昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との二泊三日 ⑥

2017年08月24日 | 日記

隆志は鼻先をくすぐるフローラルな香りで目覚める。なじみ深く懐かしい香りだった。

薄く目を開ける。ベランダ側のサッシに下りたブラインドの隙間からリビングの床に陽が差し込んでいる。正午は過ぎているようだ。

休日の遅い朝。隣には妻の紗栄子がいて、隣室では小学校に入ったばかりの娘由香がミニコンポで好きなアイドルのCDを……。なんて懐かしく穏やかな朝……。いや、違う。それは錯覚だ。二人が家を出てもう3カ月。帰ってきているはずはない。だって昨夜は……。

首を起こし、隆志はフローラルな香りの元を探る。目に入ってきたのは、フロアで横になっている黒髪と肩までストールでくるんだ女性の体だった。

瞬く間に昨夜のことが蘇ってくる。渋谷ガード下での不思議な出会いと希子の名前。間断なく語られた彼女の歴史、意識や価値観の変遷。所々に差し挟まれる印象深い言葉や言い回し。それらすべてが流れるように耳に入り心に届き、多くは留まったままだ。

ミャーと鳴く声がして、ストールの胸の下あたりから小さな茶色の塊が現れる。そうだ。メグだ。すべてはこの子猫から始まったのだ。

ビールを飲んだ。助六を食った。多くのことを聞いた。希子のことがわかったような気がした。少しハスキーな声、抑揚のない喋り方が心地よかった。一緒にいたいと思った。そして……裸の体を抱きしめたいと思うようになった。声、言葉、価値観、そして肉体……。希子のすべてが心地良く、自分の中に溶け込んでくるだろう。そう!“14人目の男になりたくないか”。そう言われた。彼女も想いはきっと同じだったに違いない。

タクシーに乗った。部屋に入った。希子は何かを感じ取っていた。メグもそうだ。いや、メグが感じ取った何かが彼女に伝播していったようにも見えた。

彼女の初めての男の話も聞いた。興味深い話だった。そして……しかし、その後の記憶がない。話の中途で眠ってしまったのだろうか。しかし、だとすれば床に眠る彼女の髪から漂ってくるこのフローラルな香りは……。紗栄子が残していったシャンプーの香り……。

隆志は自分がジャケットを脱いだだけの着の身着のままであることを両手で確認する。ほっとした思いと残念な思いが交錯する。

肘をつき半身を起こし、希子の横顔を覗き込む。薄い陽の光の中で眠るその横顔は、深く小さな寝息を立てている。隆志に昨夜の彼女の言葉の断片が蘇る。

執着心と闘い、依存を嫌い、ひたすら真の自立を求め続けてきた希子は、今安らぎの中で眠っているのだろうか。

ソファからそっと起き上がる。ストールに重ねるように被せられたバスタオルの端から希子の裸の膝が覗いている。

隆志はバスルームへと向かう。裸になりシャワーの前に立つと、バスタブ脇の手摺に掛けられた下着が目に入ってくる。一瞬躊躇したが、バスルームを出てハンガーを手に取り、希子の白い下着を掛ける。

ハンガーをドアのフックに掛けバスタブに入り、コックを捻る。シャワーノズルを手にすると、勢いよく水が下半身に襲いかかる。ウッと小さく声が出る。と、その声を追いかけるように嗚咽が込み上げてきた。何故だ?何が悲しい?内側に問い掛けながら我慢をしようとしたができない。

次第に湯へと変わっていく水を頭から被った。額から口へと流れる湯音に紛れさせ、声を出して泣いた。

そこに希子がいるから、3カ月絶えて人のいなかった場所に希子がいるから、やがてはまた消えていく存在が今そこにあるから。だから寂寥感が募っているのかもしれない。一人っきりの寂しさを感じる瞬間はあったが、ここまで強いものではなかった。

突然訪れた別れではない。悔いが残るような別れ方でもなかった。希子の言う執着があるかと問われればないとは言えないが、それは紗栄子と由香を対象としたものではないと3カ月で知った。対象さえ持たない執着そのものが自分の内側で暗く息づいていることに、ある朝気付かされた。

であるなら、今のこの寂寥感はどこからやってきたというのだ。しかも、こいつには懐かしい匂いがある。この50数年の間になんどか出現してきた曲者のような気もする。閉じ込めることはできず、かと言って開放し拡散させることもできない厄介なやつだ。

温度設定が高くなっていたのか、湯が熱い。嗚咽が消える。わずかばかり残った寂寥感も洗い流されていく。この感覚も懐かしい。2~3度経験したような気がする。最初はずっと以前、まだ若い頃だったはずだ。シャンプー、洗顔石鹸を使う間ずっと、その懐かしい感覚が気になった。

バスルームを出て、棚のバスタオルを手に取る。体を拭き、頭から被ってリビングへと静かに戻っていく。リビングの入り口から首を延ばすと、希子はまだ熟睡しているように見える。

その姿を目にした瞬間、隆志の頭に記憶が蘇った。そうだ。ナオミだ。20歳の夏の出会いと別れだ。


コメントを投稿