最初にナオミを部屋に迎えたのは暑い夜だった。隆志は20歳。大学2年生の夏休みを引っ越したばかりのアパートで過ごしていた。
コンコンと窓を叩く音がする。アパートは一階、窓は表通りに抜ける路地に面している。人一人がやっと通れるくらいの狭い路地で、野良猫が入り込んできたことはあったが、もちろん野良猫が窓を叩くはずもない。
時間は夜10時。絞っていたラジカセの音量をさらに絞り窓を開けた。するとそこには、一人の若い女性がしゃがみ込んでいた。一週間前に初めて会ったばかりの女性だった。先輩に呼ばれて駆け付けたスナックで先輩を挟んで座り、先輩がトイレに立った時などに少し言葉を交わしたような記憶がある。名前は憶えていない。
「あれ?!こんばんは」
「こんばんは。びっくりした?ごめんね。入口混んでたから」
「混んでた……。ここだとまずいんで、玄関に回ってもらえます?」
玄関に急ぐと、もう彼女は玄関正面に半身を夜の闇にして立っていた。瞬間移動したのかと思った。
「こんばんは。さっきまで人が一杯いたんだよ。消えちゃったね」
玄関で履き物を下駄箱に入れる旧式の木造アパート。風呂は付いていない。近くの銭湯に駆け込みで行こうとする住人で少しは混んでいたのかもしれない。
「あの……」
「急用でも何でもないのよ。ただちょっと、話をさせてもらえばなあ、と思って」
「僕にですか?」
「そう」
「じゃ、ちょっと待っててもらえます?着替えて来ますから」
「いい、いい。わざわざ着替えなくても、いいって。変な格好でもないし」
隆志のパジャマ代わりのバーミューダを指さす。
「でも……」
「それより、上がっていい?」
「あ、どうぞどうぞ」
女性は足首に巻いたシューズの白い紐を解き始める。紐と言うよりリボンか。初めて目にするシューズだ。バレエシューズのような気がする。
彼女がリボンを解く背中にポニーテールが垂れ、微かに揺れる。後れ毛が横顔を隠している。
「これ、持って入るね」
シューズを手に顔を上げる。縦スリット入りの生成りのTシャツの胸元が揺れる。玄関から上がったペールピンクのスリムパンツが隆志の前を行く。
「そこ?」
玄関から左側2つ目、開いたままのドアを指さす。隆志を振り向く表情は、確か2歳年上であるはずなのに、今日はあどけなく感じる。
「あら。意外と片付いてんじゃん」
ベッドと机、本棚兼用の組み立て棚、パイプハンガーラック、一人用冷蔵庫で満員の部屋に入ると、隅から隅まで母親のような目で見まわし、彼女は微笑んだ。
パタパタと小さな折り畳みテーブルを広げる。彼女はストンとその前に座り、シューズを差し出す。
「そこのハンガーにこのリボンをくくり付けて…………、ほら。下駄箱いらず~~」
「これ、バレエのシューズですか?」
「そうだよ。チャコットって知らない?渋谷にあるんだけど」
「いや。チャコちゃんなら……」
「ハハハ、それはドラマ。チャコットはバレエ用品の専門店。そこで買ったの。普段用にね。トウシューズだよ」
「爪先?」
「そう!硬くて、平たくなってんだよ。だから、爪先で立てるというわけ」
「で、また、それをなぜ……」
「普段用にしたのかって?いつも、手塚君がさ、私のこと爪先立つほど背伸びしてるって言うからさ。じゃ、本当に爪先立ってやろうと思ってさ」
「手塚さんの…」
「彼女、と言うより同棲相手。……だった、と言った方が正確かなあ。ナオミだよ~」
手塚は理学部から文学部に転部してきた先輩。隆志は英文学科、手塚は哲学科と科は違ったが、友人を介して仲良くなった。
実家が裕福で仕送りの多かった手塚の行き付けの一軒“ブラック&ホワイト”は私鉄の駅から徒歩10分ほどの隆志のアパートからさらに2~3分先、大通りとの角のビル地下1階、飲食店数軒の一番奥にある。
隆志は手塚からしばしば“ブラック&ホワイト”に呼び出された。電話は気まぐれで、4日連続のこともあったが、一カ月以上ないこともあった。時間は決まって夜9時以降。まれに0時を回ってからということもあった。
「確か一週間前……」
「そう!覚えててくれたんだ。うれしいなあ。“ブラック&ホワイト”で、ね」
「1時間以上でしたか、随分話し込んでましたよね」
「暗い雰囲気でね。真面目な話をしてたの。話す量は手塚君9対私1だけどさ」
「飲み物でも。あ、ビール切れてたかな?コーラでもいいですか?」
「うん。ありがとう」
隆志は立ち上がり冷蔵庫から缶コーラを取り出す。1本を開け、ナオミに手渡す。
「コーラの季節だね~~」
ナオミは一気にコーラを喉に流し込む。缶の口と京子の唇の間から、コーラが泡の筋を引く。それを拭おうともせず、京子は喉を鳴らしてほとんどを飲み干す。一筋のコーラが、顎を伝いTシャツの上に落ちていく。
隆志は口を付けただけのコーラをテーブルの上に置く。大きく開けた窓から入ってくる外気はごくわずか。女の香りが部屋に充満していく。
「お酒でも買ってきましょうか?」
そう言い目を上げると、眉間に皺を寄せたナオミが隆志を制するように手を上げ、小さくゲップを漏らした。口元に当てた指の間から、コーラの匂いが漂ってくる。
「ごめん。はしたないねえ」
ナオミがそう言って笑った瞬間、もっと大きなゲップが漏れる。二人は目を見合わせて笑った。
ひとしきり笑った後、ナオミはゆっくりと真顔に戻る。
「あの時、私と話したこと覚えてる?」
隆志にはっきりとした記憶はない。3人でバーボンを1本空けていた。ナオミに興味はあったが、手塚を挟んでいる。話したとしてもごくわずかの間のことだろう。
「手塚さんが間にいたし……」
「手塚君、カウンターに突っ伏して寝ちゃったから。珍しいんだけどさ。そんなこと」
「じゃ、手塚さんの頭越しに?」
「そう。それなりに話したよ。え~~と」
「隆志でいいですよ」
「隆志君も酔ってたみたいだけど。でも、楽しかったよ」
「余計なこと言ったんでしょう、どうせ」
「確かに」
「やっぱりだ」
「でも、私は論理的にシェイプアップされた話は苦手。寄り道だらけの話の方が好きよ」
「枝葉が伸びすぎると木は育たない、という話もありますよ」
「いいの、いいの。枝葉の乏しい森では森林浴できないでしょ」
「僕は一体どんなことを口走ったんですか?」
「聞きたい?聞きたいよね。だって私、その話をするために来たんだもんね」
ナオミは、居住まいを正した。
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