植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

兼六園の石塔巡り ①

2015-07-31 04:16:09 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その406(No.634)

◇兼六園の石塔巡り ①

兼六園には6個の石塔がある。桂坂口より入り霞が池~山山
~さざえ山~瓢池の順序で紹介します。

1)蓬莱島の石塔(ほうらいじまのせきとう)

霞ヶ池に浮ぶ蓬莱島は東にある立石が亀の頭、西にある石塔
を亀の尾と見立て、亀甲島とも呼ばれている。相輪部分で宝
珠の下の九輪は六輪しかなく、層塔は奇数層であるのが普通
だが、この塔は八重の塔という珍しい造りだ。もとは藩政時
代いまの茶店街の中央にあった内橋亭の露地に据えられてい
たが、蓬莱島を亀に見立てるため、現地に移されたといわれ
ている。

■写真は蓬莱島の石塔



■写真は蓬莱島(唐崎松方面から)




2)七福神山の毘沙門塔(びしゃもんとう)

七福神山のほぼ真ん中にある。藩政時代からのものではなく、
明治7年(1874)に兼六園が一般開放された時、茶店連が寄贈した
もの。石材は赤戸室石。火袋、火口がつけられて、灯籠風に造
られた石塔だ。あとからつけ加えられた造作物ではあるが、
石と樹木の築山の見事な添景となっている。

■写真は七福神山



■写真は七福神山の毘沙門塔



3)御室の塔(おむろのとう)

石川県立伝統産業工芸館の方から山崎山に上る道筋の途中に
ある。高さ約4m70cmで、塔全体は白川御影石、基壇は青戸室
石でつくられている。
名の由来は、京都仁和寺(御室御所)の古い塔を模倣したから
という説と、13代藩主斉泰の嫡母・真龍院(出自は関白の鷹司
家)の仁和寺への郷愁からという説があ

■写真は山山



■写真は山山の御室の塔

参考資料:「兼六園図鑑」インターネットより

(つづく)

野町「亜汰」の「金沢昔語り」に参加しました。(No.633)

2015-07-29 04:28:13 | 日記


◇野町「亜汰」の「金沢昔語り」に参加しました。(No.633)

7月25日(土)金沢市野町(にし茶屋街東入口近く)の
「亜汰」に於いて、荒木明日子さんの「金沢昔語り」に参
加しました。

■写真は荒木明日子さん



荒木さんは生まれも育ちも「金沢・東山」の語り手、で金
沢や全国に伝わる昔話を”金沢言葉”で語ります。

「語り」とは、昔おじいちゃん、おばあちゃんが囲炉裏端
で子どもたちにお話を聞かせたという、耳でお話を楽しむ
素朴なものです。映像がない分、聞き手はストーリーを頭
の中で想像して楽しみ、心の奥深く刻みつけます。

■写真は亜汰店舗全景



■写真は亜汰玄関



■写真は荒木さんのすばらしい髪型



最初に「芋掘り籐五郎の話、新潟の昔話、富山の薬売りな
ど物語にのめり込みハラハラしながら、楽しい時間を過ご
しました。

荒木さんは石川県立工業高校デザイン科卒業後、印刷会社
勤務を経て、上京。 株式会社グッド・ウィルにてグラフ
ィックデザイナーとして勤務後、フリーランスのイラスト
レーターとなる。楽しいイラストのホームページをご覧く
ださい。

「にし茶屋街マップ」も制作され、自作の「使ってみまっ
し金沢言葉」冊子もいただきました。

■写真はにし茶屋街マップ



■写真は金沢昔語り(表 三つ折り)



方言はその地方で都言葉が変化し何百年もかかり、熟成さ
れたものであり、その地方に行かなければ聴くことができ
ない、立派な文化であると思います。私は金沢言葉は話せ
ませんが、荒木さんのような方が伝承され、大切に残し県
民や観光客に広めたいものです。

■写真は「使ってみまっし金沢言葉」冊子

荒木明日子さんホームページ

(完)

井上靖の下宿部屋「櫻畠楼(さくらばたけろう)」②

2015-07-27 04:35:38 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その405(No.632)

◇井上靖の下宿部屋「櫻畠楼(さくらばたけろう)」②

部屋は2階にあり、8畳の床付座敷、小間、勉強部屋2畳、
と6畳の間の4部屋があり家族でも住めるくらいの間取。

■写真は勉強部屋



■写真は小間



■写真は小間の謡の本



■写真は6畳の間



■写真は櫻畠楼全景



■写真は松田店主の経営する寿司割烹「小林」



■写真は近くのW坂にある「北の海」の碑

○井上靖年譜ホーページ


(完 撮影:2015.7.16)

井上靖の下宿部屋「櫻畠楼(さくらばたけろう)」①

2015-07-24 04:19:55 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その404(No.631)

◇井上靖の下宿部屋「櫻畠楼(さくらばたけろう)」①

井上靖は昭和2年(1927)年に旧制四高に入学、卒業ま
での3年間を金沢で過ごした 。下宿先は旧桜畠6番丁
(現寺町3丁目)にある木造2階建ての建物で、井上靖
は自伝小 説「北の海」に登場させている。晩年に訪れて
懐かしんだこともあったという。井上靖が 過ごした2
階の部屋も、当時のままとなっている。

■写真は玄関



居住者が昨年亡くなり、空き家となっていたが、近所で
「寿司割烹小 林を営む松田隆さんが、井上靖ゆかりの地
として残そうと購入したもので、建物は「櫻畠楼」 と名
付けた。

見学は無料で事前予約は必要 。
寿司割烹「小林」(076)241-9054(代)

■写真は井上靖(ホームページより)



○井上靖(明治40年~平成3年)

北海道旭川で生まれ、天城湯ヶ島、三島・沼津で18歳ま
で過ごした。沼津中学(現・沼津東高校)時代には、文学
へ目覚めるきっかけとなる友人たちと出会い、金沢の四高
で詩作を始め、京都帝国大学を卒業後大阪毎日新聞社に入
社。小説『闘牛』で第22回芥川賞受賞、文壇へは昭和25
年(1950)年43歳デビュー。現代小説、歴史小説、エッ
セイ、自伝的小説、シルクロード西域関連の作品、詩集な
ど創作、その軌跡は「山脈」と讃えられ、人間の本質を優
しくとらえた井上文学、時を超えて愛されつづけている。

■写真は玄関



■写真は階段



■写真は説明する松田隆店主



■写真は座敷(8畳)



■写真は縁側

(つづく)

白山市立「鳥越一向一揆歴史館」

2015-07-22 04:21:26 | 日記


石川の観光スポット体験レポート 鳥越(No.630)

◇白山市立「鳥越一向一揆歴史館」

いつものロードバイク(自転車)の定番コース自宅~
瀬女~一向一揆の里~自宅であるが、今回はじめて
「鳥越一向一揆歴史館」を訪れた。

■写真は玄関



一向一揆歴史館は、国指定史跡鳥越城跡、二曲(ふと
げ)城跡のガイダンス施設として建設された。

館内のガイダンス室では、白山麓における一向一揆の
歴史的経緯がビデオ(約20分)上映され、展示室には、
全国でくりひろげられた一向一揆の関係資料や、国指
定史跡「鳥越城跡附二曲城跡」からの出土遺物を展示
している。

■写真は全景



◇富樫氏と加賀一向一揆

富樫氏(とがしし)は、藤原利仁に始まるといわれる
氏族で、室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を支
配した守護大名であったが、長享2年(1488)一向宗
門徒が一斉に蜂起。政親を高尾城に滅ぼした。

■写真はガイダンス室



このあと織田信長の侵略を受けるまで約1世紀、加賀
国は「百姓の持ちたる国」として一向宗門徒を中心と
した農民による合議制支配があったが、1580年の信長
の加賀平定により農民による支配は終わりを告げた。

■写真は渡り廊下











■写真は展示室



■写真は鳥越城ジオラマ



■写真は鳥越城本丸門(HPより)



■写真は鳥越城本丸跡(HPより)

○鳥越一向一揆歴史館ホームページ


(完)

初夏の兼六園 ②

2015-07-20 12:42:06 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その403(No.629)

◇初夏の兼六園 ②

兼六園の魅力は林泉回遊式の神仙思想による絶妙のレイ
アウトに橋や灯篭などに加えて、花がありどこを撮って
も絵になる大名庭園である。

○兼六園の歴史

延宝4年(1676)5代藩主・綱紀、蓮池庭の作事所を城
内に移し、その跡地に別邸を築造、御殿の周辺に作庭し
たのが兼六園の始期である。
文政5年(1822)竹沢御殿完成。松平定信から「兼六園」
の揮毫が届く。園名の命名もこの年であると思われる。
天保8年(1837)13代藩主・斉泰、霞ヶ池を掘り広げ。
蓮池庭と竹沢御殿との塀を取り、兼六園はほぼ現在の姿
に整備される。

■写真は蓮池庭と竹沢御殿図(文政期の蓮池庭)



9代の藩主と161年の歳月をかけ基礎的部分(曲水や
池)ができ。さらに明治~昭和にかけての整備を経て現
在の兼六園がある。

■写真は霞が池や曲水の完成図(文久3年以降の図)



■写真は地蔵堂(12代藩主の枕の位置ともいわれる)



■写真は根上りの松



■写真は山山御室の塔



■写真は鶺鴒島



■写真は梅園白加賀野梅実



■写真はさざえ山の避雨亭



■写真は黄門橋



■写真は瓢池海石塔と翠滝



■写真は三芳庵と灯篭

撮影:2015.5/30、6/20

(完)

初夏の兼六園 ①

2015-07-17 04:24:19 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その402(No.628)

◇初夏の兼六園 ①

兼六園の魅力は林泉回遊式の神仙思想による絶妙のレイ
アウトに橋や樹木、灯篭などに加えて、花がありどこを
撮っても絵になる大名庭園である。

■写真はことじ灯篭と虹橋



○兼六園の兼六とは?

①「宏大(こうだい)」と②「幽邃(ゆうすい)」広大
なものには幽邃(奥ゆかしく静かな)な感じがすくない。
③「人力(じんりょく)」と④「蒼古(そうこ)」人力
(人工なもの)は蒼古(古びた趣)が少ない。
⑤「水泉(すいせん)」⑥眺望(ちょうぼう)」水泉
(水)の多いところには眺望が難しい。

この3つの相反するものが共存している庭園と名づけた
とされている。

■写真は石川門橋の下坂



■写真は唐崎松



■写真は月見橋付近の月見灯篭



■写真は雁行橋と曲水



■写真は七福神山



■写真は日本武尊像と手向(たむけ)松



■写真は花見橋

撮影:2015.5/30、6/20

(つづく)

野田山墓地、大乗寺巡り ④ 大乗寺

2015-07-15 04:26:04 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その401(No.627)

◇野田山墓地、大乗寺巡り ④ 大乗寺

まいどさん16期生「よるまっし16会」は2回目の野田山
墓地、大乗寺を巡った。

◇本多家菩提寺 大乗寺

正応2年(1289)永平寺第3代徹通義介(てっつうぎか
い)禅師が曹洞宗に改修し改めて大乗寺を開山。加賀国
最初の曹洞宗寺院として寺運は隆盛した。

2代瑩山(けいざん)禅師は永光寺(ようこうじ羽咋市)
總持寺(現在の總持寺祖院)を開き、室町幕府歴代将軍
の帰依や柏原天皇の勅願寺にも定めらた。

元禄10年(1697)加賀藩家老本多政均が庇護したこと
で現在地に再建され、以後本多家の祈願所として寺領2
00石が安堵され寺運も再び隆盛します。


■写真は大乗寺総門(黒門)



○十二義士の墓

加賀藩は幕末から明治に移るとき、藩内の意見が対立し
た。筆頭家老本多政均(まさちか)は保守派の反対にあ
い暗殺された。
明治4年(1871)12人の家臣によりその仇討を果たし
たが、翌年政府より切腹を命じられる。本多家墓地前に
十二義士の墓として供養される。明治の忠臣蔵と呼ばれ、
明治6年仇討禁止令がでた。



■写真は十二義士の墓



○本多家(加賀藩家老)

加賀藩筆頭家老の本多家(加賀八家)の祖、本多政重は
徳川家康の重臣本多正信の二男で、上杉家の家老直江兼
続の娘婿になる。
本多家の禄高は大名にも匹敵する五万石で、屋敷の敷地
は1万坪あり、現在本多の森(上屋敷の庭)となっている。



■写真は本多家新墓所



■写真は山門(赤門)



■写真は仏殿



■写真は仏殿の仏像





■写真は法堂(ほっとう)





■写真は法堂の仏殿、仏像







■写真は本多家旧墓所

(野田山墓地、大乗寺巡り 完)

野田山墓地、大乗寺巡り ③

2015-07-13 04:31:19 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その400(No.626)

◇野田山墓地、大乗寺巡り ③

まいどさん16期生「よるまっし16会」は2回目の野田山
墓地、大乗寺を巡った。

○玉取り獅子

明治20年8月建立の田守呉服店の墓で、口にくわえた反物
に蓮如の六字をたらし、一家の幸せと繁栄を祈ったもの。



■写真は田守家の墓

○筆墓

文政2年(1819)4月6日没の墨清の門人による供養墓で、一
目で判る筆先と、文鎮、巻紙等等が刻まれている。



■写真は筆墓



■写真は野田口





■写真は能家の墓



○太郎田屋与右衛門(たろうだよえもん)の墓

太郎田屋一世・長谷部茂兵衛は金沢で造り酒屋をしていた。二
世・茂兵衛は明歴元年(1655)染業に転じ、家号を太郎田屋と
した。三世・紺屋棟取太郎田屋与右衛門は、正徳2年(1722)
年に帰郷した宮崎友禅斎を寄寓さた。友禅斎は享保5年(1720)
世話になった礼に与右衛門の倅、茂平に染軸の製作指導をした
のが、年号入友禅染として日本最古といわれる「紫式部石山観
月図」と言われている。この作品は加賀染と友禅染が合流した、
加賀友禅の源流といわれています。
茂平はこの年家督を相続し、四世・太郎田屋与右衛門を名乗り
延享4年(1747)没。



■写真は太郎田屋家の墓



■写真は長坂用水

○嵐 冠十郎四世(あらしかんじゅうろう)の墓

三世・嵐 冠十郎(河合吉三郎)の次男として京都で生まれ、本
名を河合理之助。小さい頃から芝居が好きで、京都に出て修行
し芝居役者となり、安政4年(1857)年、三世が金沢へ迎えら
れた時理之助も伴われてきた。元治元年(1864)年父没後再び
京都に行き、四世・嵐璃寛に入門し璃之助と称した。
明治3年(1870)年金沢に戻り、川上南芝居の座元となり、や
がて市川九蔵(七世・団蔵)一座に入り冠十郎を襲名し、金沢
に本拠を持ち、香林坊福助座に出演。大正5年(1916)からは、
下新町の福助座に出演、大正7年(1918)師匠の子、徳三郎が
璃寛を襲名する際、大阪に出て指導にあたり、大正9年(1920)
夏まで阪神の一流劇場に出演、大正12年(1923)年福助座で
引退興業。芸域の広い加賀歌舞伎最後の人物で大正14年(1925)
年没。



■写真は嵐 冠十郎四世の墓

○明治志士の墓



■写真は明治志士の墓

前田家野田山墓地紹介ページ①


前田家野田山墓地紹介ページ②

(つづく)

野田山墓地、大乗寺巡り ②

2015-07-10 04:22:22 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その399(No.625)

◇野田山墓地、大乗寺巡り ②

まいどさん16期生「よるまっし16会」は2回目の野田山
墓地を巡った。



○津田家の墓

津田米次郎(1862~1879)は19歳の時に綿織物機械「バ
ッタン」機を制作し、明治28年(1895)絹の製織にも成
功。やがて羽二重動力織機を完成し、津田式絹布力織機と
して専売特許をとった。

■写真は津田家墓(津田米次郎)

○小堀新十郎の墓

小堀遠州の孫にあたる小堀新十郎は遠州の願いにより寛永
15年(1638)、19歳で利常に仕える。この時に小堀姓と
なる。はじめ千石、のちに千五百石。四代光高の時、二千
石御馬廻組。延宝4年(1676)54歳で没。



■写真は小堀遠州の孫 新十郎の墓





■写真は小堀遠州の娘の墓

○人持組深見家の墓

加賀藩深見氏は人持組4500石で菩提寺は松月寺。







■写真は深見家の墓

○葛巻(かずらまき)家の墓

加賀藩葛巻隼人昌俊は近江国生まれ、人持組4000石で菩
提寺は松月寺。





■写真は葛巻家の墓

(つづく)

野田山墓地、大乗寺巡り ①

2015-07-08 04:19:48 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その398(No.624)

◇野田山墓地、大乗寺巡り ①

まいどさん16期生「よるまっし16会」は2回目の野田山
墓地を巡った。前回は前田家墓地を巡った。

○野田山墓地

天正15年(1587)前田利家が兄利久を葬ったのが始まり。
その後利家本人もここに葬られ前田氏の墓所となり、さらに
家臣、町人、百姓など身分、宗派に関わらぬ墓地となった。
現在は概ね前田家墓所、市営墓地、及び石川県が陸軍から引
き継いだ戦没者墓地の3つのエリアに分別される。

■写真は野田口の野田墓地地図



野田山墓地は金沢城から直線距離にして南西に約3.5キロメ
ートルほど離れたところに広がる一大霊園地です。野田山は
標高約175メートル、その山頂から山腹に広がる墓地の総面
積は43万平方メートルで、兼六園の約4倍の広さがあります。

平成21年2月12日、野田山の加賀藩主前田家墓所は、富山県
高岡市の前田利長墓所とともに国史跡として指定されました。

○室生犀星の墓所

(本名:室生照道(てるみち)、1889年8月1日-1962年3月26
日)は、石川県金沢市生まれ。加賀藩の足軽頭だった小畠家
の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児とし
て生まれた。生後まもなく、生家近くの真言宗寺院雨宝院住
職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生
児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子
として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗
ることになった。





■写真は室生犀星の墓

○御幣墓

堀五平という相撲取りの墓ではないかと言われていますが、
刻字の摩耗が激し上に今は無残な墓となって確認が困難。



■写真は御幣墓

○佐野家の墓

佐野吉之助(1864~1919)は宝生流能楽師。能楽を諸橋権
之助に師事し、謡曲を石橋和平に習い、後に宝生九郎の門
に入り研鑽をつみ、金沢に帰り北陸能楽界のために尽力し、
最後の舞台は松風のシテ役であった。







■写真は佐野家墓

(つづく)

「歴史都市金沢の魅力に迫る」の講座を開催しました。②

2015-07-06 04:32:33 | 日記


「歴史都市金沢の魅力に迫る」の講座を開催しました。②(No.623)

6月27日(土)石川県生涯学習センター「歴史都市金沢の
魅力に迫る」~これで金沢観光が楽しくなる~の講座を開催
させていだだきました。

私は2010年より年1回開催しているもので、今回は6回
目。1回目はウオーキング、2-3回目は松下幸之助、4-
5回目はウオーキングで今回初めて金沢の観光に挑戦した。

今回の講座はこのブログに掲載した内容(記事や写真)と本
や講座、まいどさん16期生の勉強会で学んだ事を私論を交
えて作成したものです。

■写真は金沢城公園の特徴



■写真は今年3月開園の玉泉院丸庭園



■写真は今年3月復元の橋爪二の門



■写真は石川門の石垣



■写真は兼六園の魅力



■写真は兼六園を支える辰巳用水



■写真は兼六園梅地図







■写真は兼六園のさくら地図

石川県生涯学習センターホームページ

石川県民大学校のページ


(完)

「歴史都市金沢の魅力に迫る」の講座を開催しました。①

2015-07-03 05:31:32 | 日記


「歴史都市金沢の魅力に迫る」の講座を開催しました。①(No.622)

6月27日(土)石川県生涯学習センター「歴史都市金沢の
魅力に迫る」~これで金沢観光が楽しくなる~の講座を開催
させていだだきました。

私は2010年より年1回開催しているもので、今回は6回
目。1回目はウオーキング、2-3回目は松下幸之助、4-
5回目はウオーキングで今回初めて金沢の観光に挑戦した。

今回の講座はこのブログに掲載した内容(記事や写真)と本
や講座、まいどさん16期生の勉強会で学んだ事を私論を交
えて作成したものです。

■写真は筆者



■写真は当日会場





■写真は講座内容



■写真は金沢の略歴



■写真は金沢の魅力(個性)



■写真は金沢市内の重伝建地区





■写真は時代のバウムクーヘン(藩政期~平成)

石川県生涯学習センターホームページ

石川県民大学校のページ

(つづく)

石川県立歴史博物館リニューアルOPEN! 特別展

2015-07-01 05:14:10 | 日記


金沢の観光スポット体験レポート その397(No.621)

◇石川県立歴史博物館リニューアルOPEN! 特別展

春季特別展 江戸と金沢 -北国下街道を歩いた人びと-

北陸新幹線金沢開業記念として江戸と金沢の交流の歴史を探
る企画で4月17日より5月31日まで開催された。

■写真は江戸と金沢エントランス



■写真は第1棟の階段



江戸時代に幕府が置かれ首都機能を有していた江戸と、地方
の大都市金沢は、北国街道を通じて結ばれており、前田家の
参勤交代に代表される人や物の往来を通じて密接な関係を築
いてきました。江戸の加賀藩上屋敷には2000~3000名が生活
していたと考えられ、藩士やその生活を支える人たちが頻繁
に行き来していました。

本展では「江戸と金沢の交流」「城下町金沢」の2つ柱によ
り、参勤交代の様相、加賀藩邸と江戸の名所、街道を行く、
金沢城と城下、文化の交流などのテーマを設け、江戸と金沢
の交流の歴史を探ります。

■写真は参勤交代屏風



■写真は加賀藩下屋敷の籠



■写真は江戸加賀藩邸と名所



■写真は宿場本陣看板



■写真は金沢城の図面



■写真は竹沢御殿と蓮池庭図面



■写真は辰巳用水長巻図(1834)



■写真は兼六園瓢池翠滝絵

(完 撮影:2015.5.30)

石川県立歴史博物館ホームページ
http://ishikawa-rekihaku.jp/