25日、金沢湯涌江戸村へ行ってきました。時おり雨雲がかかると雨がぽつぽつ落ちてきましたが、概ね秋らしい蒼穹の広がる良い日よりでした。
既に4年前から公開されている茅葺き農家群の前をすぎると、加賀藩上級武士の旧多賀家表門。そこが正門になる出入り口。矩の字にまがった土塀の先に、新たに公開になった町家・武家群がありました。
入ってすぐ右手には、国の重要文化財で金沢近郊の鶴来街道沿いの商家だった「旧松下家住宅」。往時も今も種苗店として市民に親しまれており、開村式には5代目当主の松下良さん姿もありました。
その隣は竪町入り口にあったという「旧山川家」。こちらは県の文化財でベン柄格子も艶やかです。吹き抜けの梁がとても細くて、一緒に見てまわった建築士のくろひょうさんも、こんなに細いのは初めてと驚くほど。
さらに先に進むと大正から昭和にかけて政界で活躍した永井柳太郎の生家「旧永井家住宅」。元は足軽屋敷だった家は6畳や4畳半のといった小さな間取りがこまごま。武士の家は階級ごとに家の建て方も決められていました。
旧永井家を過ぎて右へ折れると国の重要文化財「旧鯖波本陣石倉家住宅」。かつては福井県南条町(現・南越前町)鯖波の宿場本陣として使われていたもの。一見するとお寺かと思うほどの大きな切妻の屋根をもち、その吹き抜けのスケールは圧巻。に圧倒されました。
松下家、山川家、永井家は木葉(コバ)の上に石をおいた石置き屋根です。今も金沢市野町の森紙店はこの石置き屋根です。基調講演をされた千葉大学名誉教授・大河直躬さんの話によると、戦後まだしばらくは金沢の繁華街裏通りの家は半数以上この石置き屋根だったそう。
春になると屋根屋さんが各家をまわってきて、木葉を表裏かえし、雪によってずれた石を直したていたそうです。なんだかいい時代。
ここで「金沢湯涌江戸村」が出来上がるにいたるまでの運びを少しおさらい。
かつて湯涌温泉街の高台には『白雲楼ホテル』というホテルがありました。
1932年に建てられ、その本館玄関は近代建築三大巨匠の一人フランク・ロイド・ライトによる設計で、南欧と北欧の建築様式が調和した建物でした。その豪奢な作りは東洋一というキャッチフレーズまでついていました。戦後はGHQの保養施設に摂取されたり、昭和天皇などもお泊りに。
往時の様子は、こちらのサイトへ。
しかし残念ながら経営していた会社が1999年に倒産。競売にかけられたもののなかなか落札者が決まらず、落札後も諸般の事情で長らく放置され、その後金沢市に譲渡されました。しかし時既に遅し――。建具は壊れ、吹きさらしになった室内には苔や草が繁茂。壁は崩れ床は抜け落ちといった荒れようで、やむなく市は撤去の決断を下しました。
その経営していた会社が江戸村、檀風苑という野外施設群も持っていました。それらも市が引き取り、「金沢湯涌江戸村」に移築されたというわけです。まだ旧江戸村には何棟か残っており、いずれはそれらもこの新たな地に移設されていきます。
大河さんが「これまでは移築され出来上がった建物を見るだけの時代だったが、今は違う。ぜひ、工事の途中、どんな作り方、どんな手仕事で建てられるのか、そんなところも見せていってもらえれば」とおっしゃっていたように、金沢湯涌江戸村が、湯涌の新しい観光名所であると共に、技術や文化の伝承の場としても活用されていけば良いなと感じました。
さて気がつくと時計は12時をまわり、お腹が空いてきました。
湯涌温泉街の食事どころたかおで、くろひょうさん、石川県茅葺き文化研究会(以下、茅文研)のS理事とで昼食を食べながら、あれこれ歓談。
そのなかで今から三年ほど前、茅文研の依頼で県内の茅葺き民家をヒアリングに回った七尾市のMさんのお宅が、七尾市に相談があったことを聞きました。
記憶を辿っていくと、確かヒアリングに伺った年の前年くらいに息子さんを亡くされていたはずで、Mさんご自身も今年85歳くらいにもなられたはず。曽祖父の代からの屋根を守っていかなくてはと仰っていたことが鮮明に思い出されてきました。
お話はきっと屋根だけではなく、築160年の家自体をどうしたらよいものかというところにもありそうです。善はいそげ、2日、S理事と七尾へ行ってきます。
既に4年前から公開されている茅葺き農家群の前をすぎると、加賀藩上級武士の旧多賀家表門。そこが正門になる出入り口。矩の字にまがった土塀の先に、新たに公開になった町家・武家群がありました。
入ってすぐ右手には、国の重要文化財で金沢近郊の鶴来街道沿いの商家だった「旧松下家住宅」。往時も今も種苗店として市民に親しまれており、開村式には5代目当主の松下良さん姿もありました。
その隣は竪町入り口にあったという「旧山川家」。こちらは県の文化財でベン柄格子も艶やかです。吹き抜けの梁がとても細くて、一緒に見てまわった建築士のくろひょうさんも、こんなに細いのは初めてと驚くほど。
さらに先に進むと大正から昭和にかけて政界で活躍した永井柳太郎の生家「旧永井家住宅」。元は足軽屋敷だった家は6畳や4畳半のといった小さな間取りがこまごま。武士の家は階級ごとに家の建て方も決められていました。
旧永井家を過ぎて右へ折れると国の重要文化財「旧鯖波本陣石倉家住宅」。かつては福井県南条町(現・南越前町)鯖波の宿場本陣として使われていたもの。一見するとお寺かと思うほどの大きな切妻の屋根をもち、その吹き抜けのスケールは圧巻。に圧倒されました。
松下家、山川家、永井家は木葉(コバ)の上に石をおいた石置き屋根です。今も金沢市野町の森紙店はこの石置き屋根です。基調講演をされた千葉大学名誉教授・大河直躬さんの話によると、戦後まだしばらくは金沢の繁華街裏通りの家は半数以上この石置き屋根だったそう。
春になると屋根屋さんが各家をまわってきて、木葉を表裏かえし、雪によってずれた石を直したていたそうです。なんだかいい時代。
ここで「金沢湯涌江戸村」が出来上がるにいたるまでの運びを少しおさらい。
かつて湯涌温泉街の高台には『白雲楼ホテル』というホテルがありました。
1932年に建てられ、その本館玄関は近代建築三大巨匠の一人フランク・ロイド・ライトによる設計で、南欧と北欧の建築様式が調和した建物でした。その豪奢な作りは東洋一というキャッチフレーズまでついていました。戦後はGHQの保養施設に摂取されたり、昭和天皇などもお泊りに。
往時の様子は、こちらのサイトへ。
しかし残念ながら経営していた会社が1999年に倒産。競売にかけられたもののなかなか落札者が決まらず、落札後も諸般の事情で長らく放置され、その後金沢市に譲渡されました。しかし時既に遅し――。建具は壊れ、吹きさらしになった室内には苔や草が繁茂。壁は崩れ床は抜け落ちといった荒れようで、やむなく市は撤去の決断を下しました。
その経営していた会社が江戸村、檀風苑という野外施設群も持っていました。それらも市が引き取り、「金沢湯涌江戸村」に移築されたというわけです。まだ旧江戸村には何棟か残っており、いずれはそれらもこの新たな地に移設されていきます。
大河さんが「これまでは移築され出来上がった建物を見るだけの時代だったが、今は違う。ぜひ、工事の途中、どんな作り方、どんな手仕事で建てられるのか、そんなところも見せていってもらえれば」とおっしゃっていたように、金沢湯涌江戸村が、湯涌の新しい観光名所であると共に、技術や文化の伝承の場としても活用されていけば良いなと感じました。
さて気がつくと時計は12時をまわり、お腹が空いてきました。
湯涌温泉街の食事どころたかおで、くろひょうさん、石川県茅葺き文化研究会(以下、茅文研)のS理事とで昼食を食べながら、あれこれ歓談。
そのなかで今から三年ほど前、茅文研の依頼で県内の茅葺き民家をヒアリングに回った七尾市のMさんのお宅が、七尾市に相談があったことを聞きました。
記憶を辿っていくと、確かヒアリングに伺った年の前年くらいに息子さんを亡くされていたはずで、Mさんご自身も今年85歳くらいにもなられたはず。曽祖父の代からの屋根を守っていかなくてはと仰っていたことが鮮明に思い出されてきました。
お話はきっと屋根だけではなく、築160年の家自体をどうしたらよいものかというところにもありそうです。善はいそげ、2日、S理事と七尾へ行ってきます。