植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

前田利常公の足跡を訪ねて ⑨那谷寺―1

2017-02-27 04:30:45 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.957)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑨那谷寺―1

12)那谷寺(なたでら)

那谷寺は高野山真言宗別格本山。寺伝によれば、養老元年(717)泰澄法師が岩屋寺(現那谷寺)に千手観音を安置したのが始まりとされる。

その後寛和2年(986)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求る観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名。

■写真は山門



南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃した。近世に入って加賀藩三代藩主前田利常公が寛永12年(1642)に不動院本坊を庫裏・書院として再建。同時に庫裏庭園を築造。この時の大工は気多大社拝殿を建てた山上善右衛門で、本殿、唐門、拝殿、三十塔、護摩堂、鐘楼堂、庭園などを造営した。

前田利常は、江沼郡の大半を支藩の大聖寺藩に分置したが、この那谷寺がある那谷村付近は自身の隠居領としたため、その死後も加賀藩領となった。

■写真は境内図



元禄2年(1689)奥の細道の松尾芭蕉は弟子の河合曾良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、奇岩霊石がそそりたつ遊仙境の岩肌を臨み句を詠んでいる。

■写真は金堂華王殿



□書院及び庫裏

書院は、室町時代末期に起こった天正の戦乱で、諸堂伽藍が焼失したのち仮御堂として建てられたもので、寛永14年(1637)に前田利常が書院として再建、自ら指揮を執ったと言われています。武家書院造りで一間ごとに柱が入り、特に玄関は珍しく土天井であるなど、他の書院造りでは見られない特徴が随所で見られる。御成間、琴の間、4畳、8畳の2室、10畳の鞘の間、床棚などからなり、一重で屋根は入母屋造でした。
昭和28年(1953)に国指定重要文化財に指定



■写真は書院



■写真は前田利家公お成りの間



■写真は知見庵





■写真は書院庭園



□三尊石・琉美園

書院奥に広がる庭園・琉美園の池中央に立つ自然の岩面は三つに分けれ三尊石と呼ばれている。岩面の裂けて姿が阿弥陀三尊のご来迎に似ていることから名付けられた。

□那谷寺ホームページ

■写真は三尊石



■写真は琉美園茶室





■写真は金堂華王殿の十一面千手観世音菩薩

(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ⑧浅井畷古戦場

2017-02-26 04:25:58 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.956)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑧浅井畷古戦場

11)浅井畷古戦場

ときは慶長5年(1600年)八月九日、丹羽長重が軍勢三千は降り出した雨に乗じ、今まさに眼前を行軍する前田利長が軍勢2万5千に夜襲をかけ、これを撃滅せんとしていた。

この浅井畷の戦いは、北陸における「関ヶ原合戦」であった。徳川家康に味方した金沢城主・前田利長と、石田三成に味方した小松城主・丹羽長重の戦い。前田利長は、大聖寺城を落とした後に金沢城へ戻る途中だった。そこに大聖寺城主・山口父子の弔い合戦とばかりに丹羽長重軍が襲いかかったのである。

■写真は浅井畷全景



小松城からは援軍が次々と到着。前田方の殿(しんがり)軍であった長連竜隊は大苦戦となった。両軍とも自慢の勇将が激突。丹羽方では松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門ら多数の将が討死し、前田方でも長家の九士、小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助をはじめ多数の将士が命を落とした。



■写真は看板と墓の位置図



討死した前田方の長家九士の墓が、ここ浅井畷の木立の中に散らばって残っている。それらの碑は、皆それぞれの倒れた方向に向けて建てられているとのことだ。
(資料:まるごと・こまつ・旅ナビホームページより)

住所:小松市大領町つ137

□浅井畷古戦場紹介ページ



■写真は薦かぶりの墓(撮影:2017.01.07)

(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ⑦多太神社

2017-02-24 04:18:40 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.955)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑦多太神社

10)多太神社(八幡宮)

遥か昔、武烈天皇5年(503年)の時に創建されたと伝えられている歴史ある多太神社。
ここには、とある伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財(旧国宝)で、斎藤実盛の兜である。

■写真は多太神社鳥居



時代は平安末期、源平合戦のまっ最中。兜の持ち主だった斎藤実盛は、平家の武将として戦っていた。倶利伽羅峠の合戦で敗れ、加賀の篠原で再び陣を取り戦ったが、木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。

その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。

実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。

■写真は斉藤実盛の兜



後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。この兜にまつわる実盛と義仲の話は「平家物語」巻第七に「実盛」として語られている。

■写真は斉藤実盛像



それからずっと後の元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れた。兜を見た芭蕉は実盛を偲び句を詠んだ

「むざんやな 甲の下の きりぎりす」

■写真は芭蕉像



境内には句碑が建っている。その句碑のそばに「松尾神社」という神社があるが、これは松尾芭蕉とは関係ないので「俳句がうまくなりますように…」などとお参りしてもご利益は期待できない…。ちなみに松尾さんはお酒の神様です。

(資料:まるごと・こまつ・旅ナビホームページより)

■写真は芭蕉句碑「むざんやな 兜の下の きりぎりす」

住所:石川県小松市上本折町72

□多太神社紹介ページ





■写真は芭蕉句碑「あなむざん 兜の下の きりぎりす」と看板





■写真は拝殿

(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ⑥本折日吉神社

2017-02-23 04:41:59 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.954)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑥本折日吉神社

9)本折日吉神社

旧北国街道筋にあたる小松の本折町は、江戸時代の文化5年(1808年)に、本折日吉神社の向かい側に本光寺が移転してから発展した門前町。それから明治維新までの50年間は「出町」と呼ばれて賑わい、明治初年に本折町と改められた。

■写真は一の鳥居


 
破風付の朱色の鳥居が印象的な山王宮・本折日吉神社は、昔から「山王さん」「日吉さん」と呼ばれ親しまれている。

全国に約二千ある日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮である滋賀県大津市の日吉大社は、猿を神の使いとして崇拝することで知られ、平安京の鬼門に位置することから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。


■写真は二の鳥居





寿永2年(1183年)に現在の地に鎮座した本折日吉神社も「開運魔除け」「鬼門除け」の神様として厚い信仰を集めている。

■写真は手水舎



■写真は日吉神使い「神猿」



■写真は拝殿



■写真は稲荷大明神



■写真は弁財天社



元禄2年(1689年)の7月24日、『奥の細道』の道中の松尾芭蕉は、小松に入ると近江屋という旅宿に泊まった。翌25日に出立しようとしたところ小松の人々に引き留められ、本折日吉神社の神官で俳人の藤村伊豆守章重、俳号・鼓蟾(こせん)の館に一泊。同夜芭蕉はじめ曾良、北枝、歓生(かんせい)、塵生(じんせい)ら十人が、有名な山王句会を催した。その時の芭蕉の発句が

「しほらしき 名や小松吹く 萩すゝき」



その後芭蕉は小松を立って山中温泉に行くが、何故かふたたび小松を訪れている。奥の細道の旅で同じ土地に二2度も訪れたのは小松のほかになく、芭蕉と小松の人々との間に特別な関係があったことがうかがわれる。
(資料:まるごと・こまつ・旅ナビホームページより)

■写真は芭蕉留杖の地



■写真は大黒天

住所:石川県小松市本折町1

□本折日吉神社紹介ページ


(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ⑤越前屋歓生宅付近の芭蕉句碑、来生寺、正覚寺

2017-02-21 04:33:10 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.953)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑤越前屋歓生宅付近の芭蕉句碑、来生寺、正覚寺

6)越前屋歓生宅(大川町)付近の芭蕉句碑

葭島(かけしま)神社の前通りの角家に住んでいたのが、小松の有力
の俳人で連歌師能順の高弟としても知られていたのが越前屋歓生(か
んせい)。
歓生は、堤氏通称七郎衛門で京都の公家の出だともいわれる。歓生は
前日行われた俳諧興行にも出席しており、この夜は越前屋歓生宅で句
会が行われた。



「ぬれて行(いく)や 人もおかしき あめの萩」芭蕉

現在の句碑は越前屋歓生宅があったと思われる場所の斜め向側の小松
大橋傍に設置されている。



■写真は梯川堤防にある芭蕉碑



7)来生寺 鰻橋御門

明治5年(1872)小松城取り壊しの際に、二ノ丸・鰻橋御門を来生寺
の寺門として移築。屋根は瓦葺で入母屋造り。間口7間、奥行き2間
半の長屋門で、左右の内側には格子がはめられている。小松市指定文
化財。

□来生寺紹介ページ
http://www.komatsuguide.jp/index.php/spot/detail/21/1/2/





■写真は来生寺

番外)立花北枝生誕地

立花北枝(通称:研屋源四郎)は小松の研屋小路(現大川町)の出身
で、金沢に移住して兄研屋彦三郎(牧童)と主に刀研ぎ業を営み、俳
諧を学んで蕉門十哲の一人となる。

この地を探したが、何の表示もなく分かりませんでした。



8)正覚寺(しょうがくじ)山門

浄土真宗本願寺派の寺院で、旧小松城の北門として使われていたとい
われいる。能美郡役場に設置されていたものを移築した。

住所:小松市松任町105-2



■写真は正覚寺

(つづく)

おでん「赤玉」 金沢市片町

2017-02-20 04:28:56 | 日記


金沢のグルメレポート その34(No.952)

◇おでん「赤玉」 金沢市片町

2月3日(金)久しぶりに「赤玉」で遅い新年会があった。新幹線
が開業してからの金沢おでんは人気で、土日は昼食時より外に並ん
でいる。

当日の主催者が、当店の社長と知り合いで、いつもあいさつに来て
歓談してくれる。お任せのコース料理で、飲み放題付。

■写真は2月19日(日)の午後2時ごろの行列













■写真はお任せ料理(大皿料理は3人前)

□赤玉ホームページ

前田利常公の足跡を訪ねて ⑤小松天満宮

2017-02-19 04:12:47 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.851)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑤小松天満宮

5)小松天満宮

前田利常公が明暦3年(1667)小松城天守から鬼門の方向に位置する現在地に創建した。京都の北野天満宮ん社殿を模し、規模を縮小して造営したと伝えれられている。

本殿は入母屋造りでえ平入り、千鳥破風付き銅版葺、内部は黒漆塗り、極彩色の精巧な欄間が入れてある。神門は、朱塗りの四脚門。堂々とした建築で、社殿と共通して江戸期の様式を持っている。
また、白山系の妙法山を超えて昇る冬至の日の出が神門を通り本殿に達するように、社殿と神門が配置されている。

加賀藩お抱えの名工・山上善右衛門によって整備され、現在も神門、拝殿、幣殿、本殿は国指定重要文化財になっている。

■写真は鳥居



□芭蕉句碑

芭蕉が山中温泉から小松に立ち戻ったのは、小松天満宮で生駒万子に会うためであった。

しかし翌日、芭蕉の小松天満宮で初めての別当能生順の面談で、能順の句を褒めた芭蕉の言辞に、二人の間に齟齬が生じ、芭蕉がわざわざ山中温泉から立ち戻ってまで望んだ、小松天満宮での連歌の会での句会の奉納がなされなかったらしい。

この句碑は小松天満宮の句ではなく、金沢の源意庵で芭蕉が初めて披露した句が刻まれている。
「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」

■写真は芭蕉句碑





■写真は神門と梅鉢紋

□十五重石塔

十五重石塔は坪野石で造られ、頭上部に相輪でなく宝珠となっているので仏塔でないと言われている。小松城内分間絵図と現在の国土基本図との比較検討により、小松城の水口はは天満宮の十五重塔の真南に位置しているとわかった。





■写真は十五重石塔







■写真は拝殿

(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ④奥の細道300年記念碑、常盤門

2017-02-18 04:29:02 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.850)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ④奥の細道300年記念碑、常盤門

3)奥の細道300年記念碑

芭蕉が奥の細道で小松に立ち寄ったのは、元禄2年(1689)7月24日(陽暦9月7日)。翌日多太神社に参拝し、源平の合戦で討死した斉藤別当実盛の遺品である甲冑や木曽義仲が戦勝祈願する願書を拝観。
夜には本折日吉神社の神主・藤村伊豆宅で行われた句会に招かれ一句披露している。26日には天候が不順で、前日の句会に出席していた越前屋歓生宅(大川町)の句会に招かれ一句を披露している。



27日には菟橋(うはし)神社の祭礼を参観して山中温泉に向けて出立。途中に多太神社を再訪し、一句を奉納した。
山中温泉に9日間滞在した後、門人の曽良と分かれ芭蕉と立花北枝が再度小松に向かった。その途中、那谷寺に参拝し一句詠んでいる。

奥の細道300年記念として、この四句を中央緑地に設置している。







あと1句取材もれ。

■写真は奥の細道300年記念句碑



4)稚松小学校 常盤門

芦城公園に隣接する稚松小学校の校内に、旧小松城の常盤門が移築されている。数少ない小松城の遺構の一つ。

■写真は稚松小学校 常盤門





■写真は稚松小学校

(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ③仙叟屋敷 玄庵―2

2017-02-17 04:54:12 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.949)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ③仙叟屋敷 玄庵―2

2)芦城公園 仙叟屋敷 玄庵―2

この茶室は、茶道裏千家15代鵬雲斎千宗室(ほううんさいせんそうしつ)家元が千家4代仙叟宗室居士300年還忌を記念して先祖の供養のため、平成9年(1997)年4月21日に小松市へ寄贈された。

■写真は玄庵水屋











■写真は玄庵





■写真は仙叟屋敷の庭



□前田利常公銅像

この銅像は大正5年(1916)に建立されたが、第2次世界大戦の戦時供出で、この像も供出され、昭和41年(1966)に再建された。

■写真は前田利常公銅像



■写真は三の丸跡石碑

(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ②仙叟屋敷 玄庵―1

2017-02-15 04:58:07 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.948)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ②仙叟屋敷 玄庵―1

2)芦城公園 仙叟屋敷 玄庵―1

この茶室は、茶道裏千家15代鵬雲斎千宗室(ほううんさいせんそうしつ)家元が千家4代仙叟宗室居士300年還忌を記念して先祖の供養のため、平成9年(1997)年4月21日に小松市へ寄贈された。

京都の北山杉を用いた木造瓦葺平屋建数寄屋造りで、家元が自らが「仙叟好み」の趣を現代風に設計しました。

茶庭は、9つの景石を配して仏教の「九山八海」を表し、野点もできるよう工夫がなされています。

■写真は仙叟屋敷門





■写真は座敷で係員の説明を聞く



□千仙叟宗室

裏千家初代・仙叟宗室は慶応4年(1651)に、加賀藩元三代藩主・前田利常公に茶堂として仕え、城中三の丸に屋敷を賜り名を玄室から宗室に改めた。

そして、利家公が万治元年(1658)亡くなるまで、小松に在って利家公の文治政策を助け、家臣はもとより町人に至るまで、広く茶の湯を指導して加賀藩の茶道発展の礎を築いた。

玄庵には、裏千家宗家の無色軒にある釘箱棚が写されている。また、路地にある蹲踞の手水鉢は、小松城内で使われていたと言われている。



■写真は座敷の床の間



■写真は座敷の障子紙の貼り方



■写真は控えの間



■写真は座敷欄間

(つづく)

前田利常公の足跡を訪ねて ①小松城祉

2017-02-14 04:47:36 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.947)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ①小松城祉

昨年10月1日に金沢観光ボランティアの会まいどさんの同期会、よるまっし16会の勉強会で「前田利常公の足跡を訪ねて」のテーマで小松市内、那谷寺ほかを巡りレポートします。
今年1月7日に補足取材した。

■写真は本丸石垣遺構



■写真は小松城縄張り図



1)小松城址の天守台

天正4年(1576)に加賀一向一揆方の若林長門守によって築かれたといわれ、織田信長の武将柴田勝家により攻められ、村上氏、丹羽氏が城主となった。江戸時代になると加賀藩領となるが、元和元年(1615)に一国一城令で廃城となる。

寛永16年(1639)、2代藩主前田利常の隠居城という名目で再築、しかし大規模な水堀を廻らし、築島を配するという新城建設に似た大規模なものとなった。完成した城域は金沢城の約2倍の規模を誇る。利常の死後は加賀藩金沢城の支城となり、城番により統治され、明治維新を迎え、明治5年(1872)廃城となる。



小松城の縄張りは本丸、二の丸を堀で囲み、その周囲に三の丸、枇杷島、中土居、芦島の四郭、さらにその周囲に牧島、愛宕、後三の丸、竹島など六郭を巡らせ、巨大な湖沼に浮かぶ12の島を石橋、木橋で連結した全国でも珍しい「浮き城」だった。

本丸には天守台が築かれ、天守の代用として御三階櫓が築かれた。

■写真は天守台



■写真は天守台と石垣遺構の図



■写真は小松城縄張りを現在地図に合わせたもの





■写真は小松高校校庭の本丸碑と正門

(つづく)

冬の金沢 その21 深雪の兼六園②

2017-02-13 04:17:48 | 日記


金沢の観光スポットレポート その627(No.945)

◇冬の金沢 その21 深雪の兼六園②

1月21日より28日までの寒波で金沢市内も25日には約15Cm位ぐら
の、この冬一番いの積雪になった。

■写真は木橋付近で台湾観光客の子どもが雪だるま作り



■写真は内橋亭からことじ灯籠方面



■写真は唐崎の松



■写真は雪おろしをする係員



■写真は月見灯籠



■写真はことじ灯籠



■写真は長谷坂



■写真は瓢池





■写真は金澤神社

(撮影:2017.1.25)

(雪の金沢 完)

冬の金沢 その20 深雪の兼六園①

2017-02-12 04:19:04 | 日記


金沢の観光スポットレポート その626(No.944)

◇冬の金沢 その20 深雪の兼六園①

1月21日より28日までの寒波で金沢市内も25日には約15Cm位ぐら
の、この冬一番いの積雪になった。











■写真は山﨑山

○蓮華寺型灯籠(れんげじがたとうろう)

鶺鴒島の上流、曲水のほとりに立つ、園内唯一の蓮華寺型灯籠。高さは1
メートル90センチ。笠の背が高いのが特徴。石質は、笠が御影石、火袋
は越前石、中台は青戸室石とそれぞれ異なっている。笠裏には「たるき」
がつけられ、蕨手にあたる部分の先端に6個、中台の各面には3個ずつ定
紋模様があるなど、技巧が凝らされた灯籠である。



薦かけしているので、下記のページで見ていただきましょう!!

□蓮花寺灯籠の紹介ページ

■写真は蓮花寺灯籠



■写真は花見橋



■写真は成巽閣



■写真は木橋方面からの千歳橋

(撮影:2017.1.25)

(つづく)

冬の金沢 その19 21世紀美術館

2017-02-10 04:22:02 | 日記


金沢の観光スポットレポート その625(No.943)

◇冬の金沢 その19 21世紀美術館

○21世紀美術館

2004年10月9日にオープンしたガラス張りの円形美術館。金沢市の中心に
位置しています。「まちに開かれた公園のような美術館」を建築コンセ
プトとし、誰もがいつでも立ち寄ることができ、様々な出会いの「場」と
なるような美術館を目指しています。





■写真は21世紀美術館外景



21世紀美術館の敷地内には松涛庵、山宇亭・腰掛待合のいずれも加賀藩
ゆかりの茶室があり、通常一般公開しています。入場料無料







■写真は松涛庵と庭



■写真は山宇亭





■写真は昨年末完成の「まる」



■写真は「まる」に写った筆者

(撮影:2017.1.25)

(つづく)

冬の金沢 その18 金沢市内

2017-02-09 05:14:44 | 日記


金沢の観光スポットレポート その624(No.942)

◇冬の金沢 その18 金沢市内

○寒ブリ
ブリは出世魚として、小さいものからフクラギ、ガンド、ブリと呼ぶ。
ブリはまるごとなかなか見れないが、切り身は売っている。



■写真は近江町市場のフクラギ、ガンド



■写真は懐石つる幸



○金沢市立玉川図書館概要

本館は昭和53年(1978)竣工。設計は谷口・五井設計共同体で、谷口
吉郎が総合監修、その息子の谷口吉生が設計を担当している。旧専売公
社金沢工場の建物に現代建築を融合させた建物が特色。

別館として近世史料館を併設する。谷口吉郎・吉生父子の共同作品はこ
の建物が最初で最後である。

■写真は玉川図書館本館





別館(旧専売公社工場)は「金沢煙草製造所」として大正2年(1913)
に完成。赤レンガ造り・2階建・全長280mの回廊式の建物で、旧石川
県庁舎や国会議事堂などの設計を手掛けた矢橋賢吉の設計による。昭和
47年(1972)移転のため昭和54年(1979)に玉川図書館として活用。
平成8年(1996)に登録有形文化財に登録された。





■写真は玉川図書館別館

(つづく)