植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

富山県南砺市井波「瑞泉寺」③

2014-10-31 04:24:57 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる(No.510)

◇富山県南砺市井波「瑞泉寺」③

今回は金沢ボランティアガイド「まいどさん」の同期生
グループ「よるまっし16会」で加賀藩のゆかりの地南
砺市の井波、五箇山を訪ねた。

■写真は太子堂



弘化4年(1847)に上棟式を挙げた太子堂も明治12年
に焼失し、その再建は5代目松井角平が引き継ぎ、大正
7年(1911)に完成させます。
向拝の木鼻・手挟など等をはじめ多くの彫刻は田村(岩
倉)理七など井波の彫刻師たちの力強い作品です。

■写真は本堂から渡り廊下の太子堂





■写真は太子堂正面屋根裏の彫刻



■写真は太子堂の仏殿



■写真は宝物殿



■写真は宝物殿の阿弥陀如来



■写真は勅使門



■写真は勅使門獅子の子落とし彫刻

□瑞泉寺ホームページ
http://www.geocities.jp/inamibetuinzuisenji/

(完 撮影2014.10.11)

富山県南砺市井波「瑞泉寺」②

2014-10-30 04:33:00 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる(No.509)

◇富山県南砺市井波「瑞泉寺」②

今回は金沢ボランティアガイド「まいどさん」の同期生
グループ「よるまっし16会」で加賀藩のゆかりの地南
砺市の井波、五箇山を訪ねた。

■写真は瑞泉会館



■写真は本堂(昨年修復)



現在の本堂は、明治18年(1885)に再建されたもので、
北陸地方の真宗木造建築の寺院としては、一番大きな建
物です。棟梁は井波大工の松井角平恒広で、他の大工、
井波の彫刻師が中心となって完成しました。

■写真は本殿玄関の彫刻



本堂正面の唐狭間(欄間)の彫刻はまさに浄土の荘厳を
描写する「阿弥陀経」にも登場し、仏の声にたとえられ、
比べようのない美声持ち、お浄土そのものを示すという、
迦陵頻伽の姿があります。しかしながら、正面階段上の
向拝手挟の彫刻などについては、アジア太平洋戦争後の
ものもあるといわれます。

■写真は本殿



■写真は本殿の彫刻



■写真は仏殿

(つづく)

富山県南砺市井波「瑞泉寺」①

2014-10-27 04:35:11 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる(No.508)

◇富山県南砺市井波「瑞泉寺」①

今回は金沢ボランティアガイド「まいどさん」の同期生
グループ「よるまっし16会」で加賀藩のゆかりの地南
砺市の井波、五箇山を訪ねた。

◇真宗大谷派井波別院瑞泉寺

井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390)本願寺5代綽如上
人によって開かれました。この寺は、北陸の浄土真宗信
仰の中心として多くの信者を集め、大きな勢力を持って
いましたが、16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼
き払われてしまいました。兵火を逃れて城端北野に移っ
た後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。

■写真は高岡口の石垣





井波彫刻発祥の地とされ、山門や太子堂などに秀作逸品
が今も残る。

■写真は山門全景



■写真は山門の龍彫刻



山門は、天明5年(1785)、京都の大工によって建て始
められましたが、京都本願寺の再建工事が始まったため、
井波大工がその後を引き継ぎ完成しました。山門正面の
梁の龍は、京都の彫刻師前川三四郎によって彫られたも
ので、明治12年(1879)、瑞泉寺大火のとき、近くの
傘松に登って水を吐いたので山門が焼け残ったという言
い伝えがあります。また、正面中央の精ちな彫刻の多く
が井波大工の力作で、井波彫刻の基となったものです。
この山門は、県重要文化財に指定されています。

■写真は山門正面



■写真は山門本堂側



■写真は山門本堂側の焼け跡

(つづく)

富山県南砺市井波街並み②

2014-10-25 04:29:05 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる(No.507)

◇富山県南砺市井波街並み②

今回は金沢ボランティアガイド「まいどさん」の同期生
グループ「よるまっし16会」で加賀藩のゆかりの地南
砺市の井波、五箇山を訪ねた。

■写真は瑞泉寺から見た街並み(八日町通り)



井波彫刻の歴史は宝暦13年(1763)大火で焼失した瑞
泉寺再建の際、京都本願寺彫刻師・前川三四郎が派遣さ
れ、地元の大工がその技を習得したことに始まります。
楠や欅、桐など上質な天然木を材料に、欄間や衝立、獅
子頭、天神様などに代表される木彫は、荒削りから仕上
げまで200本以上のノミ、彫刻刀を駆使する高度な技
であり、国の伝統的工芸品に指定されている。

■写真は街燈柱のモニュメント



■写真は彫刻店舗





■写真は木彫蝦夷屋



■写真は蕎麦屋

(つづく)

富山県南砺市井波街並み①

2014-10-23 04:22:24 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる(No.506)

◇富山県南砺市井波街並み①

今回は金沢ボランティアガイド「まいどさん」の同期生
グループ「よるまっし16会」で加賀藩のゆかりの地南
砺市の井波、五箇山を訪ねた。

■写真は南砺市地図



藩政時代は富山県の現富山市の一部を除き加賀藩であっ
た。今回は金沢市とも近い南砺市井波の街並み、瑞泉寺。
五箇山を探索した。
現在でも富山県西部は金沢市の市場圏とつながりも深い。

■写真は北陸3県地図



■写真は観光駐車場



■写真は彫刻のモニュメント



■写真は酒屋の看板



■写真は各お店のご主人の干支看板

(つづく)

新幹線開業に向け進化するJR金沢駅

2014-10-21 04:49:44 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その317(No.505)

◇新幹線開業に向け進化するJR金沢駅

JR金沢駅は2015年3月14日(土)北陸新幹線
開業に向けて、あらゆるところを改装している。
西口の整備は完了。今は新幹線プラットホームやコン
コース、駅全体や付帯する百番街店舗、もてなしドー
ムなどを整備して開業を迎えようとしている。

■写真は東口もてなしドーム(14.9.13ジャズストリート)



■写真は東口鼓門



■写真は工事用新幹線間仕切り



■写真はカウントダウンディスプレー



■写真は駅構内完成図



■写真は西口全景



■写真は西口屋根



■写真は西口柱の金箔

東内惣構(そうがまえ)跡巡り

2014-10-17 04:25:12 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その316(No.504)

◇東内惣構(そうがまえ)跡巡り 

■写真は金沢城惣構跡全図



□高山右近
高山右近(たかやまうこん)は、戦国時代から江戸時代
初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名と
して知られる。
父は摂津国人高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津
国人の中川清秀は従兄弟とされる。

天正15年(1587)豊臣秀吉公がキリシタン禁止令を下
し、右近に棄教を迫りますが、右近は領地を捨て、追放
を選び淡路島から小豆島に隠れ住みますが、翌年、秀吉
公は、家康か利家のどちらかなら、仕えてもよいという
ことから、右近は、利家公の招きにより加賀預かりとな
り金沢に住むようになり、藩政初期前田家の客将として
26年間(36歳~62歳)金沢で過ごした。

(市民が見つける金沢再発見の会より)

■写真は高山右近像



□東内惣構跡コース(十一町三十間・1.26キロ)

浅野川橋~新橋~唐木橋~寺島蔵人邸西側~味噌蔵町~
北鉄バス駐車場北堀下~味噌蔵小学校~小将町中学校~
小尻谷

■写真は東内惣構跡図



■写真は浅野川排水口



■写真は主計町遺構



■写真は唐木橋



■写真は味噌蔵消防署横遺構



■写真は味噌蔵町小学校横遺構



■写真は小将町中学校遺構



■写真は地蔵橋子安地蔵

(西・東内惣構跡巡り完 撮影2014.9.13)

西内惣構(そうがまえ)跡巡り ②

2014-10-15 04:51:17 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その317(No.503)

◇西内惣構(そうがまえ)跡巡り ②

金沢観光ボランティアガイド「まいどさん」同期生「よ
るまっし16」9月例会は内西惣構跡、内東惣構跡を巡
った。

■写真は西内惣構全図



□西内惣構跡コース(十四町五十間・1.5キロ)

金谷御門~金谷出丸~不明門前~西町~青草町の東側~
下近江町~袋町~彦三四番町~母衣町~旧NTT病院裏
~主計町

■写真は彦三遺構碑



■写真は旧NTT病院裏遺構



■写真は西内惣構図2



■写真は主計町くらがり坂





■写真は主計町緑地の遺構

(東内惣構跡につづく)

西内惣構(そうがまえ)跡巡り ①

2014-10-13 04:31:18 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その316(No.502)

◇西内惣構(そうがまえ)跡巡り ①

金沢観光ボランティアガイド「まいどさん」同期生「よ
るまっし16」9月例会は内西惣構跡、内東惣構跡を巡
った。

■写真は惣構元和期全図(1615~24)



慶長4年(1599)前田利家の死後、2代藩主利長は金沢
城に帰城するが、徳川家康に謀反の疑惑をかけられる。
横山長知を弁明に向かわせた結果、母芳春院を江戸に下
向させることによって危機を回避した。
一方では、徳川との戦いを想定し、高山右近に命じて惣
構を築造させた。右近は工区を細分化して、担当の藩士
に責任を持たせることによって、わずか27日で完成さ
せたという。

■写真は惣構一部絵図石浦神社蔵(寛永8年1632)



■写真は金谷門



■写真は西内惣構図1



■写真は金谷門前でのメンバー



■写真は尾山神社ど土居



■写真は尾山神社山門下の遺構

(つづく)

泉鏡花記念館訪問②

2014-10-09 04:50:24 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その315(No.500)

◇泉鏡花記念館訪問②

最初に別室で穴倉玉日(たまき)学芸員より泉鏡花の生
い立ちから作品内容などの説明を約1時間聞き、その後
館内の説明を聴いた。館内見学後質疑応答があり、穴倉
さんの鏡花の情報の多さに感心した。

■写真は講義を聴く参加者



■写真は穴倉学芸員







■写真は館内の説明を聞く参加者3

当館では12月7日まで大人気の耽美浮世絵師とも評さ
れる山本タカト氏の第一弾「草迷宮」展が開催されてお
り全国からの訪館で、入館者記録更新しているとのこと。



■写真は山本タカト特別展 

泉鏡花記念館ホームページ
http://www.kanazawa-museum.jp/kyoka/kyoka/

(完)


泉鏡花記念館訪問①

2014-10-06 04:31:14 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その314(No.499)

◇泉鏡花記念館訪問①

9月18日(木)に金沢「PHPほんとうの時代友の会」
年1回金沢の観光施設勉強会を開催した。

泉鏡花記念館は平成11年にオープンし9月6日で会館
15周年を迎え、記念行事として”泉鏡花X山本タカト
「草迷宮」展を12月7日(日)まで開催している。



■写真は玄関



■写真は記念館展示館



■写真は玄関左横の鏡花親子像

□泉鏡花略歴

泉鏡花(いずみ きょうか)明治6年(1873)11月4日
生まれ、昭和14年(1939)9月7日没)は、明治後期
から昭和初期にかけて活躍した小説家。戯曲や俳句も手が
けた。本名、鏡太郎(きょうたろう)。金沢市下新町生れ。

明治24年(1891)作家をめざし上京し尾崎紅葉に師事。
ロマン主義の大家として知られるがその作新の多くは亡母
憧憬と呼ばれる。9歳の年に亡くした母への思いを源泉と
する。
「夜行巡査」「外科室」で評価を得、代表作は「高野聖」
「春昼」「婦系図」「草迷宮」「天守物語」など。



■写真は泉鏡花



■写真は最近の泉鏡花記念館記事(北国新聞)

(つづく)

霊峰白山日帰り登山2014④完 お池めぐり2(No498)

2014-10-03 04:49:04 | 日記


霊峰白山日帰り登山2014④完 お池めぐり2(No498)

■写真は④血ノ池

五色池、百姓池は非常に小さく、2つ並んでいる特に百姓池
はよく見ないと見落としてしまうくらいだ。



■写真は⑤五色池



■写真は⑥百姓池



◇千蛇ヶ池の伝説
越前の僧、泰澄(たいちょう)が白山を開いたころ(開山
は養老元年717年)、多くの毒蛇がいて山を登る人々に害
を加えていました。大師は千匹の蛇をさとしてこの池に閉
じ込めたところ、はげしい雪が降り続き、とけることのな
い万年雪となり池にふたをしてしましました。

この池は、白山で唯一多年性雪渓であり、水面全体が現れ
ることはごくまれです。それは、深いきぼ地に多量の雪が
積もるためで、8月でも厚い部分は10mを超える雪があ
ると言われています。

■写真は⑦千蛇ヶ池









■写真はお池めぐりの花々

(完 撮影2014.9.15)

霊峰白山日帰り登山2014③ お池めぐり1(No497)

2014-10-01 04:30:35 | 日記


霊峰白山日帰り登山2014③ お池めぐり1(No497)

■写真はお池めぐり図



■写真は白山の生い立ち



◇翠ヶ池の誕生
翠ヶ池は白山火山の代表的な火山湖で、約695年前(1042)
におきた水蒸気爆発によってできたと考えられています。

古文書がこのきっかけになりました。「白山記にはこう記
されています・・・・・ある夜、山頂に2人の童子が現れ
て、土石をなげて室を埋めた。その時、土石を掘った跡が
2か所あり、その一つが翠ヶ池である。・・・・」

■写真は御宝庫からの①紺屋ヶ池



■写真は②翠ヶ池



■写真は大汝峰からの翠ヶ池



■写真は③油ヶ池



大汝峰のすそから血の池付近にかけては、今までと異なっ
た光景が見られます。白っぽい火山灰や小礫の間に青灰色
の巨岩が散在しています。これらが火砕流の堆積物と呼ば
れるものです。1554年に始まった噴火により、翠ヶ池から
大小の岩塊や火山灰が火山ガスと共に斜面をなだれのよう
に流れて堆積したと考えられています。

■写真は血ノ池方面から見る岩々

(つづく)