日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

鶴富屋敷

2010年11月27日 | Weblog
鶴富屋敷

深い山と川にはさまれた崖の中腹を、何時間走ったことか。
途中峠を超えたこともあり、上り詰めた峠の上から、山深い山脈を四周に見て、ボーぜんとしたこともある。
地図でたどれば、感覚が狂う。自然の厳しさは、地図からは、読みとれない。

こんな山深い谷間の土地で、再び戦力を蓄えて、復讐戦などと考えるほうが、無理である。
狭い家で、農業をして、自分たちが生きるのが精一杯である。

那須大八が、戦意なくして静かに、自然に溶け込んで暮らす平家の落ち武者・落人の姿を見て、討伐を止めたのは、いかにもそうだろう。

ここで暮らせれば、敵味方の意識はなくなるだろう。この山奥には、自然の力が満ちあふれ、憎しみ、殺し合う人間の愚かしさを、いやがうえにも悟らせてくれる。
太陽の光 四季の自然の移り変わりなど、自然の営みの中でしか生きられない人間の本当のあり方について、気づかしてくれる。

おこれる平家、ひさし必ず

武士の分際で、天下を掌握した時点で、貴族化して平家は武士を失う。それは歴史の単なる気まぐれであって、本流ではない。

一般大衆は、貴族社会を望んでいない、新しい社会を望んだが、平家は、我が世の春を作り出すために、天下をとった。
平清盛というリーダーがいてこそ、平家はその体を保つが、リーダーを失うと坂をころげ落ちるように、平氏政権は、崩れ去っていった。
何時の時代も登り坂を上り詰めると必ず下り坂に向かう。それは自然の法則である。世界の歴史を見ると、このことがよく分かる。歴史開闢以来栄え続けた国など、どこにもない。
超大国だと言われたアメリカにも下り坂の影が忍び寄る。 うちかわって19世紀から20世紀かけて、衰退の一途たどった中国が最近急速に力をつけてきて、往年の輝きを取り戻そうとしているかのようである。

中華思想によって東南アジアに絶大な影響を及ぼした、中国は中華思想を裏付けた哲学や宗教や文化といった方面の力は消え失せたようだが、経済力をつける事によって発言力を増し、ふたたび周辺国に影響を持とうとしている。小は平家の権勢から、大はアメリカの国際社会における発言力の影響の大きさまで、スケールの規模を大きくしてみると、どれもこれも歴史の理の軌道上を歩いているように思える。

こんな事を平家の落ち武者の里山深い椎葉の鶴富屋敷にたたずみながら考えた。

黄金の井戸を覗く

2010年11月27日 | Weblog
黄金の井戸を覗く  

四国88ヶ所遍路、第三番は金泉寺である。この寺の境内にある黄金井戸を覗いて、そこに自分の顔が写っていれば、健康で長寿の御利益が得られるという、言い伝えがある。
井戸を覗いて自分の顔が水に映るようなれば、長寿をえると言うのである。

では映らないと、どうなるかとは伝えられていないが、映れば長寿だと言うからには、映らないと長寿に恵まれないのではないか、という反語が頭をかすめる。
井戸を覗くか覗かないか。ある種の勇気がいる。それは背後にこういう想いが、はたらくからである。

考えてみれば罪なことである。もし医者から見放されて遍路旅に出た人などはよほど信仰深い人でなければ、おいそれとはのぞけまい。いや反対に医者に見放された人であるからこそ、影が映れば生きる望みを大きくして、ますますお大師さんに信仰を深め、それが契機で死の淵から生還する人もあるかも知れない。

常識的には映らないことはあり得ないと考えるのだが、もし影が映らない場合、映っていても、それを見つけられない場合は、医者からも、お大師さんからも見放されたと思い、死期をを早めると言うことも、あり得るとも考えられる。
井戸の水面に姿が映らないか、映るか、たったこれだけのことで僕はこういう事を考える。

人間は未来のことを見通せない。 現実に起こってくる問題にぶっつかったときには、するかしないか、するとすればどのように、と言った具合に必ず選択肢が出くわす。そして先は見えないのに、決断が迫られる。

井戸をのぞき込む場合もそうである。覗くのか、覗かないのか、決断を迫られる。
映ったらよいけれど、映らない場合は、どのように考えるのか。その時はお大師さんの信仰や、御利益のおかげで、映らなくても長寿が得られると、すり替えてしまうのか。

まあ考え方は色々あるが、後に気になることを抱えるのは良くない。思い悩むことにつながるから、やっぱり、のぞき込むのはやめにした。これを小心者のせいと考えるか、慎重だと思うのか、考えすぎだと思うのか。いろいろあるが、、、、人それぞれだ。