昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅  旅の始まり ②

2010年09月07日 | 日記
僕の故郷島根県益田市は、人口約5万人の山陰の小都市。かつては“陸の孤島”と呼ばれ、どこへ行くにもどこから帰るのにも多大な時間を要した。が、1993(平成5)年、石見空港(現在は、萩・石見空港)が開港し“陸の孤島”の汚名を返上することとなった。空港は益田市の郊外に立地しているため、タクシーを利用すると実家から20分で到着する。東京・渋谷の事務所からの総時間距離は、待ち時間等を含めて3時間。かつての、新幹線利用最短7時間から大幅に短縮された。
運航は1日2便(現在は、1便)。総費用も約45000円で往復可能と、かつてと比べると大幅に軽減されている。気楽に、というわけにはいかないが、時間、費用ともに突然の捻出に耐えられる範囲内に収まってくれている。
1985(昭和60)年、末期子宮癌で入院したお袋を毎週土曜日見舞った時は、羽田~宇部~レンタカーという経路だった。親父は毎回、「毎週毎週、すまんのお。ありがとう。せやあなあかい?」と僕をねぎらい、気遣っていた。「帰って来んでええ」という言葉の裏には、その時の強い印象があったのかもしれない。「今は空港があるから、帰るの、そんなに大変じゃないよ」と言ってやればよかった。電話を切り冷静になって、そう思い返した。少しだけ、親父を近く感じた。
それから数日後、親父から電話が入った。医師会病院の主治医と親父の話し合いの結果、検査入院は6月14日と決まった、という。主治医から「ご家族の方にも話を聞いていただきたい」との強い要望があったためか、今度の電話には「帰って来んでええ」という言葉はなく、「悪いのお、頼むわ」という言葉に代わっていた。その変化に明るく「大丈夫だよ。だから、帰るって言ったじゃない!」と応じながら、小さな不安が胸の一角に巣食っていくのを感じた。
そしてその日は、すぐにやってきた。
6月13日、帰郷前夜。事務所にやってきた人たちと痛飲。ごろりと2時間ばかりの睡眠を取って、早朝5時半に事務所を出発した。梅雨入り前の空は澄み切り、強い日差しが日中の暑さを予感させていた。
エアーニッポン7時15分発。
山手線、東京モノレール、空港待合室と、僕の胸に訪れるのは、中学・高校時代のありふれた光景ばかり。数日前に巣食ったはずの不安さえ頭をもたげてこない。機上の人なり、窓際のシートに腰を落ち着ける頃には、すっかり単なる帰省客なっていた。窓外を眺め、日差しのきらめきに目を逸らし背もたれに頭を沈めると、しかし、漠然とした不安が込み上げてくる。
それも束の間の、爆睡。「着陸態勢に入りました……」のアナウンスで目覚めた。窓に手を押しあて、日本海の静かな朝を覗き込んでいると、やがて懐かしい島影が見えてくる。高島だ。今は無人島だが、かつて漁民のがあり、小学校もあって…、などと記憶を辿っていると、現実がしっかりと忍び寄って来る。実家の食卓で一人静かに、朝の食事とこれからの厳しい現実に向き合っている親父が浮かんできた。病院の予約は、11時。実家からの出発は、10時半頃か。それまでのしばしの時間は、きっと仏壇の前で過ごすことになるのだろう。

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