秘密の共有
咄嗟に“ディキシー”を諦め、桑原君の腕を取って引き寄せ、河原町通りに出た。雑踏に紛れた方が安全だと思えたからだった。
しかし、晴れ着姿も消え普段のにぎわいを取り戻した河原町通りの明るさの下でもう一度桑原君を見ると、その異様さはむしろ際立って見えた。濃紺の薄いセーターにはそこかしこに泥らしきものが付着し、首元に覗くシャツの襟も黒く汚れていて、しっかりと小脇に抱えた紫と白の風呂敷包みが、否応なしに目立っていた。
風呂敷包みが間になるように彼の肩を引き寄せると、腰に固い異物感を感じる。隠すべきものだろうと、桑原君を抱きしめるようにさらに強く引き寄せた。肩に回した手が彼の身体の冷たさを感じた。
「腹減ってるんちゃうか?何か食べさしたろか?」
そう言うと、桑原君の肩が震えた。
表通りを避け、高野川沿いにある立ち食いうどんの店に連れて行く。カウンター下の棚に風呂敷包みを置くと、ゴトリと音がした。すうどんを注文し、鼻をすすりながら並んで食べた。
「ありがとさん」
食べ終わると桑原君は小さく頭を下げた。
次いで、「突然で、びっくりしたやろ?山下君に聞いてきたんや」と言って上げた顔には微笑みがあった。これまでの経緯を話す気になったんだと感じたので、「“ディキシー”行こうか?あそこやったら安心やろう」と言うと、桑原君は一瞬戸惑った目をしたが、コクンと頷いた。
幸いにして“ディキシー”に客は少なく、桑原君が怪しまれることもないよう思えた。が、桑原君の目は僕を待ち伏せしていた時の射るような鋭さを取り戻していた。
「あ、どうも。あけましておめで………とうございます~~」
夏美さんよりも先に僕たちの入店に気付いた柳田が、桑原君を認めた瞬間言葉を詰まらせたが、夏美さんが頷くのを見て気を取り直したようだった。
「あけましておめでとうございます。年末はご迷惑をおかけして…」
カーテンの向こうに消えていく柳田に、そして夏美さんに、新年の挨拶と旧年の謝罪を送り、カウンターの奥に桑原君を座らせる。数日前には、奈緒子が座った席だ。
「もう、さすがに酔いは醒めたみたいやねえ」
夏美さんが穏やかな笑顔で近付いてくる。しかし、その頬には小さな強張りがあるように見える。桑原君は身を固くして、膝の上の風呂敷包みを握りしめている。“ディキシー”の一隅に漂う刺々しい空気を切り裂こうと、僕は奈緒子の話をすることにする。
「お世話になりました、いろいろと。彼女を泊めてもらって……。僕もすっかり柳田さんにお世話になって……」
柳田が大きく頷きながら僕達の前にグラスを置き、「今夜もいきますか?」と悪戯っぽく笑った。僕との距離が大きく縮まったようだ。
「久しぶりやな~、ジンライム」
グラスを見つめる桑原君を促し、「再会に!」と乾杯をする。どうしても、奈緒子との一夜と重なってしまう。奈緒子だったらよかったのに、と目を落とすと、桑原君の右手はまだしっかりと風呂敷包みを握っていた。
「心配いらへんからね、大丈夫よ」
夏美さんが掛けてきた言葉に、僕よりも桑原君が反応する。しかし、
「恥ずかしい姿見せてもうて……」
と僕が応じると、意識を目の前のグラスへと切り替えた。
「私からすると、可愛かったわよ、二人とも。私かてまだそんな年違うけど、若いわねえって感じやろか。羨ましかったわよ」
「いえいえ、それは青いってことで…」
「みんな青いんちゃうの?最初は。それ恥ずかしがってたら、熟すこともできひんのちゃう?」
「いやあ、それにしても……」
「スカート汚したんやもんね、柿本君。それは気になってもしゃあないわよねえ。でも、きれいにできる汚れは、洗濯すれば落とせるからかまへんのよ」
「落ちました?」
「あんなもん、落ちるわよ。少しシミは残るやろうけど。まあそれはそれで思い出やし、ね。汚すのは傷付けるのより、ましなんちゃうかな」
「彼女、傷ついてませんでした?」
「さあ、どうかな?」
そう言い残してカーテンの向こうへ消えた夏美さんを、僕は思わず中腰になって追う。
「彼女できたんや、柿本君」
「彼女……なんやろか?そうなんやろうけど……。えらい失敗してもうて……」
「なんや山下君も彼女できたみたいやし。みんなすごいなあ」
「山下君の先輩の女の人?」
「あれ、彼女ちゃうの?」
「どうやろう。山下君、そう思ってるみたいやった?」
「俺の勘違いやろか?そう思ったけどなあ。仲良く修行してるみたいやし」
「あいつ、まだ逃げ出さんと頑張ってるんやなあ」
ジンライムが桑原君の緊張をほどきつつあるようで、彼の口を滑らかにしている。しかし、
「長い間、何処にいて何してたんや、桑原君」
と踏み込むと表情が硬くなる。
「何処にいたとしても、何をしてたとしてもええやないの、こうやって、ここで会えてるんやから。ねえ、桑原君」
山盛りの殻付きピーナッツを運んできた夏美さんが、初めて桑原君に話しかける。
「ピーナッツ、殻付きが好きやったよね、確か」
そう言われ、桑原君は微笑む。安堵の微笑みに見えたが、殻を割ろうと右手を出しかけて躊躇し、グラスに添えていた左手に風呂敷包みを持つ役割を交代させた。
「その荷物、預かりましょうか?」
右手だけでの殻むきに苦戦している桑原君をしばし見ていた夏美さんが声を掛ける。と、不思議なことに、すぐ桑原君は「じゃ、お願いします」と応えた。
しかし、僕の前での受け渡しは行わず、わざわざカウンターの反対側に風呂敷包みを持って移動して行く。カウンターを挟んで夏美さんも移動。入り口近くでドアを気にしながら素早く手渡された風呂敷包みを、夏美さんが抱きかかえるようにカーテンの奥へと持って行った。
肩の荷を下ろした気分なのか、ストゥールに座り直した桑原君の顔は晴れやかだった。
「すまん、すまん。大切なもの持ってると気になってなあ」
手を放した瞬間に心も解放されたようだ。
「何が入ってるんやろう。気になるなあ」
さりげなく呟くと、「知らん方がええよ。俺が持ってたことも忘れてくれへんかなあ。……それは無理か」と言ってグラスに手を伸ばす。
「やばいもんちゃう?それ、夏美さんに預けたらかわいそうちゃうの?」
僕が食い下がると、少し考える顔になってから夏美さんを見た。
どこかに片づけ終わった夏美さんは、何もなかったかのように微笑みながら近づいてくる。
「そうそう、奈緒子ちゃん、こんなこと言うてたわ。“私は急ぎ過ぎで、柿本君は考え過ぎ”やって。うまいこと言うわねえ、あの子」
「そんなこと言うてましたか。……なんか僕、恥ずかしい奴ですねえ」
奈緒子の短い言葉に、あの夜が集約されているような気がしたが、奈緒子の、その冷静な見方に比べて僕は、ただただ自分の嫉妬や後悔とだけ格闘していたと思うと、情けなくてたまらなかった。
「嫉妬は恥ずかしいものと違うよ」
僕の想いを察したのか、夏美さんが続ける。
「人を好きになるいうことは、嫉妬との闘いが始まることでもあるんちゃうの?難しい闘いやけどね。でも、みんな、恋した人はそれぞれの闘い方を覚えていくもん違うかしら?大人になるって、ほんまに大変よね~~」
夏美さんの言葉に、桑原君がにんまりと僕を見つめ、それから神妙な顔つきになっていく。
「深刻な話でもないんやけどなあ。僕が失敗を繰り返し、ひょっとしたら大事なものを失ったというだけのことやから」
桑原君の突然の表情の変化に戸惑い、独白するように呟く。すると桑原君は落としていた目を上げ、僕を凝視した。
「俺、今の話聞いてて、突然気い付いたんや。俺は、俺がカッコいいと思う男たちに憧れ、追いかけていただけだったんやないか、って。ほんで、追いかけて近づけなくて、嫉妬してたんやないか、って。理想や、行動や、言うてたのは、ひょっとしたら、俺の嫉妬と闘う方便やったのかもしれんなあ、思うたんや」
桑原君の熱い目には後悔の憂いはなく、気付きの喜びが見える。
「一生懸命やったもんなあ、君」
いつも真っ直ぐな目で、勢い込むように直進していた桑原君の姿が、懐かしく思い出される。その背中は切れ味鋭く颯爽としていた。
「小杉さんが、俺と秘密を共有しようとしてくれはったのは、やさしさだったんやなあ。俺を買ってのことやなかったような気いするわ。せやから重かったんや。片思いみたいなもんやったんや」
悔いの一切感じられない晴れやかな顔付きとは裏腹の、桑原君の語ったことの重さに、僕の幼い恋の話は消し飛んでしまう。そして、そこに出てきた小杉さんの名前に俄然興味は傾いていく。
「桑原君!」
夏美さんの叱責するような声が飛んでくる。
「いや、もうええんちゃいますかねえ。きっといいんですよ。さっきのこと、忘れてください。それでええんやと、僕は思いますよ」
毅然とした言葉を返し、桑原君は一息ついた。
次回は、3月8日頃を予定しています。
*第一章:親父への旅 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7
*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981
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