昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との二泊三日 ⑤

2017年08月21日 | 日記

一人暮らしを始め、直後に厄介な嫉妬という感情と向き合わざるを得なかった希子は、女子大でさらに面倒な感情の交錯を経験する。

学業成績という数値化された評価基準で互いの優劣を認識するという方策を失った同級生たちは、解き放たれたかのように明るく自由に見える一方で、自分の価値と居場所を見出せない心許なさを感じさせていた。学生同士の何気ない日常会話は通りがかりの挨拶の領域を出るものではなく、学食やカフェで交わす会話は父親の葬式後の女たちの騒めきを思い出させた。好奇心は掻き立てられず、ひと時の癒しを得ることも出来なかった。

夏を迎える頃には騒めきが女の色を帯び始め、秋には顔を見せなくなる同級生も現れ始めた。希子はそんな同級生たちの変化をありふれたものだと思おうとした。が、そう思うほどに内側へと傾いていく自身のエネルギーに困惑させられた。そこにはいつも、嫉妬や蔑みといった扱いにくい感情が横たわっていたからだった。

一つをつまみ上げると他も顔を覗かせ、やがて列をなして攻め込んでくる劣悪な感情たち。どこから生まれてくるものなのかと覗き込めば漆黒の中に蠢く影を認めることはできるのだが、その何たるかには思いの及ばない不快な感情たち。

それらが生命の根源をつかさどる人の欲望というものと親密に絡み合っているものだとは理解できても、だからといって容認も受容もできない自分自身がいた。

まるでメビウスの輪の上を歩き続けているようだ、と希子は思った。進歩も退歩もないまま同じ地平線を行きつ戻りつしているだけだ、と思った。輪を断ち切るか、輪から飛び降りるべきだ、と思った。しかし、そのための手段は見つからず、専攻した東洋哲学も役には立ってくれそうな気はしなかった。

「でもね。ある日その時は訪れた。機会を与えてくれたのは男。ありふれた話でしょ。彼は6歳年上の既婚者。初めての男だった。これもありふれた話よね。そして、きっと隆志の頭にも今浮かんでいるようなお決まりの話が展開していくんだけど、最後に私が得たものは大きかった。……大丈夫?眠いんじゃない?でも、もう少し話をさせてね。……19歳になって間もなくからちょうど1年。彼はたくさんの“初めて”を私に与えてくれた。それはもう刺激的だった。反応の仕方もよくわからないほどだった。そして、一つひとつの経験に目を瞠っている間に1年が過ぎ、目を瞠った経験の一つひとつが慣れ親しんだものになった頃、ふと別れが訪れたの。振られたわけじゃなく、振ったわけでもなく、かと言って、どちらからともなく、というわけでもなかった。終わった、と言った方がいいのかな」

終わりの始まりは、彼の行き付けのバーのカウンターだった。フォアローゼスのロックに口を付けた瞬間、父親が心に蘇ってきた。いつも薄い嫉妬のベールの向こうに姿を現していた父親がその夜は謹厳実直な性格そのままの表情だった。

隣には彼の横顔があった。1杯目のグラスを空け終わろうとしている、その横顔には父親の面影の欠片もない。しかし、希子には彼への想いに決して父親への想いと重なるところはないという確信はなかった。

希子はそれまで自らの過去と内なるものを彼に晒したことはなかった。が、突然そうしたいと思った。そうすべき絶好のチャンスだと思った。

実の父親の死から語り始めた。そして母親の再婚、母親の死、義父の再々婚にまでを話し、ひと息付いた。グラスを口に運ぶ手を止めて聞き入っていた彼が、残った2杯目を喉に流し込む。希子はその瞬間をとらえるように、自分の中で不意に芽生えた義父の新妻への嫉妬心について語り始めた。彼の喉がゴクリと鳴った。

それから先は希子にとっては一本道。言われなき嫉妬や目指すべきもののない争いなど、心の中にできあがったメビウスの輪の道を辿りつつ、言葉を精一杯選びながら話した。いつもは饒舌な彼は一言も発することがない。

希子は話の最後は彼への感謝で締めくくろう思っていた。“まるでマイフェアレディのイライザの気分だった”という台詞も思い付いていた。しかし、実際に口から出てきた言葉はそうではなかった。

“それが堂々巡りをすることになっている道だとわかっても、その道を踏み外すことはできなかった。空中回廊のようなその道から足を踏み外すと、寄る辺のない無限の飛翔体になってしまうようで怖かった。でも、飛翔することの大切さと飛翔の心地よさ、そして何より、飛翔はやがて着地で終わるものだ、ということを貴方は教えてくれた。着地するのが再びメビウスの輪の上であっても、そこに飛翔したことの意味は残る、ということもね。私は執着や無駄な欲望から自分を解放することを教えてもらった。私は翔べる女になったの。”

すると、彼は“ありがとう!”と言った後、セックスの話を始めた。ほとんどは男女それぞれにとってのセックスの効用についてだった。自分の意図せざる方向へと流れた彼の話に、希子は戸惑いを隠し切れなかったが、自らが使用した“飛翔”という言葉が生んだ誤解あるいは拡大解釈だとも思い、聞き入るふりをした。しかし、彼は希子の表情の変化を見過ごさなかった。

彼は話題を巧みに転換。希子の口から出た“嫉妬”という言葉にスポットを当て、彼女の義父とその妻への想いの分析を始めた。途端に、彼の言葉は耳に届いてさえ来なくなった。希子は口を挟んだ。“いつもいっぱい話をしてくれたことにも感謝してる。人と人の間には意志を伝える以上のたくさんの言葉が必要なものだと教えてくれた気がする。”

そう言うと、彼は4杯目の最後の一滴を舌に落としながら意外なことを口にした。“男女の会話って、ほとんどが前戯だからね。相手によってツボも違うし、強弱や掛ける時間も変える必要がある。もちろん、すべてはお互いのためなんだけど……。”

そう言ってグラスを覗き込み、中の氷をカランカランと転がした。それが、終わりの終わりだった。

「彼は私が“意外と面倒な女なんだ”と気付き、私は私で彼が“心を語り合う対象ではない”と知った。……そういうことかな」

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