。
 「斡旋とはどこからくるかというと、これはやはり情からくる、仁からくる、慈悲、愛情からくるのです。人を愛するがゆえに、その人のためによかれしと、いろいろ世話をする、面倒をみる。事を愛するからして、その事のために何くれと取り計らう、それを斡旋という。人間が利己的であると、この斡旋ができない。少々頭が悪くても、少々不細工でも、知だの才だのがなくても、その志、誠、愛情、あるいは徳というものがあれば、斡旋はできる。これはなかなかの才能人、知恵、才覚の人よりずっと世の役に立つ。人の用をなす」
 もちろん杉翁に知も才もなかったわけではない。だだ杉翁ご自身の自己分析の言葉と、安岡師のこの一文が余りにも近くにあり驚かされる。かたや吉田松陰の甥、そして安岡師は松陰を最も尊敬する日本人の1人として研究された方。2人の間に赤き糸が結ばれていたのかも知れない。
 関西・大阪のリーダー達が学ぶべき歴史は、古き時代ではなくとも、つい目の前にあったのだ。第二十九回 「人物論-2」より引用

話を元に戻すと、
こういうことは、末端の小さな殉職事故として、見逃されがちである。僕は、この話を知ったとき、二人のリーダーは、この事故を重く受け止めて、殉職者のプロ意識と責任感をほめたたえ、同時に、敬意を表して顕彰し、後世のために、顕彰碑を建てたものだと思った。

子供の命を救うために、我が命を捧げる。これこそ、プロ魂ではないか。しかるにこの犠牲的行為は、単なる不幸な事故として葬りさらわれても、何ら不思議ではない時代の出来事だ。
そして僕が思うに、これは踏切番氏の人間的な職業的な行為の中で、彼は何の計算もなく、犠牲になったはずだ。いや犠牲などという意識は毛頭無かったはずである。
危ない。救わなければ。ただ、その一念しかなかったことだろう。
今でも、JR関係者以外でこの顕彰碑のことを知る人は少ないのではないか。

鉄道には事故は付き物だ。いくら安全を旨としても、すべては人間のすること。最小限に、事故を抑えるようにしても、絶無ということは言えない。いや、ありえない。
殉職者の悲しくも、責任感あふれる崇高な行い。それを見逃さないで顕彰する二人のリーダーの目配りと思いやりの素晴らしさ。
今は薄れたけど、日本のリーダーの中には、日本人としてのプライドや心根の中にはかくも、暖かい血が流れている事を教えてくれるのだ。

どのように、時代の波が押し寄せるようとも、顕彰碑とともに、日本人魂として、忘れてほしくない出来事である。

驚いたことに今日2011年5月31日の朝日新聞夕刊に次のような記事が載った。
「新社員碑に誓う安全」という見だして、すでに僕が二〇年以上も前に書いた顕彰碑のことが書いてある。千葉正義記者の文章だ。
1907年(明治40年) 5月31日午後六時頃遮断機をくぐり抜けて、横断しようとした6才の少女を見て踏み切り係として勤務していた岐阜県出身の清水太右衛門 54才が救出した。が彼は列車に接触して翌日なくなった。最後まで「危ない」と口にしていたという。彼の勇気をたたえる声が上がって明治40年10月に殉職碑が建立されたが戦災で壊れた56年に阪神高速池田線出口付近に再建されたが07年に移設。・・・
その同じ会社が福知山線脱線事故を起こし100余名の命を奪った。裁判で被告人質問で、あれほどきついカーブに線路を付け替ていながらATSをつけなかった。脱線事故が起こるとは思わなかったと被告人の元社長は証言した。
同じ国鉄マンとして、責任感の感覚が違う。片や1踏切係、片やJRを背負う会社の社長。
評価は読者に任せよう。僕の評価はすでに言外に出ていると思うから。

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