昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第三章“石ころと流れ星”(短期集中再掲載)   24.“ディキシー”の異変

2012年12月06日 | 日記

“ディキシー”の異変

気になっていたのは、奈緒子が京都にやってきた時の過ごし方だった。何しろ、ほとんどの下宿がそうであるように、東山仁王門の僕の下宿は女人禁制。女の子が部屋にいるのが見つかると、引っ越しを余儀なくされる危険性さえある。昼の時間は京都案内に費やせばいいとしても、“Big Boy”でバイトをしている夕方5時から深夜までは、奈緒子を一人きりにしてしまうことになる。“Big Boy”で一人ジャズを聴いて過ごすには長すぎる時間だ。しかし、“ディキシー”であれば、奈緒子も退屈することなく過ごせるだろう。奈緒子が酒に抵抗がないのは確認済みだし、夏美さんとの会話は奈緒子にとっても興味あるものになるに違いない。僕も安心な上に、仕事が終了するや否や会うことができる。“ディキシー”でしばらく過ごし、夜がすっかり深まってから下宿に戻ればいい。階段は幸いにも玄関のすぐ脇にある。靴を持って上がり、声を潜めて過ごせば見つかることもないだろう。そう考えたのだった。

気になるのは“ディキシー”の看板に見られた何らかの異変の痕跡だった。店の前で喧嘩があったくらいのことならいいのだが……。

“ディキシー”の前で立ち止まり、辺りを窺いながらドアノブに手を掛けてみる。鍵はしっかりとかかっている。閉店や休業に追い込まれた訳ではなさそうだ。しかし、油断はできない。黒ヘルメンバーの溜まり場であることは知られているはずだ。何らかの事件が起きていたとしても不思議ではない。確認しておいた方がいいだろう。

僕は、夕食後にでも訪ねてみようと決め、その場を離れた。肩の荷が半分下りた気分だった。

ところが、半月ぶりに訪れた“ディキシー”は、様子が変わっていた。淡く青い照明は相変わらずほの暗く、ビリヤード台を中心とした店内のレイアウトも変わっていないのだが、半月前の“ディキシー”よりも印象は明るくなっていた。僕は似つかわしくない客のようにさえ思えた。

ダウンライトが明るくなった気のするカウンターの、出口寄りのストゥールに腰を下ろし、カウンターの上に首を伸ばす。午後8時を回っているというのに、カウンターの上に知っている顔はない。やはり、何かあったのかもしれない。

カウンターから丸見えだったキッチンはカーテン一枚に遮られ、カーテンの向こうからは香ばしい匂いが漂ってきている。健全な匂いだ。

カーテンを払いのけ、夏美さんの顔が現れる。思わず中腰になり、「お久しぶりです」と声を掛ける。夏美さんは持っていた皿をカウンターに置き、「あら?!」とだけ言って、またカーテンの向こうに消える。夏美さんの手にあった皿を横目に覗くと、唐揚げが載っている。以前からメニューにあっただろうか。

ストゥールを半回転させ、店内を観察する。以前はいなかったウェイトレスらしき女の子が立ち働いている。カウンターにやってきて唐揚げの皿を持って行く仕草も手慣れているように見える。お客も女性客が増えているようだ。

「しばらく見なかったわねえ」という声に振り向くと、ジンライムを僕の前に置きながら、夏美さんが微笑んでいた。その笑顔に変わりはないが、どこか落ち着かないようにも見えた。ジンライムを一口飲み、もう一度カウンターを端まで眺めようと、首を伸ばす。

「小杉君?」

夏美さんが小さな声で顔を寄せてくる。

「珍しいですねえ、小杉さんが来てないなんて」と言うと、夏美さんは人差し指を口に当て、目くばせをする。慌ててジンライムをあおっていると、夏美さんの顔がさらに近付いてきた。

「今ちょっと、逃亡してるのよ、事件があってね」

やはり何か起きていたんだ、と思ったが、大きく声に出してはならないことのようだ。小杉さんの名前を口にするのは、特に要注意ということだろう。僕は素知らぬ顔を装い、ジンライムに集中することにした。

セクト同士の闘争か、それとも一人一殺を決行したのか、あるいはメンバーが起こした事件に巻き込まれてのことなのか……。

しかし、わずかの間に起きた事件と、それにも拘わらず店の営業を続けている夏美さんと、以前よりも印象の明るくなった“ディキシー”と……。新聞やラジオに接することのなかった2週間に、一体何が起きたというのだろう。

ジンライムを持ってきた一瞬を除くと、忙しくキッチンに出入りしている夏美さんを、不可思議な気分のまま観察する。オーダーが集中したのだろう、お酒や料理が次々とウェイトレスの手で運ばれていく。改めて目を凝らし店内を見回すと、学生と思しき姿はほとんどない。夏美さんはというと、その横顔に以前は見たこともない輝きを時々見せている。溜まり場から店へ、“ディキシー”は健康的な変身を遂げたかのようだった。

集中したオーダーへの対応が落ち着くまで、僕はジンライムをお替りしながら待つことにした。

「どこ行ってたの?」

2杯目を飲み終わろうとしている時、右耳近くで、突然夏美さんの声がした。

「え?!いや、別に。どこって……」

と、僕は夏美さんに顔を向ける。小杉さんがいつも座っていた左端の方に、我知らず身体を向けていたようだ。

「東京?」

「い、いや…」

隠す必要もないことだが、行動がすべて読まれているようでドギマギしてしまう。

「そうなんですけど。なんで知ってはるんですか?」

「想像力に決まってるやないの。人は、自分のことに関してはそんなにたくさんの情報は持ってないって言ってたの、あんたやなかった?だから、重要そうなことだけ把握しておけば、その人の過去や今後のおおよそは想像がつく、って」

「そんな生意気なこと言うたかなあ、僕。ま、でも、当たりです。東京に行ってました」

夏美さんの表情が以前に戻ったように思え、僕は肩の力が急に抜け落ちた。そこにキッチンから声が掛かり、夏美さんはくるりと背を向ける。

「何かが抜けたような顔になってるわよ」

カーテンに手を掛けながら、夏美さんの悪戯っぽい目が振り返る。そうか、“小杉さん逃亡中”は、ひょっとすると夏美さんがからかってるだけなんだと、ふと思う。今度はいつの間にか伸ばしたままだった背中の力が抜けていく。曲がった背中をカウンターに頬杖を突いて支えながら、僕は夏美さんに問い質そうとにんまりしながら待った。

次回は12月9日(日)になります。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。

*第一章:親父への旅 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7

*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981


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