小松市の観光スポットレポート(No.957)
◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑨那谷寺―1
12)那谷寺(なたでら)
那谷寺は高野山真言宗別格本山。寺伝によれば、養老元年(717)泰澄法師が岩屋寺(現那谷寺)に千手観音を安置したのが始まりとされる。
その後寛和2年(986)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求る観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名。
■写真は山門
南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃した。近世に入って加賀藩三代藩主前田利常公が寛永12年(1642)に不動院本坊を庫裏・書院として再建。同時に庫裏庭園を築造。この時の大工は気多大社拝殿を建てた山上善右衛門で、本殿、唐門、拝殿、三十塔、護摩堂、鐘楼堂、庭園などを造営した。
前田利常は、江沼郡の大半を支藩の大聖寺藩に分置したが、この那谷寺がある那谷村付近は自身の隠居領としたため、その死後も加賀藩領となった。
■写真は境内図
元禄2年(1689)奥の細道の松尾芭蕉は弟子の河合曾良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、奇岩霊石がそそりたつ遊仙境の岩肌を臨み句を詠んでいる。
■写真は金堂華王殿
□書院及び庫裏
書院は、室町時代末期に起こった天正の戦乱で、諸堂伽藍が焼失したのち仮御堂として建てられたもので、寛永14年(1637)に前田利常が書院として再建、自ら指揮を執ったと言われています。武家書院造りで一間ごとに柱が入り、特に玄関は珍しく土天井であるなど、他の書院造りでは見られない特徴が随所で見られる。御成間、琴の間、4畳、8畳の2室、10畳の鞘の間、床棚などからなり、一重で屋根は入母屋造でした。
昭和28年(1953)に国指定重要文化財に指定
■写真は書院
■写真は前田利家公お成りの間
■写真は知見庵
■写真は書院庭園
□三尊石・琉美園
書院奥に広がる庭園・琉美園の池中央に立つ自然の岩面は三つに分けれ三尊石と呼ばれている。岩面の裂けて姿が阿弥陀三尊のご来迎に似ていることから名付けられた。
□那谷寺ホームページ
■写真は三尊石
■写真は琉美園茶室
■写真は金堂華王殿の十一面千手観世音菩薩
(つづく)