鏡花水月紀。

日々の言の葉、よしなしごと。

町家巡遊2010「宮崎寒雉氏の自宅兼作業場拝見」へ。  

2010-11-01 | ぐるぐる町家巡遊
10月30日に、むさしエリア(武蔵ケ辻、彦三町、尾張町、博労町、下堤町など)で行われていた
町家巡遊2010の催し「14代 宮崎寒雉氏の自宅兼作業場拝見」に行ってきました。

宮崎寒雉さんとは、加賀藩の御用釜師として茶席で使う茶釜品を作ってこられたお家です。
御先祖をたどると能登穴水町中居在の鋳物師。中世から近世にかけ中居は鋳物の町として栄え、
製塩のための塩釜や梵鐘、仏具、火鉢、鉄瓶風呂釜、火箸などふだんの暮らしに関わる品々を生産していました。

最初に金沢に移住したのは宮崎彦九郎義綱という人物。
天正9年(1581)加賀藩主前田利家の招きによります。
おそらく利家が七尾にいた頃から武具の製作を依頼するなどお付き合いがあったのでしょうね、
金沢に招かれた当時も武具等の鋳造を行っていたようです。
やがて、5代藩主綱紀の時代に、茶道奉行に千仙叟を京都から迎えたことにより、
彦九郎の子の義一は仙叟に師事を仰ぎ、茶釜の製作をはじめ藩御用釜師になりました。
仙叟より寒雉菴号の名を受けた義一は、加賀茶の湯釜の創始者となり、
以後、宮崎家は代々、寒雉菴彦九郎を襲名し現在にいたっています。

宮崎家は江戸後期までは金沢駅近くに家があったそうですが、
そこは蓮田があるような湿気の多い土地で鋳物には不向きだったため、
江戸後期に現在の金沢市彦三町(ひこそまち)へ引越。
彦三町は浅野川左岸にあり、藩政時代、不破彦三という4500石どりの加賀藩重臣の屋敷と
その家臣団の住む下屋敷があったところでした。

それら古い屋敷は残念ながら時代とともに消えていき、
また昭和元年の大火も追い打ちをかけ殆どなくなりましたが、
焼け残った土塀やそれ以後に建てられた昭和初期の町家が建っており、
宮崎家もそういうなかの一軒です。
もう間もなく宮崎家というところで、前方に見憶えのある素敵な着物美人の姿が!
先週、かたかご庵のお茶時間に参加してくださったTさんでした。
先日のお礼とご挨拶をのべながら一緒にお玄関へ向かい、
ご当主にお出迎えいただいてあがらせてもらいました。



現在の宮崎家は彦三の大火後の昭和2年に建てられました。
外観は入母屋造りの風格ある佇まい。お部屋の造りは金沢の町屋らしく繊細。
受付をした小上がりの次の間の入り口に「寒雉庵」の扁額があり(千家の方によるもの)、
奥へ進むと炉がきられた8畳のお部屋、
そしてその向こうには飛び石と杉苔も美しいお庭が続いていました。



まだお話の時間に早かったので庭に下りました。
右手に母屋から続く蔵があり、その奥が工房。鋳物の工房らしく砂が敷かれてあり、
この砂が釜を鋳抜くときの材料にもなり、
また鉄を溶かした湯がこぼれても事故を防ぎ防火の働きをもするものです。
工房の隅には釜の型など年季のいった道具類が積み重ねられて。
庭の左手には武家屋敷の名残の土塀。
武家屋敷と屋敷の間に職人や町人の家があったそうです。



やがて時間になり寒雉さんのお話がPCとプロジェクターを使って始まりました。
まずは宮崎家の出自の話があり、中居にある資料館の写真をご紹介いただきました。
面白かったのは、中居では塩釜を造ったのを製塩業者にリースしていたことや、
京都の真継家というのが鋳物師を束ねており、関所を抜ける際は菊のご紋入りの旗を掲げていったことなど。
また床の間に置かれた初代寒雉作の釜「焼飯釜」「塩屋釜」にまつわる
茶の湯の師でもあった千仙叟との面白い物語もお聞きすることができました。
そこからは二人の間柄を伺い知ることができ、
釜もその生まれた来歴を知ることで、心楽しく拝見することができました。

そして茶釜の造り方も順をおって解説いただきまして、ふうんと関心することしきり。
茶釜は鋳抜けばそのあと磨くくらいかと思っていましたが、
生漆を内と外に塗って焼き、寒雉独特の肌あい、調子をだす。
この辺りは実は秘伝で、利休の思う侘び寂びの表現。
こればかりは長年の仕事で身についているものであるからして、
言葉に落とすのは難しいことだろうと思います。

思いのほか気さくなお人柄だった14代。
金沢弁もまじえての1時間は実にほっこりと、佳い時間を過ごさせていただきました。
ありがとうございました。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿