植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

◇国史跡 「鳥越城跡 附(つけたり)二曲城跡」①

2020-10-29 04:20:18 | 金沢・石川の観光


いしかわの観光スポットレポート(No.1907)

◇国史跡 「鳥越城跡 附(つけたり)二曲城跡」①



〇鳥越城(とりごえじょう)

 鳥越城は、石川県白山市三坂町(旧鳥越村)にある中世の日本の城(山城)跡。大日川を挟んだ対岸に位置する二曲城とともに国の史跡に指定されている。



 手取川と大日川の合流点に位置する丘陵先端部を利用して築かれており、標高は主郭部で312mある。面積は東西400m、南北1,200mにおよび、頂上を中心とした七か所の主要な郭で構成される。
 郭は、本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸などと名付けられ、空堀や土塁を挟んで尾根筋を巧みに利用して配置されていて、それを腰郭が囲む。

■写真は鳥越城、二曲城の地図と鳥越城登山口



■写真は鳥越城郭図





■写真は枡形門、本丸門

〇鳥越城歴史

 白山麓山内惣庄の旗本鈴木出羽守を城主とし、天正初年(1573年)頃、織田信長による加賀一向一揆討滅の経路がはかられる中で、門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として築城されたもの。
 天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。その後この城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。
 天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。







■写真は鳥越城本丸跡



■写真は望楼台跡



■写真は中の丸門



■写真は休憩館





■写真は本丸から見る鳥越(上野町、三坂町)

撮影日:2020.9.23

(つづく)

◇金沢城公園「鶴丸倉庫公開」

2020-10-27 04:20:56 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1904)

◇金沢城公園「鶴丸倉庫公開」(ユーチューブ連動解説版)

〇金沢城公園概況

金沢城の歴史は加賀一向一揆で支配権を握った本願寺が、天文15年(1546)に金沢御堂(尾山御坊)を建てた地に、天正8年(1580)佐久間盛政が築城を開始、天正11年(1583)加賀初代藩主前田利家が能登から入城し、本格的に城造りがなされた。慶長7年(1602)に天守が落雷による火災により焼失し、その後は江戸幕府への遠慮から再建されなかった。
金沢城は、金沢市の市街地に位置し、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に立地する平山城で、規模は東西500m、南北760m、面積約30haである。



〇鶴丸倉庫概要

弘化5年(1848)正月に加賀藩の大工、山本勝左衛門によって建て替えられた武具土蔵で、石川門、三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の一つ。「東御丸附壇御武具土蔵ともいう。土蔵造りなので屋根は荒壁塗りの上に屋根がのる二重屋根構造。

総二階の延床面積約636m2(下屋除)で、全国の城郭内土蔵の中でも最大級であり、腰の笏谷平石貼りや窓回りなど意匠的にも優れた遺構として、平成20年(2008)国の重要文化財に指定。

明治以降、軍隊の被服宗箇などとして利用・修理されているが、基本構造は創建時のままである。





■写真は意匠的にも優れた外観



■写真は一階









■写真は二階







■写真は外観

(つづく)


□ユーチューブ 金沢城公園「鶴丸倉庫公開2020」


◇金沢城公園「三十間長屋公開」

2020-10-25 04:37:36 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1903)

◇金沢城公園「三十間長屋公開」(ユーチューブ連動解説版)

〇金沢城公園概況

金沢城の歴史は加賀一向一揆で支配権を握った本願寺が、天文15年(1546)
に金沢御堂(尾山御坊)を建てた地に、天正8年(1580)佐久間盛政が築城を開始、
天正11年(1583)加賀初代藩主前田利家が能登から入城し、本格的に城造りがなされた。
慶長7年(1602)に天守が落雷による火災により焼失し、その後は江戸幕府へ
の遠慮から再建されなかった。
金沢城は、金沢市の市街地に位置し、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端
に立地する平山城で、規模は東西500m、南北760m、面積約30haである。



〇三十間長屋概要

金沢城跡本丸附壇にある三十間長屋は、幅3間、長さ36.5間余の2階建の土蔵で、屋根は南面入母屋造り、鉛瓦葺、白壁の腰に海鼠瓦を貼って石垣の上に建つのは、石川門と同様であり、二階の腰にも鉛瓦葺の庇を付けている。

■写真は



背面には出窓を3ヶ所設けているが、中央の出窓は基礎石積みの上にのり、屋根は入母屋造り。両脇の出窓は、石川門の出窓と同じ唐破風の屋根にしている。
安政5年(1858に再建されたもので、もとは軍備倉の堅固な造りで、千飯が貯えられていたというが、後に鉄砲蔵とも呼んだらしい。現存する金沢城の遺構は石川門ならび、貴重な建造物である。 昭和32年(1957)国の重要文化財に指定された。





■写真は二階





■写真は一階中央階段と張出し(左側)



■写真は張出しからの玉泉院丸







■写真は背面の唐破風の石落しと張出し

〇背面石垣は、切り石積みで「金場取り残し積」亀甲石。(中央右)



■写真は玉泉院側の石垣

(つづく)


□ユーチューブ金沢城公園「三十間長屋公開」

◇金沢の秋2020 九谷ダムサイクリング

2020-10-23 05:31:32 | 金沢・石川の観光


いしかわの観光スポットレポート(No.1902)

◇いしかわの秋2020 九谷ダムサイクリング

9月23日トンデモクラブ、秋のツールドカガサイクリングに参加した。サイクルショップカガ~道の駅「なかうみ」~九谷ダム~県民の森~道の駅「なかうみ」~サイクルショップカガを回るコースであったが、私は距離と山に自信がなく九谷ダムで折り返した。距離71キロ



■写真は富士写ヶ岳(941.7m)







■写真は九谷ダムの参加者







■写真はこおろぎ橋





■写真は山中温泉総湯と山中座







■写真は農家生水ジャパンファーム(小松市那谷町)

(つづく)

◇金沢の秋2020 尾張町巡り1②

2020-10-21 05:13:32 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1901)

◇金沢の秋2020 尾張町巡り1②

〇尾張町の由来

町名の由来は①尾張荒子から前田利家に従って移住した足軽・小者がここに居住した。②利家の金沢入城後尾張荒子から呼び寄せた御用商人の居住地の説がある。寛永12年(1635)頃まではもっと南側の城に近い大手町寄りにあったが、同年の大火後は城から離れた現在の地に移転したもの。江戸期は米仲買商を中心に各種の店舗が71軒並び、金沢経済の中心地であった。文化8年(1811)には米仲買13・道具商10など多くの種類の商店が並んでいた。



〇三田商店

旧三田商店は、昭和5年(1930)建築の鉄筋コンクリート造2階建ての建物。
建物は立方体に近いプロポーションの単純な形態で、外壁にチョコレート
・ブラウンのスクラッチ・タイルを貼っている。交差点に面する角を丸め
て正面玄関を設け、1階ではアカンサスを頂く付柱のコリント式柱頭やび
ん飾りを配し、玄関欄間にはステンド・グラスを入れている。

■写真は三田商店



〇金沢蓄音機館

金沢蓄音器館には、約600台、常時150台を展示。SPレコードも3万枚を収蔵を超える。 エジソン社製の蝋管式蓄音器や縦振動式のほか、有名蓄音器でSP盤の音色を楽しむ解説付き実演は必聴。
月に数回、テーマ別SP盤鑑賞会やピアノ演奏会も開催。日曜日には紙ロールによりピアニストの指使いを再現して演奏する1927年米国製のピアノの公開もある。





■写真は金沢蓄音機館



〇泉鏡花記念館
明治半ばから創作活動を始め、大正、昭和にかけて、多くの作品を生み出した泉鏡花は、やがて文豪とたたえられた。
泉鏡花記念館は、泉鏡花の生家跡(生家は明治時代の火事により焼失)に建つ木造二階建てと土蔵三棟からなる建物を改修して整備されたもの。
鏡花が生まれ育った当時の街並みの面影を色濃く残す地域にあり、浅野川、主計町茶屋街、ひがし茶屋街と隣接している。





■写真は泉鏡花記念館





■写真は佃の佃煮



〇久保市乙剣宮

風格ある商家の町並みが残る尾張町に鎮座し、金沢における市場発祥の
地とされる由緒ある神社。境内を抜けて主計町茶屋街へと通じる石段の
坂道は「暗がり坂」と呼ばれ、観光スポットとして有名。
境内には鏡花ゆかりの神社として、彼が詠んだ句碑が建立されている。



■写真は久保市乙剣宮

□尾張町紹介ページ

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ①

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ②

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ③

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ④

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ⑤

(つづく)

◇金沢の秋2020 尾張町巡り1①

2020-10-19 04:25:55 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1900)

◇金沢の秋2020 尾張町巡り1①

〇尾張町の由来

町名の由来は①尾張荒子から前田利家に従って移住した足軽・小者がここに居住した。②利家の金沢入城後尾張荒子から呼び寄せた御用商人の居住地の説がある。
寛永12年(1635)頃まではもっと南側の城に近い大手町寄りにあったが、同年の大火後は城から離れた現在の地に移転したもの。
江戸期は米仲買商を中心に各種の店舗が71軒並び、金沢経済の中心地であった。文化8年(1811)には米仲買13・道具商10など多くの種類の商店が並んでいた。

■写真は味噌の中六屋



■写真は不室屋本店



〇尾張町民文化館

明治40年(1907)に建てられた銀行を活用。外観は黒しっくい仕上げの土蔵造りの和風だが、内部は白しっくい仕上げで銀行らしい洋風の空間となっている。当時の面影を残す旧窓口や旧頭取室も見どころです。石川県有形文化財に指定。



■写真は尾張町民文化館



〇尾張町老舗交流館

旧商家を復元した大正浪漫の建物。尾張町無線LANシステムの中核としてITがさりげなく設置されている。代々引き継がれ、積み重ねられて来た加賀・金沢に伝わる老舗の歴史的資産と「こころ粋」を活用した情報発信。

■写真は尾張町老舗交流館



〇石黒薬局(福久屋石黒傳六商店)

尾張町の建物の中でも、最も古いものの一つ石黒薬局。江戸末期に建てられた老舗の薬局で現在も営業中。福久屋石黒傳六商店(ふくひさやいしぐろでんろくしょうてん)は、薬種業を営んでいた石黒傳六の店舗兼住宅。



■写真は石黒薬局



〇黒田香舗(線香、蝋燭)

尾張町の町屋建築の続きです。創業寛永3年(1626)で、加賀藩前田家に仕えたという老舗の黒田永一商店。現在も現役で、和漢薬、お香や蝋燭(ろうそく)を販売している。店舗と住宅を兼ねた木造2階建て。

■写真は黒田香舗



〇四知堂KANAZAWA(森忠商店)
「四知堂(スーチータン) kanazawa」は、市内でアンティークショップなどを営む塚本美樹さん(44)が手掛ける。全面オープンは今年10月以降で、店の奥を台湾の創作料理を楽しめるレストラン。
森忠商店は天保13年(1842)創業の建物は大正12年(1923)建築で望楼着付きの屋根。
江戸時代には伊能忠敬が宿泊した住吉屋の場所。





■写真は四知堂KANAZAWA(森忠商店)

□尾張町紹介ページ

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ①

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ②

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ③

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ④

金沢名建築物巡り 尾張町界隈 ⑤

(つづく)

金沢のグルメレポート「Ciel Bieu Kichen(シエルブルーキッチン)」 

2020-10-17 04:30:47 | 金沢・石川の観光


◇金沢のグルメレポート「Ciel Bieu Kichen(シエルブルーキッチン)」(No.1900)
  
4月大乗寺丘陵公園の近くにオープンした「ciel bleu kitchen (シエルブルーキッチン)」に一度行きましたが、定休日で、ようやく訪れました。



ホテルでのシェフ経験を持つ店主が奥様と二人で営む、カジュアルフレンチのお店で、こだわりのインテリアと高低差のある手作りガーデンが雰囲気を醸し出し、オーナシェフのおいしい料理が楽しめます。





今回は、午後2時ごろで、紅茶(ダージリン)とデザートセット(パスタチーズケイキ、フルーツ、アイス)をいただきました(価格770円)。ウオーキング途中しばらくの休憩。今度はぜひランチに挑戦します。
店名「ciel bleu(シエルフ゛ルー)」の由来はフランス語で「青い空」。

■写真は落ち着いた室内





店 名:ciel bleu kitchen(シエルブルーキッチン)
住 所:金沢市山科1-26-12 山科ガーデン101
営業時間:11:00~14:00、14:00~16:00、17:30~22:00
定休日:日曜ディナー、月曜

■写真は紅茶(ダージリン)デザートセット







■写真は室内からのガーデン







■写真はガーデン



■写真は外の門にあるシーサー

□公式シエルブルーキッチンinstagram


□シエルブルーキッチンfacebook

(つづく)

金沢の秋2020 主計町巡り2020

2020-10-15 09:29:10 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1899)

◇金沢の秋2020 主計町巡り2020(ユーチューブ連動解説版)

〇主計町概要

1869年(明治2)に開かれた茶屋街。ひがし・にしともに、大店の旦那衆の社交の場として栄えた。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定。浅野川大橋から中の橋までの浅野川南岸に、美しい格子戸の料亭が立ち並んでいる。五木寛之の小説にも出てくるなべ・割烹太郎がある。現在4軒(仲乃屋、一葉、まゆ月、えんや)の茶屋が営業しており、9名の芸妓さんが所属している。(2020.9現在)

■写真は浅野川沿い主計町の桜(2020.4)



〇くらがり坂

久保市乙剣宮より主計町に通じる小路を指し、日中も
日の当たらない暗い坂道なので、この名で呼ばれてい
る。かつて茶屋街がはなやかなころ、旦那衆が人目を
避けてこの坂を抜け、主計(かずえ)町やひがし茶屋
街の茶屋に通った。作家の泉鏡花もよく通ったと言わ
れている。

■写真はくらがり坂



〇主計町事務所

「検番」と呼ばれる主計町の芸鼓衆の稽古場。昔、茶屋街の芸妓さんの技量を審査した場所。

■写真は主計町事務所



■写真は西内惣構堀(遺構)



〇中の橋

浅野川大橋の下流にある、白木作りの歩行者専用の橋。
昔は、橋を渡るごとに一文支払ったことから、別名
「一文橋」とも言われた。

■写真は中の橋



■写真は仲乃屋



〇旅館木津屋

主計町にひっそりと佇む木津屋旅館。浅野川のせせらぎを
聞きながら夜の金沢を心ゆくまで楽しんでみたい、そんな
方にピッタリのお宿です。

■写真は旅館木津屋



〇なべ 太郎

主計町で60余年の歴史を刻む、鍋の太郎。秘伝のだしに日本海の新鮮魚貝や地場野菜がとけ込む寄せ鍋は、まさに絶品の美味。鍋の後で楽しむおじやや太郎のきび餅も人気です。五木寛之の小説にも出てくる。

◎五木寛之の小説「金沢望郷歌」の一部
約束の時間は6時だった。私(主人公冬木)は道路を横切って森八本舗の脇の路地をぬけ、銀杏の黄葉がびっしり地面におおている神社の境内から石段を降りた(くらがり坂)。薄暗い横町には、なにか懐かしい匂いが漂っている。主計町の検番の前から小
路を曲がり、川沿いの通りへ出ると<次郎>はすぐ目の前だった。
遠野が指定したのは、古いほうの<次郎>で二階にいくつかの座敷があるだけの昔ながらの鍋の店である。・・・・・・
この<次郎>こそ太郎である。

なべ・割烹太郎のホームページ

■写真はなべ 太郎



〇浅野川大橋

美しいアーチ型が大正ロマンを伝える浅野川大橋は、歴史的な価値を有するとして国の登録有形文化財に指定され、金沢らしさを象徴する地域のシンボルとして多くの人に親しまれている。

■写真は浅野川大橋



〇臨川山 源法院

弘法大師霊場で、本山は高野山。臨川山源法院のご本尊は「不動明王」観音様は「千手観世音菩薩」で第二十六番札所。源法院は、約1,200年も前の大昔、弘法大師によって建て
られたという伝説のお寺。明治に編集された「皇国地誌」には、“元和3年(1617)僧長浪開基建立す”と書かれているそうですから「再興」されたものか、はたまた、弘法大師伝説は単なる言い伝えであるかは定かではありません。

■写真は臨川山 源法院



〇あかり坂

市民から、土地にゆかりのある作家、五木寛之氏に依頼があり、氏が、作品の中で登場人物に命名させる、という形でこの坂は名付けられた。

■写真はあかり坂

(つづく)


□ユーチューブ「金沢主計町巡り2020」

◇金沢の秋2020 尾山神社④

2020-10-13 04:43:07 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1898)

◇金沢の秋2020 尾山神社④



○神苑

神社の創建以前は金谷御殿の庭園だった所。1642年頃に造られた古代舞楽の楽器を模した池泉廻遊式庭園。昭和29年(1954)に市の指定名勝となっている。
池には3つの島(鳥兜(とりかぶと)島、琵琶島、鳳笙(ほうしょう)島)が浮かんでいる。江戸時代の作風を残し、沢渡りによって琵琶島に至り、ここから八ツ橋、琴橋、図月橋(とげつきょう)等によって鳥兜島を巡る趣向で、これらは雅楽器を象徴しており、「楽器の庭」ともいわれている。



神苑の水は、三代藩主利常公の命により完成した辰巳用水の水を高低差を利用して、兼六園から暗渠で導き、響遠瀑から落としていた。





■写真は神苑



〇尾山神社菊桜

国天然記念物「兼六園菊桜」折れた枝を接ぎ木して育てた木を2003年に境内に移植したもの。神門を入り本殿に向かって右側に2本ある。





■写真は尾山神社菊桜



〇授与所

平成27年秋に完成したばかりの新しい授与所。開放的なガラス張りのデザインで、施設内には、金沢城など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを
設置している。

■写真は授与所



〇境内のオブジェと歌碑

・拝殿の右脇には、蓮をあしらったオブジェがある。



・鼠多門橋のそばに芦田高子の「山くわの 白き十字の 花びらを うつすことなき 水のさわだち」歌碑がある。



■写真は境内のオブジェと芦田高子歌碑



○尾山神社 東神門(登録有形文化財)

旧金沢城の桃山風御殿様式だった二の丸にあった唐門。旧卯辰山招魂社前にあったものを昭和38年(1963)に境内に移築。1間1戸の向唐門で、屋根は桟瓦葺。主柱は円柱、控柱は角柱とし、両開き桟唐戸。総欅造で釘を1本も使わず、屋根は瓦と銅板で葺き。



■写真は東神門

(つづく)

◇金沢の秋2020 尾山神社③

2020-10-11 04:18:37 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1897)

◇金沢の秋2020 尾山神社③

○尾山神社 前田利家公銅像

加賀百万石を治めた利家の姿は凛々しく、天空に向けて槍を突き上げる若き姿は勇
ましい。利家は織田信長に仕え、生涯40近い戦に参戦した槍の名手で「槍の又左」という異名を持った。袋状の布を背負い、馬で駆けるとそれが風で膨らみ、背後からの流れ矢を防ぐ赤い武具「母衣(ほろ)」を纏った赤母衣衆で、ある程度の武将にならないと母衣は付けられなかった。

この銅像は、大河ドラマ『利家とまつ』の放映記念に造られたもの。利家は後に豊臣秀吉に服属し、柴田勝家に代わって北陸最大の大名となり、金沢城を居城とした。五大老として徳川家康と比肩する実力の持ち主でしたが、秀吉の死後、その8ヶ月後に利家も病死している。利家の死が豊臣氏の滅亡に決定的となる一因だったとも言われている。

■写真は前田利家公銅像



〇お松の方像

利家の正室で、学問や武芸をたしなむ才色兼備の女性だったと伝えられている。実母が利家の母の姉に当たり、利家とは従兄関係でもあり、利家亡き後、芳春院と号した。2男9女を産み、往時でも11人の実子がいるのは珍しかったようだ。

利家の危機を何度も救い、家康が天下をとってからは自らが人質となり、前田家のために奔走し続けた。長男利長が秀吉の死から江戸幕府成立に至る難局を苦渋の政治的な判断によって乗り越えて、加賀藩の礎を築いた背景には、お松の方の支えがあったと言っても過言ではない。

■写真はお松の方像



○金鯰尾兜(きんなまずおのかぶと)

境内では至る所に利家を記念する彫刻や置物を目にすることができる。利家が末森城の戦いで着用したとされる全身金箔押しの甲冑のうち、兜のみを複製したものです。甲冑の正式名称は「金小札白糸素懸威胴丸具足」と言い、実物は前田家が所蔵してる。霊力を持つと考えられていた「鯰の尾」をデザインしており、金沢市の特産品である金箔が施され、名前の通り「鯰の尾」のように縦長の形をした兜。

■写真は金鯰尾兜



〇摂社 金谷神社

二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)
をお祀りしている。







■写真は金谷神社



〇尾山神社本殿玉垣

尾山神社の玉垣は、全国でも珍しい「れんがの玉垣」で、鼠多門の完成に合わせ
耐震改修された。玉垣は本殿の両脇と背面を「コ」の字で囲んでいる。れんがは、長い辺だけが表に出る段と、短い辺だけの段を一段お気に積む「イギリス積み」。
玉垣は煉瓦造になっており、加賀梅鉢紋の透かしになっている。











■写真は本殿玉垣



■写真はれんが積の種類

(つづく)

◇金沢の秋2020 尾山神社②

2020-10-09 04:35:45 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1896)

◇金沢の秋2020 尾山神社②



○本殿

建造は古式に則った三間社流造(神社建築の様式で最も一般的とされる「流造」のうち、正面の柱が4本、柱間の間口が3間あるもの) で、簡素にして神厳に満ちた社殿。



■写真は本殿



○尾山神社 拝殿

黒瓦が鈍く光る瓦葺、入母屋造の純和風。鬼瓦には菊の
御紋が光り、旧別格官幣社(国家に功績のあった人を祀る神社で、国がそれを認め、
勅命で幣帛を奉献する格式の高い神社)であることを示している。



■写真は拝殿



〇拝殿扁額「歸厚」

第十三代斎泰公筆。論語「曾子曰く 終わりを慎み 遠きを追えば 民の徳 厚きに帰せん」訳)「亡くなった人を丁寧に弔い、遠き祖先を祭祀を怠ることがなければ、人民の徳は自ずと熱くなる」

■写真は拝殿扁額



〇拝殿格天井造

中央天井は格天井造で、3000年に1度しか咲かないと言われる伝説の花「優曇華(うどんげ)」が極彩色の岩絵具で描かれ、拝殿の見所のひとつ。この天井は金谷御殿から移築したもの。

「優曇華」はインドの想像上の花であり、正式名称は「優曇波羅華」と言う。仏教経典では3000年に一度花が咲くといい、その時に如来菩薩や金輪明王・転輪聖王が現世に出現するとしており。このことから、通常「滅多にない吉祥」という意味の言葉として用いられている。

■写真は拝殿格天井造



〇拝殿欄間

欄間は約八寸厚の欅の一枚板に見事な梅花紋を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻を施しています。これも金谷御殿からの移築で、成巽閣の欄間と同じ彫師が手掛けたもので、前田家御細工所の名工 武田友月の作品と伝えられている。

■写真は拝殿欄間



〇蚊母樹(いすのき)

主に暖地で自生するマンサク科の常緑樹で、推定樹齢200年を越える古木。
材質が硬いので、櫛を作るのに使われていた。左側の狛犬の後ろにある。

■写真は蚊母樹(いすのき)



〇青銅製狛犬

尾山神社の狛犬は高岡青銅製の昭和8年(1933)建立、高さ150CmX全長110Cm。





■写真は狛犬

(つづく)

◇金沢の秋2020 尾山神社①

2020-10-08 04:43:21 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1895)

◇金沢の秋2020 尾山神社①

〇尾山神社の概況
慶長4年(1599)に加賀藩藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡社(現宇多須神社)を、明治6年(1873)に卯辰山から金沢城の出丸金谷御殿跡地(現在地)に移し、本殿、拝殿が建てられ、尾山神社とした。尾山神社の神門は明治8年(1875)に完成。神門の和洋中の三様式が取り入れられた五色のギヤマンが綺麗です。
明治10年聖上北陸御巡幸金沢に御駐輦に際し、御幣物奉納爾後数回御幣帛下賜。
明治35年別格官幣社に昇格。御祭神:前田利家、まつ。このふたりにあやかって「文武両道」「必勝」や「夫婦円満」「子宝安産」のご利益がある。

■写真は神門



■写真は境内図



〇封国祭

「百万石行列」と同じ日に行われているお祭りがあります。「封国祭」といい、「封国」とは前田利家公が豊臣秀吉から、この国、つまり加賀の地を治めるようにと封じられたことであり、利家が(天正11年(1583)年6月14日に金沢城に入城したことに因み、明治時代にこの祭りが始められた。長い間その当日に行わが、梅雨と重なり天候が定まり難いため、百万石行列が6月第一土曜日に移行したことに便乗し、封国祭も同じ日に振り替えた。

■写真は2016年金沢百万石まつりの利家



〇尾山神社神門

神門は神社の正門として、明治8年(1875)に建てられた。西洋の建築を正式に学んでいない日本の大工が、見よう見まねで洋風を取り入れて造った建造物を擬洋風建築(ぎようふうけんちく)と言い、この神門もそのうちの一つですが、この門はそこに中国風のデザインが加わる異様な形で、当時は「竜宮城を思わせる」「文明開化の西洋かぶれ」などと言われたようだ。



門は三層に別れていて、一層目は石室石を外壁に使った三連アーチですが、骨組みは完全な木造。二、三層目は壁を銅板で覆い、金谷御殿に廻されていた高欄を貰い受けており、三層目は四面を5色の上質ギヤマンで張り、更に窓以外を銅板で覆っています。最上部にはギヤマン(江戸時代のガラス製品。ここでは五色のガラス板)がはめ込まれている。
また、屋根の上の避雷針は、日本最古のもの。神門を設計したのは津田吉之助。昭和10年(1935年)に国の重要文化財に指定された。





〇神門欄間

中央に大瓶束を配し、左右に「鶴と大和松」をあしらっています。頭貫上は、蟇股に加賀梅鉢紋と火災封じの願いを込めた波の彫刻をあしらっている。また、桁上は、中央に大瓶束、その両脇に2頭の龍と雲の彫刻をあしらっています。



■写真は神門中央と右蘭間



〇神門大扉

大扉には、唐草模様(優曇華)の中央に前田家の紋章 加賀梅鉢紋です。そして外枠になる十字型の意匠が、デフォルメされて神門の随所に配されている。

■写真は神門大扉



〇神門中央の丸石

神門の中央に敷かれた黒い大きな丸石は、かつて兼六園にあった燈籠の笠だそうで、何故ここに敷かれたかと言うと、ある時、燈籠が倒れて人を殺めたため、罰として人に踏まれる処に置かれたと伝えられている。

■写真は丸石



■写真は二階への階段(右左2カ所ある)



■写真は拝殿側より

(つづく)

◇前田土佐守家資料館 勉強会

2020-09-26 04:20:24 | #金沢いしかわ#観光


金沢の観光スポットレポート(No.1894)

◇前田土佐守家資料館 勉強会

9月19日(木)金沢PHPほんとうの時代友の会「飛び出せ例会」を前田土佐守家資料館で開催した。友の会打合せの後、竹松幸香学芸員の解説で、前田土佐守家の歴史や、芳春院(おまつの方)は孫直之をかわいがり利常に勧め、家臣となり、また自身の石高を引き継ぎ1万石以上にした。芳春院自筆消息では古文書の読み方など解りやすく解説していただきました。
その後、館内の自由内覧を行った。



〇前田土佐守家資料館

前田土佐守家資料館は、加賀藩祖前田利家の次男前田利政を家祖とする前田土佐守家所蔵の資料、約9,000点(石川県指定文化財)を保管、その一部を展示する施設です。 当館所蔵の資料は、土佐守家歴代当主が文書の保存・整理に努めてきたため、散逸や損傷等が少なく、膨大な歴史資料が良好な状態で保存されております。 また、土佐守家は加賀藩の重臣として、常に藩政の中枢に位置する家であったことから、土佐守家の草創期(天正期)から明治にいたる間の様々な分野にわたる史料がみられ、加賀藩政、文化史研究を進めてゆく上でも、その重要性が広く知られています。



〇前田家と前田土佐守家

前田土佐守家すなわち直之系前田家は、藩政期においては利政から直信までの10代を数え、初め1万50石、4代直堅以降は1万1000石の禄を世襲した。当家の家祖となる前田利政は、加賀藩祖前田利家・その夫人まつの次男である。したがって当家は加賀藩主前田家の分家筋にあたる。
家祖利政は七尾城にあって能登国22万石余りを領有していたが、関ヶ原の戦いで徳川家康の出兵要請に応じなかったことにより領知を没収された。その後京都に隠棲し、かの地では多くの文化人や豪商たちと交流を重ね、寛永10年(1633)京都で没した。
利政の嫡男である2代当主直之は、幼少時に祖母芳春院(前田利家夫人まつ)にひきとられて養育された。祖母芳春院の尽力があって、元和元年(1615)12歳の時、3代藩主前田利常に召し抱えられた。これ以後、前田土佐守家は藩政期を通じ1万余石の禄高をもって代々「八家」の一つとして藩の要職を歴任し、10代当主直信の時に明治維新を迎えた。
(前田土佐守家資料館HP)より



〇歴代当主

家祖利政(としまさ)- 従四位下・侍従、賜羽柴姓。通称羽柴能登侍従。
2代直之(なおゆき)- 無官。
3代直作(なおなり)- 無官。「加賀八家の前田土佐守家」初代といえる。
4代直堅(なおかた)- 近江守。
5代直躬(なおみ) - 土佐守。
6代直方(なおただ) - 土佐守。
準代直養(なおやす)- 直方より早逝した。
7代直時(なおとき) - 土佐守。
8代直良(なおさだ) - 近江守。
9代直会(なおより) - 夭折のため無官。
10代直信(なおのぶ) - 土佐守。
11代直行(なおつら) - 男爵。
12代(政雄) - 直行に先立って死去し、実際には家督を相続していないが、名目上12代当主として扱われる。
13代正昭 - 男爵。
14代直大 - 前田土佐守家資料館々長(金沢在住)

■写真は竹松幸香学芸員の解説



■写真は1F、2F展示室(展示室は撮影禁止のためHPより)





〇企画展「雅堂文庫」

雅堂文庫は、前田土佐守家11代当主前田直行が昭和16年(1941)に、
前田土佐守家伝来の書物や自身の蔵書の一部を、現在の金沢市立玉川図書館
の前身である大礼記念金澤市立圖書館に寄贈したもので、同館にて整理・分類
され、直行の号を冠した「雅堂文庫」として公開されて広く知られるように
なった。

■写真は1F展示室と庭





■写真は2F

□前田土佐守家資料館

(つづく)

◇金沢の秋2020 金沢寺町寺院群散歩Vol.3 ②

2020-09-24 04:21:00 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1893)

◇金沢の秋2020 金沢寺町寺院群散歩Vol.3 ②(ユーチューブ連動解説版)

〇神明宮

金沢旧五社の一で、古来神明宮と称し、全国七神明、又は三神明の一と云われ、通称は、お神明(しんめい)さん。加賀の大社として、歴代藩主、庶民の信仰厚く、祓宮(はらいのみや)として知られ、春秋のあぶり餅祭は全国只一の特殊神事。又、当宮の左義長は金沢の左義長の元祖である。







■写真は神明宮(オオケヤキとあぶり)

□神明宮紹介ページ①

□神明宮紹介ページ②

□神明宮「あぶり餅神事」紹介ページ

〇千日山雨宝院

本尊は、金毘羅大権現。 開祖は、聖武天皇の時、天平8年(736)、越智の泰澄大師が白山の妙理大菩薩に霊告と六句の秘文を受け、大日如来を本尊とし、当地において秘法蜜場として創建したことが起こり。 850年余を経て、文禄4年(1595)、大和の国の大徳・雄勢が伊勢神宮1000日参詣し、満願の暁に霊告を受け、来錫。堂宇を再興して今日に至る。更に、雄勢は泉野原で伊勢神宮に向かって5000日の修行を行い、慶安2年(1649)、96才で入定した。その地を「千日塚」と言ったが、今は不明で石碑分が境内にある。 金沢の文豪・室生犀星は、当院22世眞乗法印の養嗣子となり、幼少から青年期にかけて当院で過ごした。「愛の詩集」「性に目覚める頃」「杏っ子」をはじめ数々の名作を残している。(看板より)室生犀星は当院で過ごした。





■写真は雨宝院(仏殿と室生犀星資料展示館)

□雨宝院紹介ページ



〇室生犀星記念館

金沢三文豪のひとり、室生犀星の生家跡に建つ記念館です。平成14年8月1日、犀星の誕生日に開館した。「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」の詩(「小景異情 その二」)で知られる犀星はこの地で生まれ、すぐ近くの寺院、雨宝院で育ちました。館内では、はじめて犀星を知る人でも、犀星の生き方やその文学世界の魅力と出会い、ふるさとや命に対する慈しみの心への強い共感を呼び起こしていただけるものと思う。



□室生犀星記念館ブログページ①

□室生犀星記念館ブログページ②

□雨宝院、室生犀星ブログページ③

■写真は室生犀星記念館



〇寺町薬屋カフェ(安藤薬局ビル)

安藤薬局は嘉永2年(1849)の創業の老舗。道路拡張により、2017年4月に新ビル建替し、同時にオープンした。こだわりのインテリアとコーヒー、薬膳カレーなどもメニューにある。寺町、にし茶屋街の取材の時には訪れている。







■写真は寺町薬屋カフェ

(つづく)



□ユーチューブ金沢寺町寺院群散歩2020 Vol.3

金沢の秋2020 金沢寺町寺院群散歩Vol.3 ①

2020-09-23 04:41:17 | 金沢・石川の観光


金沢の観光スポットレポート(No.1892)

◇金沢の秋2020 金沢寺町寺院群散歩Vol.3 ①(ユーチューブ連動解説版)

〇瑞亀山松月寺
斉藤刑部宗忠が、白峰和尚のために越前(福井県)堀井庄において起こした寺であるが、加賀藩初代藩主・前田利家の入国後、金沢に移り、宗忠が願って小立野に造営し、元和二年(1616)には現在地に移った。 当時の境内には有名な老桜があり、「大桜」とも「御殿桜」とも言われる。これは、中興至岸和尚が三代藩主・前田利常から小松城内にあったものを拝領したと伝えられる桜である。樹種は山桜に近く、花茎五センチ内外、四月中旬開花する。樹齢は定かではないが、周囲約六メートル、高さ十四メートルの大木である。昭和十八年八月、文部省から天然記念物に指定された。泉鏡花の作品「桜心中」では、「この桜は名木です」と記している。(看板より)



■写真は松月寺の大桜(学名:ショウゲツザクラ)





■写真は松月寺

□松月寺大桜紹介ページ

□松月寺紹介ページ



〇岌松山浄安寺
加賀藩初代藩主・前田利家と同じ尾張荒子の出である貞蓮社白誉笈松上人が、天正三年(1575)に利家の命を受け、金沢に入部し古寺町(現・片町)に建立した。 元和二年(1616)、三代藩主・前田利常に請うて、寺地を得て現在地に移った。当時の「寄木造り阿弥陀如来像」は、延宝元年(1673)に建立され、金沢四大仏の一つに数えられる。宝暦九年(1759)の大火で建物は全焼したが、壇信徒によって大仏や御像などは無事に運び出され、その後寺も再建された この他、八臂弁財天、大黒天、毘沙門天の三体を奉る寺である。(看板より)





■写真は浄安寺

□浄安寺紹介ページ



〇安養山極楽寺

南北朝騒乱の時、後醍醐天皇の第八皇子宗良親王は越後、信濃に潜伏していたが、延元二年(1337)、越中国射水郡牧野村(富山県高岡市)に至り、仮の御所を造り居住していた。その後、落飾して牧野の地に草庵を結び、仏門に入り極楽寺と号したことに始まる。宗良親王は佛眼上人明心法親王と尊称された。 寺院来歴記によれば、天正年間(1573~92)、後の加賀藩三代藩主・前田利常が越中(富山県)守山に在城中、守山極楽寺の第一世・暫誉上人に深く帰依したと伝えられる。 よって慶長四年(1599)、利常が金沢に入城した際、極楽寺の住職・暫誉上人を召寄せ、元和元年(1615)には現在地に寺地千五百坪を賜った。 暫誉上人は文禄三年(1594)、上京参内して紫衣の勅許を蒙り、加賀一国中浄土宗寺院群の触頭を勤めたとある。 寺中に清覚院・不捨院があったが、宝暦九年(1759)の罹災の後は再建されていない。 当時の開祖・明心仏眼法親王の木造が安置されている。 本堂前に朱塗りの欄干が設けられているのも、皇子が創設された寺としての格式を表わしたものといわれている。(看板より)







■写真は極楽寺

□極楽寺紹介ページ



〇高養山成学寺
正保4年(1647)松平又右衛門夫人が、加賀藩三代藩主前田利常に請うて、梵宅上人を招き、もと玉泉寺の寺領に亡夫の菩提所として建立したのが起こりである。寺名は、又右衛門の戒名である成学居士から名付けられた。





■写真は成学寺と芭蕉句碑

□成学寺紹介ページ①

□成学寺紹介ページ②



〇宝池山大蓮寺

慶長9年(1604)加賀藩祖前田利家に仕えた荒子七人衆の一人、小塚淡路守秀正(7千石)が利家に従って金沢城入城後に、七尾の浄土宗西光寺住職であった衍連社広誉怒白上人を招請し、御馬屋町(現:木ノ新保)に建立されたが、後に当地が御用地になったため、野町に替地を拝領して現在に至る。
豪姫の菩提寺。利家公の四女豪姫、宇喜多秀家の供養塔がある。



■写真は大蓮寺



■写真は前田利家公四女豪姫と宇喜多秀家の供養塔

□大蓮寺紹介ページ

(つづく)



□ユーチューブ「金沢寺町寺院群散歩2020 Vol.3