昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   旅の終わり

2010年10月27日 | 日記

親父は、翌年平成14(2002)年の春、GW突入直前の4月28日に亡くなった。80歳まで2か月余りの79歳だった。

二つの法事を済ませた後の親父は、癌細胞との共生に成功したかのように思えるほど元気だった。毎朝の読経から始まる日課が、淡々と繰り返されていた。

体調を心配して電話をすると、「癌の奴らとうまく暮らしとるんじゃが、奴ら密かに勢力を拡大しとるかも知れん。まあ、表立った戦いがない限り、平和なもんじゃ。制癌剤止めて正解じゃあ。心配せんでええ。わしのクウォリティ・オブ・ライフは高いでえ。死ぬ時は、きっと突然じゃ。肝臓が破裂するんじゃあなあかのお。ま、大丈夫じゃけえ、もう電話せんでええからの」と一方的に喋られて、さっさと切られたほどだった。

 

その言葉通りの死だった。

4月27日、地元の老人会に出席。近くの温泉で料理とカラオケを満喫。夕方に帰宅。翌朝は、いつものように家を開け放って読経。散歩に出かけた後は、配達されてきた昼食の弁当を食べ、後片付け。午後には片道2㎞のスーパーに夕食用の刺身を買いに行き、帰ってきたら、裏庭の草取りをしていた。独居老人を気遣う近所の目と耳がそのすべてを確認していた。

しかし、翌朝、いつもの時間を過ぎても、サッシが開かない。読経の声も聞こえてこない。不審に思った近所の人が声を掛けながら戸締りを確認すると、すべて閉まっている。裏に回ってみると、風呂の電気だけが煌々と灯っている。声を掛けても返事はない。おかしいぞ!と、風呂の窓に脚立を掛け、鍵のかかっていない窓から中を覗き込んだ。

見えたのは、湯と汚物に俯せに浮かぶ親父だった……。

通報を受けた警察が不審死として調べた結果、家の中のどこにも不審な痕跡はなく、翌29日、僕に電話連絡があった。

 

密葬でと思ったが、既に葬式の会場や葬儀屋の手配は、近所の人とミツルさんのお姉さんの手で行われており、新聞への掲載の手筈も整っていた。

亡骸と一晩過ごし通夜・葬式が終わるまで、一滴も涙は出なかった。葬式の後、自宅に集まった近所の人や親戚の人たちと酒を飲み、思い出話をしている時も、悲しくはならなかった。

従兄弟に「気になっているのは、溺死じゃあなかったのかなあ、ということだけなんだけど……。苦しんだんじゃあないかなあと……」と訊いてみると、「可能性は大いにあると思うよ。でも、苦しむ時間あったかなあ?って気がするよ」という答えだった。

そのことが、いつまでも唯一気になった。しかし、墓石を撫でて、撫でていた親父を思い出し、可哀想だと思うのは止めよう、と思った。

きっと、親父はミツルさんに導かれて行き、僕の母親の笑顔にも会えてるはずなのだから。

そう思いながら、葬式が始まる直前“川柳の会”の仲間だという女性が持ってきてくれた、親父が死の2日前に詠んだ川柳を、もう一度読んだ。

“アラ不思議 お蔭に生きて 80歳”。

漂流し、死を乗り越え、辿り着いた岸辺で、頭を掻き掻き照れ笑いする親父が見えたような気がした。    

第一章:終わり

 

第二章:京都新聞北山橋東詰販売所…1969年 を、近日中に始めます。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記

 


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