終わりの始まり
「本当は、誰も大事にしてへんねん!」
桑原君が、グラスを見つめながら声を上げる。いきなりの大声に、“ディキシー”に一瞬の静寂が訪れる。
「何言うてんの?!桑原君!」
夏美さんが滑るようにやってくる。止まっていた“ディキシー”の空気が、また動き始める。僕は、グラスに残っていたジンライムを一気に飲み干す。
「折角ここまで頑張ってきたんちゃうの?無駄にしたらあかんよ、桑原君」
押し殺した声で、夏美さんは桑原君に自制を求める。しかし、桑原君の薄笑いに自制する意志のなさが表れている。
「店の前まで来た時はまだ決めてなかったんやけど、柿本君に会うことができて、うどん食べさせてもろうて、身体が温まってくると、なんやあほらしゅうなってきたんや」
夏美さんの目線を避け、僕に向かって桑原君は語り始めた。尋常ではない空気を察した柳田がグラスを両手にやってきたが、夏美さんに制されキッチンに戻って行く。
「“目が覚めた時、ぼーっとしてるやろう。あれは、頭があほらしい現実に向かっていく準備をしてるんや”て、小杉さんが言わはったことあるけど、ほんまそんな感じやったわ。で、な!君の恋愛の話聞いてるうちに、俺のやってきたことや俺がやってることが……言い方替えると、俺が俺の現実や思うてたことが、架空の世界に思えてきたんや。その架空の世界に俺をつなぎとめてたんが、これ!……いや、それももう手放したけどな」
膝の辺りを一旦まさぐり、そこにもう風呂敷包みがないことに気付き、桑原君は微かに苦笑する。
「よっぽど、大切にしてたんやなあ、あの風呂敷」
僕の気持が、一気に好奇心へと傾いていく。あの、夏美さんにとっても意味ありそうな、あの風呂敷の中身は、一体何だったんだろう。
「大切にしてた?いや、囚われてたのかもしれへん。いや、むしろ、支配されてた言うた方がええかもしれへんわ。なんせ…」
桑原君が風呂敷の中身に言及しようとした時、夏美さんの指が唇を押さえた。
「それ以上はあかん。迷惑かかる人多いんやからね!」
「え、え、やないですか~~」
口角から微かに不満の声を漏らしたが、さらに強く押さえられ、やがて桑原君は沈黙した。
「久しぶりなんやろ?あんたたち。楽しい話した方がええんちゃう?なあ、柿本君」
場を和ませると同時に、自分自身の緊張もほぐそうと、夏美さんが声を大きくする。それに呼応するように柳田が現れる。今度は、グラス3つを両手で持っている。
前に並べられていく3つのグラスを三人で見つめた後、夏美さんの音頭で乾杯をする。ぎごちないのはやむを得ないとしても、乾杯の時にも激しくぶつかる夏美さんと桑原君の視線が気になってならない。
「いやあ、君は意識してないやろうけど、助けてもろうたなあ、今夜は」
数口ジンライムを舐めると、桑原君が穏やかな表情を向けてくる。憑いていたものが落ちたかのような変わりようだ。
「すうどん?安いもんやないか」
「それだけやない。それだけやないんや。おそらく、君が意識してへんかったことなんや。意識してないとうまくいかへんことも多いけど、意識するからこそうまくいかへんことも多いやろ?」
思わず僕は、「うんうん」と大きく頷く。
「複数の人間が関係することって、全員が意識し続けてないとうまくいかへんやろう?だから、理念とか目標とか、みんなの意識の心棒を作るんやもんなあ。俺、高校の体育祭でやった棒倒し思い出してたもんなあ、学生運動に飛び込んでからずっと」
「似てるかもしれへんなあ。……でもそれ、共闘と言うより内ゲバのイメージちゃう?」
曇りのない情熱で飛び込んだからこそ、桑原君がぶつかった疑問と悩みは大きかったのかもしれない。しかし、学生運動に手を染める動機となったエネルギーは、小杉さんも同質だったのではないか。
「疲れてたんやなあ、桑原君」
「一言で言うたらそういうことかもしれへんなあ。やろうとしてることは一人ではできひんし、人が集まると棒倒しになってまうし。……そやねん。だから一対一の友人として接してくれて、自分の失敗談を臆面もなく話してくれた君が救いになったんや。……ほんま、ありがとう」
「臆面もなく、て。聞かせたい話やなかったんやけどなあ」
意識せざる行為が友人の救いになるのはうれしいことだが、いささか気恥ずかしくもある。
「デモにふらっと参加して小杉さんと出会った頃は、小杉さんとも一対一の関係やった思うんやけどなあ」
そう呟くと桑原君は、別れた人との思い出を辿るような目になった。
「小杉君、一人ひとりとの関係を大切にする人やもんねえ」
夏美さんがオールドをぶら下げてやってくる。その目はもう、いつもの夏美さんに戻っている。
「いちいち運ぶの面倒やから、これ、勝手に飲んで。おごり!半分くらいしか入ってへんけどね」
オールドを桑原君に手渡し、その場を去って行く。話を中断し下に向けていた目を上げた桑原君は、「すんません、いろいろと……」と、その後姿に頭を下げた。僕の頭の中では、奈緒子との失敗と、桑原君と小杉さんの経緯が錯綜したままだ。
「小杉さんに心酔してた、て京子から聞いたけど…」
「あ!すまん、すまん。京子が迷惑かけたらしいなあ。君のとこ行く思わへんかったわ、ほんま。すまんことしたなあ」
「いやいや、迷惑いうほどのことも…」
「学生運動に飛び込んで、小杉さんと知り合い、京子と付き合うようになって、俺、えらい得した思うてたくらいなんや。尊敬できる先輩と愛すべき女性の両方を得たんやからなあ。下心があったわけやないけど、志を同じにしている仲間に出会うとええことばっかり起きるんや思うて、図に乗ってたくらいやもん」
「あの頃、勢いと自信に溢れてたもんなあ、ちょこっと会っただけでもわかるくらい」
「そうやろう。俺の言うとおりにせんかい!そうした方がええでえ!て気分やったもんなあ。おせっかいな話やで」
「じゃ、なんで急に京子の部屋から出てったんや?」
知り合い程度にしか過ぎなかった京子が訪ねてきたことから、小杉さんを始めとする黒ヘルメンバーとの接点も生まれたのだ。そのきっかけとなった桑原君の失踪事件の真相は、知りたいところだ。
「その件は、もう少し飲んでからにしてくれへんかなあ。話づらいことやねん」
「わかった!じゃあ、小杉さんのことは?」
和恵の下宿の窓から見た、京子の後を追いかけていく三枝の後姿を思い出し、京子の話はとりあえず訊かないことした。となると、あの風呂敷包みと関係のありそうな小杉さんとの経緯に興味は絞られてくる。夏美さんの関わりもあると思われるので、額を近付け声を潜めた。
「あの人自身がずっと壁にぶつかってたんやなあ。今思うと…」
桑原君が語り始めたのは、一人の男としての理想の追求と、リーダーとしての役割を果たすことの折り合いをつけようと苦闘する小杉さんの姿だった。
小杉さんは、一人としてメンバーをリクルートしたことがなかった。彼に興味を抱き近づいて来る者は、学生であるなしに関わらず受け入れた。男女を差別することもなかった。一人ひとりとただただじっくりと話し、時には怒り、時には同情の涙を流した。そして、理想を語った。
小杉さんの理想は、“不正なき社会の実現”だった。しかし、そのための方法論は持っていなかった。一人ひとりが自らに問い掛けていくべき問題だ、と語るのみだった。
「少なくとも知り合った最初の頃は、そういう言い方してはった印象が強いなあ。でも少しずつ変わっていくんやけどな」
桑原君は当初、闘争方針のないグループだと思った。禅問答をしているような錯覚さえ覚えた「アナーキストって、こういう人のことを言うのかなあ、て思うた」らしかった。
しかし、語るだけでは学生運動は成立しない。いつの間にかメンバーを自認する者が10名を超えエネルギーが充満してくると、それは出口を求めて蠕動を始めた。リーダーと呼ばれるようになっていた小杉さんに、出口探しが求められた。
「多分ちょうどその頃やねん、俺が小杉さんと知り合うたんは。過激派や言われてたけど、メンバーの言動がそう思わせてるだけのように俺には見えたなあ。小杉さんはむしろ抑えようとしていて、過激なこと言う奴との会話は避けてるようやったわ」
そんな中で、個人としてのつながりをより強く求めてくる桑原君は、小杉さんにとって本音で語ることのできる数少ない男となっていった。充実した時間は、しかし、長くは続かなかった。
「“一人一殺”て言い始めたんや、小杉さんが。“人を殺す”て概念、小杉さんにある思わへんからびっくりしたんやけど、わかってきたんや、しばらくすると。多くの人を巻き込みかねない闘争より、大きな不正を働く人物一人を狙った方がいい。そう考えはったんやなあ。15人くらいでも組織は組織やし、上の方の人間が過激さを争うようになってたし……」
桑原君は大きく吐息をついた。思わぬ方向に転がるエネルギーは、小杉さんをもってしても止められなかった。そのことが、悔しくてならないようだった。
「それでわかったような気いするわ。小杉さんの印象と“一人一殺”があまりにも遠かったんや、僕にとって」
「いや、それはそうとも限らへんかもしれへんで。小杉さん、ひょっとしたら“一人一殺”て口にするようになって、初めて自分の中にある過激さに気付かはったのかもしれへんしなあ。実際、そう言うようになってからの小杉さん、自信が生まれはったようやったし。でも、俺はそれがいややったけどな」
「それで?君、どうしたんや」
「久しぶりにじっくり話したんや。一ヶ月以上もほとんど口利いてへんかったし。なんとか隊とか勝手に名前付けて隊長を名乗ってる連中とばっかり話してはったからなあ、小杉さん。他のセクトの連中と話すことも増えはったし…」
すると小杉さんは、釜ヶ崎に行って暮らしてみることを勧めたという。“自分の原点を君にも共有してもらいたいんや”ということだった。
“原点の共有”という言葉は、桑原君にとって魅力的だった。しかも、京子との暮らしに暗雲が立ち込め始めていた時でもあった。桑原君は、すぐに行動に移した。
「それ、もう1年以上も前の話やないか?ずっと釜ヶ崎にいてたんか?君」
僕が問い掛けると、「いるのはいたんやけどな…」とだけ言って、桑原君は突然押し黙った。
次回は、3月10日頃を予定しています。
*第一章:親父への旅 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7
*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981
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