日々雑感

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結城秀康の祟り

2010年11月10日 | Weblog
結城秀康の祟り

元禄末年のこと、彦根城の廊下橋で、刃傷事件が起こった。この事件の後に、城下では、奇怪な噂が飛び交った。結城秀康の祟りが原因だというのである。
結城秀康は徳川家康の次男だが、徳川家の相続権者から、遠ざけられていた。それは、家康が彼を嫌ったからだという。

家康は彼に68万石を与えて越前の大名にした。親子の間でも時として、そりが合わないことがあるのは、今も昔も同じだ。
忠臣本多正信は徳川家のために、井伊直政の嫡男直継に白羽の矢を立てて秀康の暗殺を迫った。
ところが直継は即座に断った。しかし彼の弟直孝は家康の意向であるならば、自分が引き受けると承諾した。むごい話である。家康は本当にそう望んだのか。心の奥底では何がしかの憐憫の情を持ち続けたのでは無かろうか。

しかしお家のためにならぬと考えている家康の意向を汲んで本多は心を鬼にした。そして井伊直継にこそっと、その旨うちあけたのだったが、彼はそれを拒み、弟が暗殺計画を引き受けた。もしこれがぼくがこの立場にいたとしたら、どうしただろうか。わが身に引き換えて答えを出さないと、無責任な発言になる。お家のためとはいえ家康の実子を暗殺するか、それとも人間の心を持った一人として、人を殺めるわけにはいかぬと、禄の召し上げ承知の上で断るか、難しい判断を迫られる難問である。

1606年、秀康は彦根城に招かれた。名目は築城手伝いのお礼ということであったが、この酒の席で、毒をもられてしまう。そして翌1607年に秀康は病没した。
暗殺を断った直継は群馬県の3万石に左遷されたが、暗殺を決行した直孝は井伊の宗家をついて彦根15万石の藩主となった。

その後5代目の藩主直興の時代になって後継ぎの男子が次々と年若くして死んでいった。これには直興も困ったらしい。彼はこの災いを払いのけるために、秀康が信仰した弁財天祭祀のために建立を思い立ち、大洞弁財天社を建立して祀ったが、効果はなかった。


この時代には、この藩でもこのような血生臭い事件や、話は調べればきっとあることだろうと思うが、私は後年、井伊直弼が安政の大獄事件を起こす伏線がここに秘められているように思う。やはり先祖から伝わる血の部分があるのかなと、思わざるを得なかった。

殺すか殺されるか。と言う緊張の時代だから、あるいはやむを得ないかもしれない。人を毒殺するというのは、殺された人だけではなくて、殺した側にも人間としては何かが残るはずだ。

人間の霊や怨念が、時を経て、後世にどのような災いをもたらすか。それは実証不可能なことだから、真実は分からない。しかし、あまりにも奇怪なことばかりが継続すると、人間はやはりこういう部分をかつぎ出して、問題の解決をしようとする。それは気慰みかもしれないし、また実際に、それによって解決され得ることがあるのかもしれない。
こういうことは何も、井伊家だけのものではなくて、古くは、北野天満宮にまつられている、菅原道真の事件も、似たような部分がある。

それは、人間の心の奥底は深くに潜む、霊魂に対する恐れが作り出すものかもしれないが、人間には良心というものがあって、良心に反することをした場合、良心の呵責に、耐え切れないとき、が、出てくるのかもしれない。

怨念説をもう少し広げて考えるならば、天下の井伊家と言えどもに、随分と怨念を受ける行為がある。たとえば、石田三成の佐和山落城の状況を考えてみると良い。

関ヶ原の戦いに破れた、石田三成は本拠地である佐和山城に、戻ろうとするが、すでにここは、徳川家の勢力下にある。落城とともに、三成の妻や一族の女たちは、天守閣のわきの崖から、次々と、身を投げた。そこは、女郎谷と呼ばれて、その谷間は死体で埋まり、死にきれなかった女たちのうめき声が何日も続いたという。
いわゆる阿鼻叫喚にの地獄絵図である。
戦くさに破れたものが、このような悲惨な目に遭うというのは、何も佐和山城の女たちだけの悲劇ではない。が、たとえ敵方と言えども、人間としての熱い血が通っているならば、この悲劇を見過ごすのはどうかと思う。
つまり、井伊家には、先祖代々、このような冷血な判断や行為が行われる先祖代々の血の流れがあったのではなかろうか。
それは結局時代が下がって幕末に井伊直弼が藩邸から、江戸城に向かう途中、桜田門で、脱藩した水戸や薩摩の浪人たち18名によって、襲撃され首を切り落とされるといういう形で、因果応報、がめぐったような気がする。

彦根の住人でないヨソ者の僕が、どう考えるかは自由であるが、彦根においては、まだまだ井伊家に対する市民の思いというのは、僕の理解できないところにあるのかもしれない。

ともあれ、昭和の時代になり、大西洋戦争の敗戦を迎えた。日本では、欧米流の民主主義が輸入され、まがりなりにもそれが定着している。だから、今後はおそらく安政の大獄のような事件は起こるまい。それだけでも、良い社会良い時代になったといえる。

昨日久しぶりに映画を見た。桜田門外の変である。将軍継嗣問題、と外交問題
つまり開国を巡って井伊は大胆に反対するもの、異議を唱えるものにたいして、大なたを振るって弾圧した。吉田松陰を初め、橋本左内、など犠牲者は100名余りという。
それが井伊の独断専横に憤りを感じていた水戸藩の武士が脱藩して浪人となり薩摩藩有村(井伊の首級を取った)達の決起を促進させた。
襲撃者それに井伊大老を警護できなかった武士の切腹者をくわえて150名近くの命が失われる。井伊の首1つをとるためにそれだけ多くの人命が損なわれたのである。こういう弾圧事件はほとんどが失敗に終わっているが、この事件だけは例外的に歴史を一歩前に進めたと見るのが、司馬遼太郎さんである。
でも当時の国内情勢や外圧に対して見方が分かれるのは、納得できる。もし井伊の立場に僕が立っていたとしら水戸斉昭の主張のように、強硬外交をすすめただろうか。失敗したら亡国の危機にさらす綱渡り外交に踏み切れただろうか。
この井伊の開国決断が正解だったかどうかは、未だに評価の定まらない状態らしい。
そして僕は思う。よくぞあの難しい判断を迫られる立場に生まれなかったことだ。名もなき庶民に生まれた喜びがここにある。