植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

霊峰白山日帰り登山2018 ② 完

2018-10-22 04:30:20 | 日記


霊峰白山日帰り登山2018 ② 完(1407)

10月8日(月・祝)白山日帰り登山をした。2008年より毎年1回の体力テストのつもりで挑戦!今年で11回目となる。砂防新道で登りエコーライン南竜山荘経由で下山。

■写真は山頂付近地図







■写真は御前峰より御嶽山、穂高連峰、北アルプス立山連峰方面



■写真は御前峰より室堂





■写真は弥陀ヶ原の紅葉



■写真はエコーラインの紅葉

室堂付近のナナカマドの実もほとんどなかったが、南龍山荘付近の紅葉が最高でした。















■写真は南竜山荘付近の紅葉



■写真は甚之助避難小屋下の紅葉





■写真は甚之助谷の紅葉



■写真は別当出会到着

<登山記録>
自宅4:10~別当出合発5:51~中飯場到着6:36~~甚之助避難小屋着7:45
~黒ボコ岩着8:58~室堂着9:31~室堂発9:45~御前峰着10:26
~室堂着11:22~南龍山荘着13:20~ 南龍山荘発13:34
~甚之助避難小屋着14:11~中飯場着15:15~別当出合着16:06

今年は9月気候が不安定で10月の登頂となった。その後も曇や雨が多く8日は最高の天候と気温に恵まれた。下山の疲れが多く来年は近くの大乗寺丘陵公園の階段、山で下りに対応できる体づくりをする。

撮影日:2018.10.8


<バックナンバー大汝峰、お池めぐりページ>

□霊峰白山日帰り登山2014②(No496)


□霊峰白山日帰り登山2014③ お池めぐり1(No497)

□霊峰白山日帰り登山2014④完 お池めぐり2(No498)

(つづく)

霊峰白山日帰り登山2018 ①

2018-10-21 04:35:51 | 日記


霊峰白山日帰り登山2018 ①(1406)

10月8日(月・祝)白山日帰り登山をした。2008年より毎年1回の体力テストのつもりで挑戦!今年で11回目となる。砂防新道を登りエコーライン南竜山荘経由で下山。

■写真は御前峰(2,702m)

白山は、富士山、立山とともに日本三名山の一つに数えられ、山頂部は、御前峰(2,702m)、大汝峰(2,684m)剣ヶ峰(2,677m)で構成されています。古くから「しらやま」や「越のしらね」の名で和歌にも詠まれましたが、信仰の山としても知られ、御前峰山頂には白山奥宮があります。養老元年(717年)越前の僧泰澄が、はじめて白山に登り修行したのが信仰登拝の始まりと伝えられています。今年は開山1301年になる。



1億数千万年余り前には湖底にあった白山地域が、その後少しずつ盛り上がって何度も噴火活動を繰り返して火山として誕生し、今日にいたっている。そのため、黒ボコ岩下あたりには小石を含んだ岩が多い。

■写真は白山のおいたち



■写真は黒ボコ岩下の湖底を証明する丸み石含んだ岩



■写真は別当合スタート(5:51)



■写真は観光新道の尾根



■写真は甚之助小屋からの稜線



■写真は黒ボコ岩下の霊水白山延命水(今年は夏雨不足で水が少ない?)





■写真は黒ボコ岩と別山



■写真は弥陀ヶ原と御前峰

建築中の室堂トイレ。建築予算は2億円という。そのうちへりコプター輸送費が1億円とか?



■写真は室堂前のトイレ工事中(室堂到着9:31)



■写真は白山比咩(ひめ)神社祈祷殿。



■写真は高天ケ原から御前峰



■写真は白山比咩(ひめ)神社祈祷殿。



■写真は御前峰での撮影を待つ登山者



■写真は御前峰(10:26着)



■写真は剣ヶ峰(2,677m)



■写真は大汝峰(2,684m)

撮影日:2018.10.8

(つづく)

谷本正憲石川県知事 県政報告レポート

2018-10-20 04:22:12 | 日記


◇谷本正憲石川県知事 県政報告レポート(No.1405)

8月31日(金)金沢市ホテル金沢において税理士法人ノチデ会計主催の金沢経営研究会第147回定例会で谷本正憲石川県知事の県政報告会があり拝聴した。その中で観光分野の情報を抜粋してレポートします。



■写真は谷本知事と案内パンフ



〇谷本正憲石川県知事プロフィール

1945年(昭和20年)兵庫県西脇市生まれ。兵庫県立西脇高等学校、京都大学法学部卒業。1968年4月、自治省(現総務省)に入省。同期に早川忠孝(元衆議院議員)、西川一誠(福井県知事)、井戸敏三(兵庫県知事)らがいる。宮崎市助役、茨城県 総務部長、旧自治省交付税課長を経て1991年、石川県に出向し、中西陽一石川県知事の下で副知事に就任。

1994年、中西知事が任期中に死去したため新生・公明・民社・日本新・社会の非自民5党推薦で石川県知事選挙に出馬。当時、自由民主党幹事長を務めていた森喜朗が推す元農水事務次官の石川弘を破り、初当選を果たした。なお新生党には、石川県における森のライバルである奥田敬和が所属しており、中選挙区制下の旧石川1区で繰り広げられていた森奥戦争の構図が県知事選でも見られた。以後、7期連続で石川県知事に当選する。

■写真は講演タイトル



□石川県の概要

面積:424,186km2 全国順位35位
総人口:1,142,603人(推計人口、2018年4月1日)全国順位34位
人口密度:273人/km2 全国順位23位
県の木:アテ
県の花:クロユリ
県の鳥:イヌワシ

■写真は石川県地図位置



北陸新幹線金沢開業効果が継続しており、全国トップクラスの経済状況が持続している。日銀金沢支店金融経済月報H30年7月北陸の景気では「拡大している」の表現でH29年12月より8か月連続になっており、全国で拡大は北陸と東海のみとなっている。

今も想定を大きく超えて持続する新幹線開業効果!
1)新幹線利用者数は開業前の約3倍を維持している。
2)県外観光入込客数は開業前の300万人増(1500万人をキープ)
3)外国人の宿泊数はH15年の12倍に。















■写真は当日のレジメ

撮影日:2018.8.31

(つづく)

加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-④ 完

2018-10-18 05:29:49 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-④ 完(No.1404)

9月29日(土)金沢市ボランティアガイド「まいどさん」16期生の「よりまっし16会」で毎年1回は加賀藩ゆかりの地を訪ねる勉強会を行っている。昨年に続き富山県の松倉城、愛本跳ね橋、富山城を訪ねた。

◇富山城址(富山市)

〇富山城

佐々成政や富山藩主前田家の居城であった富山城。この城跡が富山城址公園として整備され、市民の憩いの場となっています。公園内に残る石垣や濠から当時の威容を見ることができます。また、富山城内は郷土博物館として、400年以上にわたる富山城の歴史を、模型や映像も使いながら分かりやすく紹介しています。

■写真は本丸鉄門石垣の鏡石



1)神保長職(じんぼながとも)期(1543~1560)
富山城は、天文12年(1543)に新川郡へ進出を目論む越中守護代・神保長職が、家臣の水越勝重に命じて築城したといわれている。近年の発掘調査では、室町時代以前の遺構も発見されており、実際の築城時はもっと以前だと考えられている。

■写真は天文12年(1543)頃の勢力図(富山市郷土博物館より)



2)上杉家期
神保長職は増山城にに逃れて敵対するが、永禄5年(1562)に7月と9月の2度に渡って侵攻を受け、能登畑山家の仲介で降伏する。結局、神保長職は神通川以東を失うが、本領の射水(いみず)・婦負(ねい)2群の支配は安堵され、富山城は上杉氏の支城となる。

3)神保長住(じんぼながずみ)期
信長の元に逃げていた神保長住は、天正6年(1578)上杉謙信急死をきっかけとして、織田軍の先鋒として越中に侵攻し、富山城を奪還し、神保家を再考する。

■写真は笑積石垣



4)佐々成政期(1582~1585)
天正10年(1582)神保長住は、上杉景勝についた神保氏の旧臣らによって急襲され、城を奪われ一時捕らわれてしまい、織田軍の反攻で助けられたのの、失脚し追放されてしまう。

5)前田利長期
慶長2年(1597)前田利長が、守山城から富山城に移ったが、翌年、前田家の家督を継いだために、金沢城に移った。

6)前田利長第2期(1605~1609)
慶長10年(1605)前田利長は、44歳の若さで利常に家督を譲り、富山城を隠居所として大改修をした。その時の大手側入口の石垣に5つの鏡石組み込まれた。金沢から640人の家臣を引き連れてきたとされる。



■写真は本丸側より鉄門石垣と看板



7)富山藩成立期(1639~1660)
寛永16年(1639)加賀藩3第藩主利常は、次男・利次の10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。利次は富山城を借用して越中に入り、婦負郡百塚に新たな城を築城予定だったが、財政状況から断念した。

8)富山藩確立期(1660~1869)
万治3年(1660)の加賀藩との領地交換により富山城周辺を自領とした上で、富山城を居城とした。幕府の許可を得て、富山城を本格的に修復し、あわせて城下町を整え、以降前田家13代の居城として明治維新を迎えている。

■写真は安政元年(1854)富山城下絵図



■写真は万治絵図の富山城縄張り



9)明治以降(1871~)
明治4年(1871)に廃城となり、翌年から建築物は払い下げられ、本丸御殿は県庁舎、二の丸二階櫓御門は小学校に、千歳御殿は解体され売却された。昭和29年(1954)旧本丸鉄門跡に模擬天守(彦根城、犬山城をモデル)が建築され、現在の富山市郷土博物館に。売却されたいた千歳門は平成19年(2007)に寄贈され本丸東側に移築、平成27年(2015)本丸内にの本庭園が整備されている。



■写真は天守より見る



■写真は佐々成政歌碑





■写真は千歳門と石垣

□富山城ホームページ(富山市観光協会)

□富山市郷土博物館


住所:富山市本丸1
TEL: 076-443-2111(富山市公園緑地課)

参考資料:インターネット、宮武氏資料

撮影日:2018.9.29

(つづく)

加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-③

2018-10-17 04:16:24 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-③(No.1403)

9月29日(土)金沢市ボランティアガイド「まいどさん」16期生の「よりまっし16会」で毎年1回は加賀藩ゆかりの地を訪ねる勉強会を行っている。昨年に続き富山県の松倉城、愛本跳ね橋、富山城を訪ねた。

■写真は黒部市歴史民俗資料館



◇愛本はね橋、黒部市歴史民俗資料館(黒部市宇奈月町)

黒部川中流に架かる景色がきれいな橋です。かつては全長63mにも及ぶ刎橋(はねばし)であったため「山口県錦川・錦帯橋」、「山梨県桂川・猿橋」と並び日本三奇橋の一つと言われてた。

■写真は明治初期の愛本橋



■写真は錦帯橋



■写真は猿橋



1本の橋脚もない巨大な愛本橋にはいろいろな工夫がされていたが、常に風雪にさらされいて、腐食が早く、さらに基礎の部分等には修理の不可能な箇所もあり、その耐用年限は長くなく、下図の通り、20~30年に一度ずつ架け替えられていた。現在の橋は1969年の豪雨で流失したものを掛け替えた12代目となります。

■写真は黒部市歴史民俗資料館のジオラマ



■写真は愛本橋改築歴史





■写真は愛本橋1/2モデルのシアター



■写真は作成指示した加賀藩5代藩主綱紀



■写真は1階からの愛本橋モデル





■写真は地階からの愛本橋モデル



■写真は愛本橋の図面



■写真は現在の愛本橋





■写真は愛本橋の橋岩盤

愛本橋が完成して浦山、舟見経由の上街道が完成し別名「夏街道」とも呼ばれ、入善宿を経由する下街道は「冬街道」とも呼ばれた。



■写真は江戸期の下道中絵巻の黒部川

□愛本はね橋(とやま観光ナビ)ホームページ
https://www.info-toyama.com/spot/51015/

住所:黒部市宇奈月町下立682
TEL:0765-65-1010

参考資料:インターネット、宮武氏資料

撮影日:2018.9.29

加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-②

2018-10-16 04:09:17 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-②(No.1402)

9月29日(土)金沢市ボランティアガイド「まいどさん」16期生の「よりまっし16会」で毎年1回は加賀藩ゆかりの地を訪ねる勉強会を行っている。昨年に続き富山県の松倉城、愛本跳ね橋、富山城を訪ねた。

このような企画で一番の楽しみは昼食!今回は宇奈月麦酒館でバイキング昼食。バイキングでは食べすぎになるので、少量多品種を楽しんだ。



〇宇奈月麦酒館

宇奈月のおいしい地ビールを楽しむことができる施設です。ビール工場、レストラン、売店(道の駅)がありビールを楽しむことができる。
宇奈月ビールは標高3,000mの山々から流れる黒部川の名水と、地元宇奈月の台地の恵みをふんだんに受けた黒部産の二条麦を原料とし、一般のビールには含まれていない酵母が生きています。醸造は本場ドイツから製法を学び、伝統の技術で愛情こめて1つ1つ生産している。









■写真は宇奈月麦酒三種セット(880円税込み)

<メニュー 税込み>
ランチバイキング=1,780円
宇奈月ビールカレ=600円
中華そば=650円
黒部名水ポーク丼=850円
牛ステーキ丼=900円

□宇奈月麦酒館ホームページ

撮影日:2018.9.29

(つづく)

加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-①

2018-10-15 05:29:34 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-①(No.1401)

9月29日(土)金沢市ボランティアガイド「まいどさん」16期生の「よりまっし16会」で毎年1回は加賀藩ゆかりの地を訪ねる勉強会を行っている。昨年に続き富山県の松倉城、愛本跳ね橋、富山城を訪ねた。

加賀藩は最大石高時には119.5万石(今の石川県、富山県全域)であった。その後、親藩の富山藩(10万石)、大聖寺藩(10万石)ができた。



■写真は松倉城址駐車場と看板



◇松倉城址(魚津市)

越中最大規模を誇り、難攻不落の城として知られていた「松倉城」の跡地。魚津市南部の松倉山山頂にあり、空堀で区切られた5つの郭が南北に並び、長さが1kmにも及ぶ巨大な城郭であった。室町から江戸時代にかけては背後の松倉金山で金の採掘が盛んに行われ、その経済力で中世には勢力を誇っていたという。多くの武将がこの城を巡って戦い、戦国末期まで新川郡の要としての役割を果たしてた。上杉家に実権がうつり織田信長に攻められた魚津城に拠点が移ってからは政治的、軍事的役割が低下し衰退していった。

■写真は松倉城址平面図





〇松根城の変遷

松根城が史上に初めて登場するのは健武5年(1338)のことで、越中守護職・普門(井上)俊清が加賀へ向かう越後南朝軍を防ぐために大半が討たれ松倉城に籠ったと「太平記」にある。

<古松倉城期>
南北朝時代から16世紀初頭までは、平ノ峰(標高430m)が軍事的な要害として利用された。

<新松倉城期>
永正17年(1520)の新谷合戦での敗北以降、椎名氏は本拠を海岸の魚津から鹿野集落背後の城山(標高418m・現松倉城跡)移したと考えられる。

<上杉支配期>
永禄13年(1570)以降は松倉城が越中支配の最大拠点となるため、越後からの武将(河田長親)らが多数在番する事態となり、兵員収容のためにも広いスペースが必要となった。そうした将兵のスペース駐屯として、大見城平が利用された。



■写真は本丸跡



■写真は本丸跡より富山湾を見る



■写真は本丸跡より立山連峰剣岳方面を見る



■写真は二の丸跡



■写真は二の丸跡より

□松倉城跡(とやま観光ナビ)ホームページ

参考資料:インターネット、宮武氏資料

撮影日:2018.9.29

(つづく)

加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-3

2018-10-13 04:21:02 | 日記


加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-3(1400)

今回は9月17日(月・祝)~18日(火)13-14日目の長野県上田宿~小諸宿(19.7キロ)9月18日(火)14日目小諸宿~軽井沢宿(22.5キロ)をウオーキングした。*距離は宿間距離

◇小諸宿~軽井沢宿(22.5キロ)

■写真は荒町館



〇加賀藩の参勤交代

加賀藩は江戸時代の寛永12年(1635)~文久2年(1862)227年間に金沢発(参勤)が93回、 江戸発(交代)が97回、合計190回が行われた。

コースとしては3コースあり、181回 が北国下街道約480キロを13~15日。5回が北国上街道(中山道経由)約600キロを20日前後。4回が北国街道上街道(東海道経由)約660kmを22日前後であった。

■写真は小吹味噌



■写真は小諸高濱虚子記念館



■写真は平原一里塚



■写真は明治天皇馬瀬口御小休所(高山家)





■写真は追分分去の道標(右北国街道、左中山道)



■写真は追分宿西入り口



■写真は追分宿の紅葉



■写真は追分宿標



■写真は高札



■写真は追分宿脇本陣跡の旧油屋旅館



■写真は堀辰雄文学記念館(追分宿本陣門・裏門)



■写真は追分の一里塚(史跡)



■写真は中山道追分の標高1,003m





■写真は沓掛宿碑



■写真は沓掛宿からの浅間山



■写真は旧軽井沢のさわむら



■写真は旧軽井沢の中山道標



■写真は旧軽井沢銀座



■写真は軽井沢駅

<コース記録>
(7:28)小諸荒町1丁目
(8:59)平原一里塚
(9:51)明治天皇馬瀬口御小休所(高山家)
(11:15)追分 分去の道標(右北国街道、左中山道)
(11:42)堀辰雄文学記念館(追分宿本陣門・裏門)
(11:56)追分一里塚(史跡)
(13:17)沓掛宿碑
(14:25)旧軽井沢の中山道標
(14:50)軽井沢駅

今回の上田駅標高447mから最高海抜1,003mまで標高差556m。ちなみに軽井沢駅は943m。
2日間の歩数:17日=40,937歩、18日ー41,370歩、合計=82,307歩

撮影日:2018.9.18

(つづく)


加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-2-②

2018-10-12 04:46:59 | 日記


加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-2-②(1399)

今回は9月17日(月・祝)~18日(火)13-14日目の長野県上田宿~小諸宿(19.7キロ)9月18日(火)14日目小諸宿~軽井沢宿(22.5キロ)をウオーキングした。*距離は宿間距離

◇上田宿~小諸宿(19.7キロ)









■写真は海野宿白鳥神社

〇田中宿

田中宿は小県群に属して慶長年間に真田氏の指示で海野宿の合宿として郷士小田中家により設立された宿場町です。寛保2年(1742)大洪水で民家119軒が流出して宿場機能が停止、以後、海野宿が本陣、問屋場を田中宿の分と合わせて勤めていた。



■写真は田中宿



■写真は力士雷伝碑



〇小諸城
小諸城は、武田信玄のころ山本勘助らにより現在の縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき小諸城主となった仙石秀久により完成された城です。城下町より低い位置に城を築いた「穴城」は全国でも珍しい城で「日本百名城」でもある。

■写真は小諸城址懐古園





■写真は小諸城址本丸跡と石垣



■写真は懐古神社



■写真は小諸宿本陣跡



■写真は小諸宿

<コースの記録>
(9:34)上田中央2丁目
(9:45)上田宿本陣問屋跡
(10:00)科野大宮社
(10:51)太鼓岩
(10:54)伊波保(いはほ)神社
(10:57)明治天皇御小休所跡
(11:00)岩下一里塚跡
(11:53)海野宿
(12:06)白鳥神社
(13:05)田中宿
(14:07)力士雷伝碑
(15:53)小諸城址 懐古園
(16:21)小諸宿本陣跡
(16:35)小諸荒町2丁目
 
撮影日:2018.9.17

(つづく)

加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-2-①

2018-10-11 04:01:41 | 日記


加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-2 -①(1398)

今回は9月17日(月・祝)~18日(火)13-14日目の長野県上田宿~小諸宿(19.7キロ)9月18日(火)14日目小諸宿~軽井沢宿(22.5キロ)をウオーキングした。*距離は宿間距離

◇上田宿~小諸宿(19.7キロ)

〇参勤交代制度

関ヶ原以降、江戸幕府に自発的な参上がそれぞれの藩で行われていたが、寛永12年(1635)徳川家光によって将軍と大名との主従関係を示すための軍事儀礼として 武家諸法度の寛永令で参勤交代が制度化された。当初は譜代大名に義務はなかったが7年後に全ての大名が参覲交代の対象になった。
大名は、1年おきに江戸と国元を行き来する。江戸を離れる時も、妻子は、江戸に常住する。道中の旅費、江戸の滞在費、国元と江戸藩邸の維持費等の重い財政負担が強いられることになった。

■写真は上田宿本陣問屋跡

〇科野大宮社

科野大宮社は、長野県上田市にある神社。信濃国総社と推定され、旧社格は県社。主祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと)、事代主命 (ことしろぬしのみこと)相殿神:健御名方富命 (たけみなかたとみのみこと)



■写真は科野大宮社

〇太鼓岩

上田市の岩下という場所で千曲川に浮かぶ太鼓岩です。



■写真は太鼓岩



■写真は伊波保(いはほ)神社



■写真は明治天皇御小休所跡



〇一里塚

一里塚は、旅行者の目印として大きな街道の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。
塚の側に榎などの木を植えたり標識を立てたりしていた。一里塚は中国にも存在する。一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年(1604)2月4日徳川家康が子の徳川秀忠に命じ、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりである.

■写真は岩下一里塚跡















■写真は海野宿

撮影日:2018.9.17

(つづく)

加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-1

2018-10-09 04:12:36 | 日記


加賀藩参勤 北国下街道珍道中 (上田宿~軽井沢宿)-1(1397)

今回は9月17日(月・祝)~18日(火)13-14日目の長野県上田宿~小諸宿(19.7キロ)9月18日(火)14日目小諸宿~軽井沢宿(22.5キロ)をウオーキングした。*距離は宿間距離

■写真は上田城址公園二の丸橋



■写真は二の丸橋石垣

〇上田城址公園(長野県上田市)

真田信繁(幸村)の父、真田昌幸によって築城された上田城は第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。日本百名城 27番・日本夜景遺産に認定されている。

上田城には、眞田神社・上田市立博物館などの観光スポットが集まり、上田城千本桜まつり・上田真田まつり・上田城けやき並木紅葉まつりなどのイベントが開催されている。

■写真は東虎口櫓門と南櫓



■写真は東虎口櫓門と北櫓



■写真は東虎口櫓門の鏡石







■写真は真田神社



■写真は西櫓



■写真は城址お堀



■写真は上田高校の上田藩主の居館跡の門

撮影日:2018.9.17

(つづく)

金沢の秋 -9 21世紀美術館

2018-10-08 04:15:27 | 日記


金沢の観光スポットレポート その979(No.1396)

◇金沢の秋 -9 21世紀美術館

○21世紀美術館概要

2004年10月9日にオープンしたガラス張りの円形美術館。金沢市の中心に位置しています。「まちに開かれた公園のような美術館」を建築コンセプトとし、誰もがいつでも立ち寄ることができ、様々な出会いの「場」となるような美術館を目指しています。2017年度の入場者数は237万人となっている。













■写真は21世紀美術館



〇変容する家

21世紀美術館を中心に石引エリア、寺町・野町・泉エリアで9月15日~11月4日まで開催されている日本、中国、
韓国の作家による、東アジア文化都市2018金沢「変容する家」。







■写真は21世紀美術館内にある作品







■写真は空きビルを使った作品

□変容する家ホームページ

撮影日:2018.9.13~10.1

(つづく)

金沢の秋 -8 金沢城公園

2018-10-07 04:16:49 | 日記


金沢の観光スポットレポート その978(No.1395)

◇金沢の秋 -8 金沢城公園

〇金沢城公園概要

金沢城の歴史は加賀一向一揆で支配権を握った本願寺が、天文15年(1546)に金沢御堂(尾山御坊)を建てた地に、天正8年(1580)、佐久間盛政が築城を開始、天正11年(1583)、加賀初代藩主前田利家が能登から入城し、本格的に城造りがなされました。慶長7年(1602)に天守閣が落雷による火災により焼失し、その後は江戸幕府への遠慮から再建されませんでした。



金沢城は、金沢市の市街地に位置し、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に立地する平山城である。規模は東西500m、南北760m、面積約30haである。新幹線開業以降入場者も増え、17年度の入場者数は226.3万人で前年比99.9%
と堅調な推移をしている。

■写真は石川門三の丸側のススキ





■写真は三の丸広場







■写真は秋篠宮殿下、妃殿下の植樹の松



■写真は丑寅櫓跡より菱櫓、五十間長屋



■写真は辰巳櫓跡より広阪方面











■写真は玉泉院丸庭園とマユミ

□金沢城公園ホームページ

撮影日:2018.9.3~23

(つづく)


金沢の秋 - 7 兼六園②

2018-10-05 04:38:02 | 日記


金沢の観光スポットレポート その977(No.1394)

◇金沢の秋 - 7 兼六園②



■写真は虎石付近のウメモドキ







■写真は山査子の実



■写真は藤棚の藤の実



■写真は梅林のマユミ



■写真は改装工事中の舟之御亭



■写真は梅林の曲水を清掃中





■写真は時雨亭付近の不明品種



■写真は桂坂料金所手前のヤブツバキの実

撮影日:2018.9.29 - 10.1

(つづく)

金沢の秋 - 7 兼六園①

2018-10-04 04:11:46 | 日記


金沢の観光スポットレポート その976(No.1393)

◇金沢の秋 - 7 兼六園①

○兼六園の概要

加賀百万石の文化を映す、歴史的文化遺産である。水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園の一つ、兼六園。

兼六園は江戸時代の代表的な大名庭園として、加賀歴代藩主により、長い歳月をかけて形づくられてきました。金沢市の中心部に位置し、四季折々の美しさを楽しめる庭園として、多くの県民や世界各国の観光客に親しまれている。
17年度入場者数279.9万人(前年比96.1%)であった。





■写真はことじ灯篭



■写真はすすき



■写真は宝来島







■写真はお月見飾りと眺望(卯辰山、医王山方面)





■写真は千歳橋付近のハギ

撮影日:2018.9.23

(つづく)