1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こった。今年で15年目に当たる。
6000人を超える方が亡くなり、全壊・半壊の家屋は46万世帯に及んだ。多くの被災者は、避難所生活、仮設住宅での生活を余儀なくされた。
その時に、不自由な避難所生活に加え、障害故の苦しい体験を送ることになった。聴覚障害者もまた、コミュニケーションの問題に由来する多くの苦難の経験をすることになった。震災時の、障害者の二重の苦労に社会も注目するようになった。番組では、『阪神大震災・聴覚障害を持つ主婦の体験 紫陽花 まき著』を出版した神戸市の永江真樹さんが出演して、本の中でも触れらている家族との避難生活を手話で語った。
永江さん一家は、アパートの2階に生活していたが、地震で建物が破壊され、下の階に住んでいた3人が亡くなっている。
永江さんの家族は、ろうの夫婦に、聴者の2人の子どもがいる。震災当時、子どもが情報を知らせてくれたが、なかなか状況を把握するのが困難であった。
近くの小学校で、半年の避難所生活も送ることになるが、放送による情報提供だけが行われたために、食事支給についての情報も入らず、並ぶ列はいつも最後尾で、食料がなくなってしまったこともあった。また、家族全員が並んで1食ずつ受け取るという指示が伝わらずに、家族4人分の食事を要求しても、1食分しか支給されない時もあった。そんな時は、1食分を子ども2人に食べさせ、親は空腹を我慢した。
中でも、番組を観ていて驚いた事件は、仮設電話の使用に関して起こった。避難所の電話を使用するためには、列の中で順番を待つ必要があった。しかし、電話の中で、ファックス機能が付いたものは1台だけであった。永江さんが列に並んで、自分の順番が来た時には、普通の電話が空いただけであった。そこで、ファックスの出来る電話の方へ進んだ所、他の人間達から「欲張り」と怒られた。その時に、息子さんがいて、聴覚障害者はファックスを使う必要があると説明しても、人々の怒りは収まらず、見知らぬ男性が駆け寄ってきて怒鳴りながら永江さんの左肩当たりを殴り、彼女は倒れた。これを見ていた息子さんは、恐怖で震えていたそうだ。
人間の無理解が生みだす心と腕力による暴力の事を知って恐ろしくなった。その場にいた人々は、誰一人、こうした暴力を止めようとはしなくて、共犯となってしまっている。
仮設住宅での、永江さん一家の生活も、やはり、コミュニケーション手段が保障されていなかったために、苦労の多いものであった。お茶飲み会がたびたび開かれたが、参加者に高齢者が多く、永江さんが筆談しようにも、目が悪くて読むことが困難であった。折角、仲良くなろうという気持ちからの参加であったが、手話通訳者もいなかったために、それ以後は、お茶飲み会に参加することもなかった。仮設住宅での生活の各面で、手話通訳者の派遣等が保障されていれば、コッミュニティーに積極的に参加出来たのに。
今、永江さんは、本を通して、震災時の聴覚障害者の置かれる2重の不自由さを社会に伝えようとしている。最も大切な事は分かりあえること、永江さんはそれを伝えようとしている。
6000人を超える方が亡くなり、全壊・半壊の家屋は46万世帯に及んだ。多くの被災者は、避難所生活、仮設住宅での生活を余儀なくされた。
その時に、不自由な避難所生活に加え、障害故の苦しい体験を送ることになった。聴覚障害者もまた、コミュニケーションの問題に由来する多くの苦難の経験をすることになった。震災時の、障害者の二重の苦労に社会も注目するようになった。番組では、『阪神大震災・聴覚障害を持つ主婦の体験 紫陽花 まき著』を出版した神戸市の永江真樹さんが出演して、本の中でも触れらている家族との避難生活を手話で語った。
永江さん一家は、アパートの2階に生活していたが、地震で建物が破壊され、下の階に住んでいた3人が亡くなっている。
永江さんの家族は、ろうの夫婦に、聴者の2人の子どもがいる。震災当時、子どもが情報を知らせてくれたが、なかなか状況を把握するのが困難であった。
近くの小学校で、半年の避難所生活も送ることになるが、放送による情報提供だけが行われたために、食事支給についての情報も入らず、並ぶ列はいつも最後尾で、食料がなくなってしまったこともあった。また、家族全員が並んで1食ずつ受け取るという指示が伝わらずに、家族4人分の食事を要求しても、1食分しか支給されない時もあった。そんな時は、1食分を子ども2人に食べさせ、親は空腹を我慢した。
中でも、番組を観ていて驚いた事件は、仮設電話の使用に関して起こった。避難所の電話を使用するためには、列の中で順番を待つ必要があった。しかし、電話の中で、ファックス機能が付いたものは1台だけであった。永江さんが列に並んで、自分の順番が来た時には、普通の電話が空いただけであった。そこで、ファックスの出来る電話の方へ進んだ所、他の人間達から「欲張り」と怒られた。その時に、息子さんがいて、聴覚障害者はファックスを使う必要があると説明しても、人々の怒りは収まらず、見知らぬ男性が駆け寄ってきて怒鳴りながら永江さんの左肩当たりを殴り、彼女は倒れた。これを見ていた息子さんは、恐怖で震えていたそうだ。
人間の無理解が生みだす心と腕力による暴力の事を知って恐ろしくなった。その場にいた人々は、誰一人、こうした暴力を止めようとはしなくて、共犯となってしまっている。
仮設住宅での、永江さん一家の生活も、やはり、コミュニケーション手段が保障されていなかったために、苦労の多いものであった。お茶飲み会がたびたび開かれたが、参加者に高齢者が多く、永江さんが筆談しようにも、目が悪くて読むことが困難であった。折角、仲良くなろうという気持ちからの参加であったが、手話通訳者もいなかったために、それ以後は、お茶飲み会に参加することもなかった。仮設住宅での生活の各面で、手話通訳者の派遣等が保障されていれば、コッミュニティーに積極的に参加出来たのに。
今、永江さんは、本を通して、震災時の聴覚障害者の置かれる2重の不自由さを社会に伝えようとしている。最も大切な事は分かりあえること、永江さんはそれを伝えようとしている。
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