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破壊からの正反対の2つのベクトル/『破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)』

2009-09-01 01:53:45 | 歴史
破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)
松尾 剛次
平凡社

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 日本史の文学や芸術史を観ていくと、同性愛に関する表現に多く出会う事になる。「稚児之草紙」や本書でも取り上げられている「春日権現験記絵」などの絵巻物。後者は、今回、国立博物館で展示される。その中には、僧侶と床を共にする女性のような髪型や服装をしている稚児が描かれている。謡曲でも、「松虫」のような作品のほかに、先日拝見した「大江山」でも、前シテの酒吞童子が童子の姿をしているのも、延暦寺での男色関係を踏まえてのものである。貴族の間にもそうした関係が存在した。戦国武将の間でも、男色関係は珍しくなく、武田信玄も男色相手に恋文を書いているのである。江戸時代の若衆歌舞伎は、身体を売ることもあったし、陰間茶屋なるものもあった。こうした風習の源流は、日本の仏教の破戒に源を発した。

 天平時代に、我が国に鑑真を招聘したのは、国立の戒壇を作るためであった。戒壇で、一人前の僧侶、比丘と認められるためには、それを認証する資格のある高僧が必要だったのである。それ以前は、戒壇で受戒を執り行う僧侶が国内に存在せず、中国に留学したとしても、一人前の僧としては扱われなかったのである。国立皆伝での、受戒制で、僧侶は国家公務員たる官僧となった。受戒とは、守るべき戒を授けることである。東大寺等の国立戒壇では、小乗系の「四分律」の戒を10人の有資格の僧から受ける必要があった。
 戒の中には、不淫戒(異性はもちろん同性や動物との故意の性交を禁止)・不盗戒・不殺戒・不妄語戒(我は悟ったと大言壮語すること)の四戒が含まれたが、これらは懺悔しても許されることがなく、僧団追放処分とされることになっていた。
 最澄は、四分律ではなく、「梵網経」に基づく十重四十八軽戒による大乗戒壇(延暦寺戒壇)の樹立を朝廷に訴えたが、旧来の仏教寺院の反対が強く、樹立が認められたのは、死後7日目であった。大乗戒壇でも、違いがあるものの、不殺生戒・不淫戒・食肉の禁止等が含まれていた。

 しかし、こうした戒律も時と共に形骸化し、いつ受戒したかという戒籠の方が問題視されるようになった。いわば、僧侶の年功序列化というのであろう。

 真弟子なる言葉があるが、これは父親が僧侶である弟子のことである。つまりは、女犯が行われていたことを示す言葉である。男色関係もごく一般的であった。資料としては、東大寺の別当にまでもなった宗性の宗性の仏に対する誓いの文書である1238年11月2日付の五箇条記請の文が残されている。その中には、「二、現在まで、九十五人である。男を犯すこと、百人以上は、淫欲を犯すべきでないこと」「三、亀王丸以外に、愛童をつくらないこと」「四、自房中に上童を奥べきでないこと」などの誓いが書かれている。生年三十六の時とされている。

 飲酒も行われていた。今、別の山岳宗教の本を読んでいるが、やはり、修行者の修業の形骸化が見られる。「延年」は、飲酒を伴った慰労会のようなものだし、修行上の年数を水増しするために、生年月日の偽造まで行われている。

 こうした一般化した破壊行為に対しては、戒律復興運動が鎌倉時代を中心に起こった。叡尊・忍性らの運動であった。いわば、仏教界の宗教改革運動であり、釈迦の時代への復帰運動という理念の下に行われた。官僧の身分では、衆生救済の事業は制限があってできなかった。現代の仏教が、葬式仏教と揶揄されることがあるが、実は、官僧の身分では、死に触れることは穢れにつながることであった。死人の弔いや、また、当時のハンセン病患者の救済などはできなかった。そのため、戒律復興運動を展開した彼等は、官僧の身分からの離脱を意味する二重出家たる「遁世」「隠遁」を行なった。その点では、民衆の救済のために本来の戒律を破っているのである。菩薩行としての読み変えであろう。また、行基らに倣い、公共事業も行っているのである。

 こうした動きに対する反対方向に働いたのが、親鸞の「無戒」宣言に基づく動きであった。妻帯も認めるのは、末法の世の中故というが、おそらくは、鎌倉新仏教の開祖たちも、比叡山での若き日の修業中には、高僧の男色相手になっていた可能性が高く、寺院内での女犯・飲酒などの破戒行為を嫌というほど観てきたのであろう。

 今まで、仏教史においては、僧侶の「身体論」は取り上げられてこなかった。

 著者は、現代の仏教界での戒律復興運動を期待しているようである。確かに、世界の仏教界からみれば、日本仏教は仏教にあらずとみられている。戒律に対する態度からである。しかし、新たな戒律復興運動はおそらくは不可能であろう。親鸞の思想が働いていくのだろう。

 なお、俗世では、同性愛をはじめ、LGBTはもはや精神病の範疇からは外れている。


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