崖っぷちへ
喫茶“白鳥”から出ると、義郎は空を見上げた。快晴だった。千切った綿のような雲が数個、ゆるやかに浮かんでいる。
振り返ると、4人の笑顔があった。勘定を終えて出てきた長沼の顔も安堵している。
「じゃ!今日も頑張りましょう!」
義郎は、一人ひとりと握手をしたい気持ちを言葉に込めた。
「頑張りましょう」
「現場が待ってるもんね」
「遅くなったもんねえ」
「すいません、引き留めて」
義郎の一言が明るい波紋を広げていく。義郎は、もう一度空を見上げた。少しだけ背が高くなったように感じた。
その日一日の仕事を終え、家路を急ぐ。晴れやかな気分を早く家に持ち帰りたかった。
「ただいま~~」の声に、出てきた優子の顔が輝く。
「うれしそうね~~。いいことあったの~~?」
「うん。いいこと……かな?」
空の弁当箱を手渡す義郎の胸が少し反り返る。
「今朝、会議があったんでしょ?」
優子の言葉に立ち止まる。反り返った胸がしぼんでいく。
「なんで、知ってるの?……ひょっとして、聡美ちゃん?」
「うん。いるわよ」
顎で指されたリビングの方を見ると同時にドアがそっと開き、聡美の顔が覗いた。
「お疲れ様~~~」
いつもの元気な声だが、笑顔がぎごちない。
「お久しぶりですね~~」
幸助の高校入学祝に訪れて来たのが最後だ。丸1年経っている。
義郎は、安原の親父に丁稚奉公していた頃からの癖で、聡美には丁寧な言葉遣いしかできない。
「いろいろと、ね~。忙しかったのよ、くだらないことばっかりなんだけどね」
と、大きく開けてくれたドアから、リビングに入る。招き入れられた気分だ。
「義郎さんも、忙しかったでしょう。引っ越しやなんやかやで」
ダイニングテーブルには、優子と聡美が長く話していた痕跡がある。いつもの椅子に腰かけると、聡美が慣れた手付きでお茶の準備を始める。
「義郎さん、帰ってきたらいつもお茶なんだって~~?」
義郎の湯呑が前に置かれる。
「いってらっしゃ~~い」「いってきま~~す」の声が聞こえ、玄関のドアが閉まる。
「幸助君、塾に通い始めたんだって?」
向かいに座った聡美が、急須のお茶を注ぐ。
「そうなんですよ。本人が言い始めてねえ」
「よかったじゃない。ヤル気になってくれて。……ほら、一時は、ねえ」
聡美が、昔の悪戯を思い出す顔になる。確かに、中学2年生の幸助にはひとかたならぬ苦労をさせられたが、それも今となってはいい思い出だ。
「いい時だわねえ。家があって、息子がいい子になって、仕事も充実してて……」
そこまで言ってお茶に口を付け、聡美は一息入れる。
「公平と達男のお蔭だよ、ほんとに」
そう言って義郎も湯呑を口に運び、お茶を一口飲んでテーブルに置く。目を湯呑から上げると、聡美と向き合った。その目は険しい色をしている。
次回は、9月4日(水)予定 柿本洋一
*第一章:親父への旅http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7
*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981
*第三章:石ころと流れ星http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/0949e5f2fad360a047e1d718d65d2795
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