植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

西茶屋資料館と島田清次郎 ②(完)

2017-12-31 05:33:45 | 日記


金沢の観光スポットレポート その791(No.1179)

◇西茶屋資料館と島田清次郎 ②(完)



〇夫婦獅子

西茶屋街資料館正面展示「夫婦獅子」の男獅子は現代かが獅子独特の形態を持つ、文政時代(19世紀前半)の作、女獅子は天正時代(16世紀後半)の作と伝えられており、その形態としては大神楽の流れを汲むものです。

■写真は1F正面の夫婦獅子



■写真は1F看板



〇西茶屋資料館

建物は、吉米楼(よしよねろう)跡地に当時の造りを再現したものである。
「吉米楼」は大正時代に、島田清次郎の小説「地上」の舞台となった場所でもある。1996年4月にオープンした。2階建て構造の日本家屋で、1階は島田清次郎に関するものを中心に、2階には金屏風や漆塗りの装飾品、扇子や三味線にし茶屋街当時の貴重な品などが展示されている。金沢市観光ボランティアガイドまいどさんが在中する。入館料は無料。

■写真は2階の階段



■写真は茶室



■写真は2階廊下



■写真は舞台となる座敷入口







■写真は座敷


(つづく)

西茶屋資料館と島田清次郎 ①

2017-12-30 04:52:14 | 日記


金沢の観光スポットレポート その790(No.1178)

◇西茶屋資料館と島田清次郎 ①

〇西茶屋資料館

建物は、吉米楼(よしよねろう)跡地に当時の造りを再現したものである。
「吉米楼」は大正時代に、島田清次郎の小説「地上」の舞台となった場所で、1996年4月にオープンした。2階建て構造の日本家屋で、1階は島田清次郎に関するものを中心に、2階には金屏風や漆塗りの装飾品、扇子や三味線にし茶屋街当時の貴重な品などが展示されている。金沢市観光ボランティアガイドまいどさんが在中する。
入館料は無料。

■写真は全景



〇島田清次郎

大正8年(1919)年現白山市美川出身で、吉米楼からの町小学校に通う。通称・島清は長編小説「地上」を新潮社から出版し、20歳で作家デビュー。極貧の文学青年はまたたくまに大ベストセラー作家へと成長し、「地上」シリーズ四部作は累計50万部という驚異的な売上を記録した。

天才の名をほしいままにした島清は勢いに乗って洋行、アメリカからロンドン、パリ、ベルリンを訪れ、詩人エドウィン・マーカム、作家ジョン・ゴールズワージー、俳優の早川雪州らと面会している。

全国で講演活動を行っては英雄的な理想主義、革命思想を賞揚し、テレビ・ラジオのない時代において十代の少年少女たち憧れのカリスマとして君臨した。 が、現代の目で見て島清のユニークな点と見なされるのは、その作品ではなく、尊大な言動と傲慢さが服を着て歩いているような生活態度、つまりキャラクターであった。昭和5年(1930)4月29日に肺結核で死去。享年31歳。









■写真は1F島田清次郎資料コーナー



■写真は金沢の三文豪と地元、縁故作家



■写真は金沢を舞台にした文学作品





■写真は庭

(つづく)

金沢の食AKB+Nとは??

2017-12-29 04:46:51 | 日記


金沢の観光スポットレポート その790(No.1177)

◇金沢の食AKB+Nとは??(近江町市場)

答えは「甘エビ」「かに」「寒ブリ」「のどぐろ」です。金沢市近江町で取材してみました。



〇甘エビ

甘えびは学名を「ホッコクアカエビ」といい、水深200~400メートル付近に生息しています。とろっとした食感と甘味が特徴で、 わさび醤油でのお刺身や寿司ネタとして、生を味わうのが一番人気!そのほか、丸のまま塩焼きやから揚げ、鍋物、茶碗蒸しなどでも美味しい。



〇ズワイガニ・コウバコガニ

ズワイは大きい雄ガニのことで、福井では越前ガニ、山陰では松葉ガニと呼ばれ、ゆでて酢醤油で食べるのが一般的です。

雌の方は香箱(コウバコ)と呼び、小さくて身が少ないかわりに甲羅にびっしり卵とミソが詰まり、コウバコの方を好む人も沢山います。
香箱は雌のため漁の時期が短く、2017年の香箱ガニ漁の最終日は、12月25日(月)の予定。

加能ガニ(石川産ズワイガニ)とは、石川県で水揚げされるズワイガニのみを指します。



■写真はズワイガニ(上)・コウバコガニ(下)



〇寒鰤(かんぶり)

冬、日本海独特の雪雷が鳴りはじめる頃獲れ始めます。厳しい寒さと荒波にもまれた身は引き締まり、十分脂ののった味は絶品です。刺身、照り焼き、塩焼き、アラ煮など、どんな料理にしても美味しいです。
昨年は切り身しか並んでなかったが、今年は例年並みか?氷見産(富山県)、宇出津産(石川県)の一尾ものが並んでいる。

■写真はブリ



出世魚ブリは北陸、関東、関西での呼び名が違う!



■写真はがんど



■写真はふくらぎ



〇のどぐろ

のどぐろは年中脂乗りが良く、いつ食べてもおいしい魚。旬の時季は諸説があり、地域や人によって言うことが違う。
2007年3月に島根県水産技術センターが実施した脂質量と、季節変動に関する研究結果では、季節による差はないという結論がでています。



■写真はのどぐろ



□朝10時過ぎなのに回転すしにもう並んでいる。



■写真は市場内

(つづく)

「植ちゃんの金沢・いしかわに恋をしました」が80万ページアクセス達成しました。

2017-12-29 04:36:47 | 日記


「植ちゃんの金沢・いしかわに恋をしました」が80万ページアクセス達成しました。

2010年12月19日に開設した。金沢観光ブログ「植ちゃんの金沢・いしかわに
恋をしました」がお陰様で12月28日(水)に80万ページアクセス達成しました。
皆様に厚く御礼を申し上げます。

○累計閲覧ページ:800,042ページ

○累計訪問IP数:245,992IP

加賀百万石にあやかり、100万ページまで頑張ります。今後とも閲覧をよろしく
お願い致します。





■写真は金沢の正月飾り

富山県高岡市「義経岩・義経伝説」、「守山城祉」

2017-12-27 04:15:35 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017 高岡エリア-1

◇富山県高岡市「義経岩・義経伝説」、「守山城祉」(No.1176)

10月7日(土)金沢ボランティアの会まいどさんの16期グループ「よるまっし16」の加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017に参加しました。
心配された雨も現地ではやみ、山城で有名な増山城址、義経岩・義経伝説、勝興寺、守山城祉を訪ねました。



〇義経岩・義経伝説

義経岩は、富山県高岡市の雨晴海岸にある大岩。義経伝説が残る。雨晴岩ともいう。能登半島国定公園内にある景勝地。

文治3年(1187)義経一行が奥州平泉へ向かう途中に俄雨が降り出したため、弁慶が岩を持ち上げ、その陰で雨宿りをしたという伝説が残る。「雨晴」という地名はこの伝説に由来する。
義経岩の上には義経神社が建てられており、「義経の腰掛」や「弁慶の足跡」といわれる跡が残っている。近くの伏木には歌舞伎の「勧進帳」のモデルとなったとされる如意の渡しがある。また伏木駅前に「如意の渡像」が移転した。

■写真は義経神社



■写真は義経岩



■写真は小松市の安宅にある弁慶像



■写真は伏木駅前





■写真は如意の渡し像



◇富山県高岡市「守山城祉」

10月7日(土)金沢ボランティアの会まいどさんの16期グループ「よるまっし16」の加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017に参加しました。
心配された雨も現地ではやみ、山城で有名な増山城址、義経岩・義経伝説、勝興寺、守山城祉を訪ねました。



■写真は二上山の大伴家持像

〇守山城祉概要

松倉城(魚津市)、増山城(砺波市)と並び越中三大山城と称された。守山城はまた、二上城、海老坂城ともいう。越中平野を一望に見下ろし、山高く道険しく前方は小矢部川、後方は氷見の湖水に挟まれた要害であり、築城時期は明らかではないが「南北朝末期(1371年)に南党の桃井直常が石動山天平寺の宗徒と示し合わせて、越中守護・斯波義将の本城・守山を攻め落とした」と書かれているため相当古いと考えられる。



永禄11年(1568)越後の上杉謙信は大軍を率いて越中へ侵攻し、守山城を攻撃している。当時の城主・神保氏張は、謙信に降伏して配下となっていた神保氏当主・神保長職と対立していた。この時は謙信の本国・越後で本庄繁長の乱が起きたため、謙信は守山城攻めを中止し、引き上げている。この後、度重なる謙信による越中出兵に遭い守山城は陥落、上杉方の城となった。



■写真は守山城址



■写真は本丸跡の平和観音像



■写真は三の丸



■写真は本丸跡から高岡市内を見る





■写真は森山城地図

参考資料:宮武利男氏、ホームページ他

(つづく)

富山県南砺市「増山城址」③ 完(No.1175)

2017-12-26 04:28:17 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017 南砺エリア-3

◇富山県南砺市「増山城址」③ 完(No.1175)

10月7日(土)金沢ボランティアの会まいどさんの16期グループ「よるまっし16」の加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017に参加しました。心配された雨も現地ではやみ、山城で有名な増山城址、義経岩・義経伝説、勝興寺、守山城祉を訪ねました。



〇山城の目的

中世の山城は、山上に城郭、麓に下館(居館)を築いたといわれる。山上の城は主に防御施設であって、日常生活は麓の館で行っていたようである。山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで、長期間居住するための建物は建てられていなかったらしい。

■写真は又米兵衛清水



■写真は今回登った二の丸までの地図

〇山城の防御施設

山城の防御施設は地形を利用しながら、各種のものがある。



■写真は馬出、曲輪、切岸、虎口



■写真は主郭、竪堀、井楼櫓、土橋



■写真は土塁、切堀、縄張り図、枡形虎口、



■写真は薬研堀、横堀



〇松倉城(魚津市)

今回は越中三大山城の増山城、守山城(高岡市)は訪れたが、松倉城(魚津市)は距離も遠く訪れなかったので、ホームページからの情報をお伝えする。
松倉城は、越中新川郡松倉(現魚津市)にあった山城である。別名「金山城」。富山県史跡。

建武2年(1335)頃の築城と言われている。城主は普門利清、桃井直常と移り、南北朝時代のあとは椎名氏の居城として、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。豊富な産出量を誇った松倉金山を擁していた。



■写真は松倉城(HPより)

参考資料:宮武利男氏、ホームページ他

(つづく)

富山県南砺市「増山城址」②(No.1174)

2017-12-25 04:19:49 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017 南砺エリア-2

◇富山県南砺市「増山城址」②(No.1174)

10月7日(土)金沢ボランティアの会まいどさんの16期グループ「よるまっし16」の加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017に参加しました。心配された雨も現地ではやみ、山城で有名な増山城址、義経岩・義経伝説、勝興寺、守山城祉を訪ねました。

■写真は一の丸



〇増山城沿革

貞治 元年(1362) 二宮円阿が和田城(増山城の前身)を警固する。
永正 3年(1506) 芹谷の合戦(般若野の戦い) 長尾能景が一向一揆勢力と対決し、討死する。
永禄 3年(1560) 長尾景虎が越中に侵攻し、富山城主神保長職が追撃に逢い、増山城に落ちのびる。
永禄 5年(1562) 神保長職が再起した為、再び上杉謙信が増山城を攻め、長職は降伏した。
永禄11年(1566) 増山城の神保長職が上杉氏と結び、一向一揆と戦う。
元亀 3年(1572) 一向一揆勢力が増山城に拠る。
天正 4年(1576) 上杉謙信が増山城を攻略。上杉氏武将・吉江宗信が守る。
天正 9年(1581) 織田勢による増山城の焼き討ち
天正11年(1583) 佐々成政が越中を平定する。
天正13年(1585) 佐々成政が増山城を普請する。豊臣秀吉が越中に侵攻し、佐々成政が降伏する。増山城は前田氏の領有となる。
天正14年(1586) 上杉景勝が上洛途中、中田で増山城主・中川光重の饗応を受ける。
元和 元年(1615) 廃城

■写真は一の丸からの砺波平野



■写真は石垣跡



〇二の丸

ここが主郭であり、鐘撞堂は増山城で一番高く標高127m。

■写真は二の丸





■写真は二の丸神水鉢



■写真は鐘撞堂跡

参考資料:宮武利男氏、ホームページ他

(つづく)

富山県南砺市「増山城跡」①(No.1173)

2017-12-24 04:03:41 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017 南砺エリア-1

◇富山県南砺市「増山城跡」①(No.1173)

10月7日(土)金沢ボランティアの会まいどさんの16期グループ「よるまっし16」の加賀藩ゆかりの地を訪ねる2017に参加しました。
心配された雨も現地ではやみ、山城で有名な増山城址、義経岩・義経伝説、勝興寺、守山城祉を訪ねました。

■写真は駐車場にある増山陣屋



■写真は100名城認定証



〇増山城跡概要

増山城は守山城(高岡市)、松倉城(魚津市)と並び越中三大山城の一つと称される。守護代神保氏の歴代が拠点とした。庄川の東方、芹谷野(せんだんの)丘陵を越えた標高120メートル(比高70m)のところにあり下を和田川が曲流して環濠の役割を果たす。和田川手前の平地に城下町があった。

南北朝時代の貞治1年(1362)桃井直常を攻めた守護斯波(しば)高経の将二宮円阿が合戦のあとひと冬を警固した和田城は、この城の北部分で亀山城ともいう。

■写真は増山城全図



戦国時代上洛を目指す越後の長尾(上杉)勢がしばしば越中へ侵攻し、この城を攻めた。永正3年(1506)長尾能景は神保慶宗を攻めて芹谷野で討ち死、子為景は20年来攻して慶宗を討っている。孫の景虎(上杉謙信)は永禄3年(1560)以来数次にわたって来攻、天正4年(1576)増山城をはじめ越中の諸城を落とし、能登の七尾城をも手中にするが、その翌々年に没する。

天正9年(1581)織田信長の将佐々成政勢が増山城へ入り、天正13年(1585)には前田氏の領国となって重臣の中川光重が城を守ったが間もなく廃城となった。



遺構がよく残っており、昭和40年県指定史跡(1965)。平成21年(2009)国指定史跡となる。一の丸跡は、本来は本丸を指すが、構造的に本丸とは考えがたい。杉野家絵図に「一の丸」「枡形」の記載がある。西側斜面に堅堀がつくられている。「二の丸」主郭。数々の郭は、二の丸を守るように配置されており、敵兵がもっとも侵入しにくい場所にある。

虎口下には城跡内で唯一の石垣がある。規模が小さく、防御機能よりも権力誇示と見られる。増山城は、かつての「和田城」とも考えられる。但し、縄張り等から亀山城が和田城とみる研究者もいる。

■写真は冠木門







■写真は大手口





■写真はF郭馬之背ゴ



■写真堀切

住所:砺波市増山字一の丸3324

参考資料:宮武利男氏、ホームページ他

(つづく)

◇そばのはな(金沢市)すゞめ豆大福(金沢駅あんと)

2017-12-23 04:06:58 | 日記


金沢のグルメレポート その45(No.1172)

◇そばのはな(金沢市)

ランチはメインが生カジキの刺身、ヒレカツ、メギスのつみれ煮中から選択で、蕎麦も選べ温冷もあります。

私はヒレカツと蕎麦は、冷たいおろし蕎麦を食べました。蕎麦はもちろん手打ちで、細く打って有り硬め、出汁つゆは少し甘めで、辛い大根おろしと良く合います。食べてみて繁盛の理由が解りました。

住所:金沢市尾山町2-32 
電話:076-222-3980

■写真はヒレカツ定食(820円)





■写真はそばのはな外観



◇すゞめ 豆大福(金沢駅あんと)

金沢駅「あんと」内にある餅菓子と定食・お弁当の白山市の農業法人「六星」のお店。
正面に並べられた塩豆大福。目の前で次々と丸められていく作りたての大福。塩豆大福は、農業法人だけあって餅が美味い!甘さ控えめで小豆の風味が感じられる餡子と、食感と塩気を加えてくれる黒豆のバランスがいい。

・豆大福1個120円







■写真はすゞめ店内

□すゞめホームページ

(つづく)


金沢の冬2017-4 冬支度 尾崎神社、兼六園ほか

2017-12-22 04:19:04 | 日記


金沢の観光スポットレポート その788(No.1171)

◇金沢の冬2017-4 冬支度 尾崎神社、兼六園ほか

○尾崎神社の概況

寛永18年(1641)、前田利常の時、日光東照宮の神霊を勧請して金沢城内に社殿を造営した。寛永20年(1643)9月落成したので鎮座祭を執行して、別当所をおいて神護寺と称した。朱塗りの社殿には徳川家康の紋が散りばめられ、金沢城の江戸、北陸の日光と呼ばれ崇められた。



〇雪囲い

尾崎神社では重要文化財を雪害から防護するため、朱塗りの社殿に合わせて赤色の杉板で雪囲いが設けられ、冬の風物詩となっている。

雪囲いは、積雪や風雨により社殿に塗られた漆が劣化したり、剥がれたりするのを防ぐ。昭和6年(1931)ごろから、毎年12月初旬に設置作業が行われ、作業員5人が国重要文化財に指定されている本殿、拝殿、幣殿に計78枚の板を次々と取り付ける。雪囲いは来年3月初旬に取り外される。



■写真は尾崎神社の雪囲い









■写真は尾崎神社拝殿



■写真は稲荷神社

〇むしろ敷

むしろ敷は雪や氷結、雨などで滑らないように設置される。





■写真は兼六園花見橋、板橋のむしろ敷





■写真は金沢城公園河北門のむしろ敷

(つづく)

金沢の冬2017-3 雪吊り③ 完

2017-12-20 04:21:10 | 日記


金沢の観光スポットレポート その787(No.1170)

◇金沢の冬2017-3 雪吊り③ 完

◇雪吊りとは

大切な庭木を冬に積もった雪の重さで枝などが折れないようにする対策、方法を総称して「雪吊り」と呼びます。
石川県では明治初期から確立したと言われ、 冬の風物詩として、加賀金沢を中心に石川県下はどこの家庭でも十一月の初冬を迎える頃に作業が始まります。
北陸特有の湿った雪質は、重く、庭木の枝によく着雪します。枝折れ、裂け、潰れるなど、雪解けの三月に思わぬ被害に驚かされます。



4)その他

菰掛け、竹立て(添え)しぼり、巻きあげ、小(中、大)しぼり、街路樹の低木列植には「横竹しぼり吊り」「竹ばさみ」の手法があります。



■写真は兼六園



■写真は尾山神社







■写真は香林坊



■写真は本多町MRO



■写真は駅前通り



■写真はにし茶屋街



■写真は平和町民家

(つづく)

金沢の冬2017-3 雪吊り②

2017-12-19 03:41:29 | 日記


金沢の観光スポットレポート その786(No.1169)

◇金沢の冬2017-3 雪吊り②

◇雪吊りとは

大切な庭木を冬に積もった雪の重さで枝などが折れないようにする対策、方法を総称して「雪吊り」と呼びます。
石川県では明治初期から確立したと言われ、 冬の風物詩として、加賀金沢を中心に石川県下はどこの家庭でも十一月の初冬を迎える頃に作業が始まります。
北陸特有の湿った雪質は、重く、庭木の枝によく着雪します。枝折れ、裂け、潰れるなど、雪解けの三月に思わぬ被害に驚かされます。

2)幹吊り

「りんご吊り」と同じく大きめの樹に施す手法です。樹上の太めで、しっかりした枝又から複数の藁縄を下げて、枝を結わえ吊ります。





■写真は兼六園



3)三つ叉(四つ又)しぼり吊り

ツツジなど中低木類を対象に三本の竹を囲うように立て込み、上部の結束ヶ所から藁縄を吊り下げ、張り出した数多くの小枝を吊り上げるようにわら縄で絞ります。

■写真は兼六園





■写真は金沢駅前通り



■写真は武蔵が辻の降雪状態(17.12.19)







■写真は香林坊







■写真は長町前田土佐守資料館(西王母、南天)



■写真はにし茶屋街

(つづく)

金沢の冬2017-3 雪吊り①

2017-12-18 04:23:58 | 日記


金沢の観光スポットレポート その785(No.1168)

◇金沢の冬2017-3 雪吊り①

◇雪吊りとは
大切な庭木を冬に積もった雪の重さで枝などが折れないようにする対策、方法を総称して「雪吊り」と呼び
ます。
石川県では明治初期から確立したと言われ、 冬の風物詩として、加賀金沢を中心に石川県下はどこの家庭
でも十一月の初冬を迎える頃に作業が始まります。
北陸特有の湿った雪質は、重く、庭木の枝によく着雪します。枝折れ、裂け、潰れるなど、雪解けの三月に
思わぬ被害に驚かされます。

◇雪吊りの種類

1)りんご吊り
松の木、槇の木をはじめ、よく枝造りが出来た比較的大ぶりの庭木に、芯柱を添えてその先端から多くの藁縄を張りそれぞれの枝を結わえ吊る方法で、完成した姿が収穫前のリンゴの枝が折れないように吊り支えた形からりんご吊りと呼ぶようになりました。



■写真は兼六園唐崎の松



■写真は兼六園真弓坂口





■写真は金沢城公園玉泉院丸庭園





■写真は尾山神社菊桜



■写真はにし茶屋街



■写真は北陸電力





■写真は金沢駅





■写真は金沢市有松の民家

(つづく)

金沢の冬2017-2 香林坊エリア、武蔵が辻、金沢駅

2017-12-16 04:19:02 | 日記


金沢の観光スポットレポート その787(No.1170)

◇金沢の冬2017-2 香林坊エリア、武蔵が辻、金沢駅





■写真は片町きらら







■写真は香林坊トラスティ



■写真は東急スクエア





■写真武蔵が辻













■写真は金沢駅

(つづく)

金沢の冬2017-1 長町武家屋敷跡 薦掛け Ⅱ

2017-12-15 04:16:48 | 日記


金沢の観光スポットレポート その784(No.1167)

◇の冬2017-1 長町武家屋敷跡 薦掛け Ⅱ

〇薦掛け

薦掛けは、雪から土塀を保護するもので、浸透した水分の氷結による損傷や、付着した積雪による土の剥がれを防いでおり、毎年12月から翌年3月まで設置され、雪吊りとともに”金沢の冬の風物詩”とな
っています。 
12月の第1週の週末に合わせて薦がけが行われている。薦掛けは稲わらで編まれた幅3.6メートル、高さ90センチで、約500枚を民家や施設の土塀約1100メートルに取り付ける。





■写真は雪吊り作業中





■写真は大屋家







■写真は長町武家屋敷跡

□撮影日:2017.12.04

(つづく)