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「坂の上の雲」放映を前に/司馬史観の危うさ・批判書を読む②

2009-09-22 00:37:37 | 歴史
司馬遼太郎をなぜ読むか
桂 英史
新書館

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 以前、教育テレビで山田風太郎について読み解く番組を放送したことがある。山田風太郎といえば、忍者もの、伝奇もので有名で、僕も、その面白さに引き込まれ、結構たくさんの作品を読んだ。ただ、明治時代を扱った開化ものは、内容が他のジャンルと作風で違っていたので読むことはしなかった。番組では、この開化ものに取り上げられた軍人が関わったある歴史的事実を、山田風太郎がどう描いたかを、同じ事件を描いた司馬遼太郎の文章と比較した。モデルとなった事件を、二人は全く違った視点で描いていた。司馬遼太郎が、かなりの作為で作品を自分流に描いていることがあぶりだされた。

 最近のテレビというメディアの放送の仕方は、「お茶の間劇場」と化している事は小泉政権誕生の時などで、指摘されているところである。民主党による政権交代が起こった時点でも、組閣前に、テレビ朝日では、国会に関するトリビアクイズと称して、朝の時間帯に、政治記者のうんちくを紹介しながら、議員食堂のメニューなど、どうでもいいことに時間を割いていた。組閣の前日と、当日には、民放各局では、番組を変更して、酒井法子とその夫の釈放を取り上げていた。登場した自動車は、ヘリコプターにより追跡放送された。ここまでするのか。
 こうしたメディアの動きを、本書の著者は、マルチメディア・イベントと呼んでいる。『メディアは、本来は、知のあり方を決める「かたち」である。「かたち」をはっきりさせることができるからこそ、マクルーハンがいうように「メディアはメッセージ」なのである。』しかし、マルチメディア・イベントは、国民に、個人を捨て去った共通の記憶を作り上げるものとなってしまった。これは、戦前の新聞・ラジオの果たした戦争への国民への幻想を植え付けた事と同じ作用をもたらしうる。
 著者は、司馬遼太郎という作家を、そうしたマスメディアの作り上げた「国民作家」ととらえている。司馬文学には、緻密な心理描写がないのは、作品の発表の場となった週刊誌の記事の書き方に合わせたからだと論じる。
 歴史学者の中村氏が取り上げたような「司馬史観」なる歴史上のセオリーなどはもともと存存在しているものではなく、それはマスメディアが作り上げたナショナリストとしての司馬遼太郎の作品に対するイメージであり、政財界の人間も含めた読者の勘違いであることを、我が国のメディアの歴史を検証する中で、明らかにしていく。
 たいそうに「司馬史観」たるものを保険とする自由主義史観のような乱暴なナショナリズムの術中にはまらないためにも、著者は「司馬史観」というものの不在を強調する。

 今、流行りのテレビゲームのような世界との指摘はなるほどと思える。「昭和特殊説」をとりたいために、明治時代の尊王攘夷の時代を理想化した司馬独自のいディ後しての理想世界を夢想しながらの作品。「いわゆる維新の志士たちは、総人口の5%程度の特権階級に属する人々のできごとである。その他95%の人々の生活は、むしろ知略を駆使するヒーローが活躍するゲームを阻害するものでしかない。ゲームを繰り広げるヒロイズムの描写を重視するあまり、戦争が題材に取られても、一般庶民や侵略される側、すなわち戦争でもっとも抑圧された人々が描かれることがないのだ。」彼の「脱亜入欧論」によれば、「日本は進んでいるが、他のアジア諸国はなかなか近代化がすすんでいない」から、日清・日露戦争も、歴史の偽造が行われ、例の朝鮮植民地化は、朝鮮に近代化をもたらしたものとの考えが当然視される。侵略者の論理が働き、侵略される方の感情など一切考慮されることはない。」 
 本書で著者が指摘する司馬メソッドは、「無思想」「一人称」「類型化」であるが、こうした内容の解明をはじめ、我が国のメディアの変質についても、かなり読みでのある本である。内容の検証については、専門外のことも多いので、全ての著者の考えに同調できるものではないが、批判書としては貴重な一冊である。


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