昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   癌との共生へ。 ②

2010年10月22日 | 日記

それから僕はほとんど毎月帰省し、制癌剤注入のために入院している親父に会いに行った。

その度に親父は、「もうええで。止めようや」と言った。“クウォリティ・オブ・ライフ”という言葉を使うことも多くなっていった。

事実、制癌剤治療が親父に与えるダメージは、僕の想像をはるかに超えていた。6月12日、親父が79歳になった一週間後の第1回目の注入の時。40度を超える高熱が2日続き、3日間入院。帰宅した親父は体力の回復に手間取り、そのままほとんど寝たきりで一週間を過ごさざるを得なかった。他の臓器に与えた影響も甚大だったようで、嘔吐や下痢・発熱などにも苦しめられ続けた。

しかし、親父が目標にしていた“9月15日の法事”までは、「でもまだ、癌の奴には負けられんけえ」と、結局制癌剤治療の続行を選んでいた。しかも、気力のなせる業か、7月~8月の2か月間は、第1回目の制癌剤投入の時ほど苦しむこともなかった。

電話で治療後の様子を聞くと、「いやあ、今は9月25日の法事の準備で忙しいけえ。多少きつくても頑張らんとのお。病院にしょっちゅう行くわけにもいかんしのお」と、溌剌とした声が返ってきたほどだった。

 

9月15日。それは、親父の再々婚相手の7回忌だった。親父の9歳年下の女性だった。

親父は、61歳の時、二つ年上の、僕の育ての母でもある再婚相手を亡くしていた。

その後、東京で息子たちと暮らすか、田舎で一人暮らしをするか、しばらく迷った挙句、「今さら都会暮らしもないで、と思っとったんじゃが、何しろわしは料理が駄目じゃけえ……」と、息子たちとの暮らしの方に傾いてきた矢先の、昭和63(1988)年春のことだった。

親父から事務所に電話が入った。親父から事務所への初めての電話だった。

「悪いが、ちょっと帰って来てくれんかのお……。ちょっとでええんじゃけどのお」。挨拶もないままの消え入りそうな小さな声に、僕の声は少し荒くなった。「なんなの?いきなり!すぐと言われてもさあ。いつでもいいんだったら、帰るよ。こちらから、また電話するよ」と素っ気なく言うと、「いやあ、恥ずかしい話なんじゃが、田舎で老人が一人暮らしをしてると、周りが放っておけんらしくてのお。……見合い話が何度かあってのお、ま、ま、ずーっと断ってるんじゃが……。今度の話はええかなあ、思うて…」「会って欲しいんだ!僕に!」

口籠りながらの相談ではあったが、途中で親父の要望が何であるかがわかった僕は、相槌の声も大きくなっていき、最後には殆ど叫んでいた。何故か、いい話だと直感していた。

その声を同意と受け取ったのか、親父の声は一気に弾み「そうなんじゃ!やっぱり、お前には見てもらわんといけん思うてのお。お前の判断も聞きたいし」と少しおだて気味になる。僕は僕で、いい話だと思った瞬間に、すっかり帰る気持ちが固まっている。「いいよ!帰るよ。いつ帰って来てほしいか、本当は決まってるんでしょ?!」と応えながら、仕事の調整を考え始める。

当時はまだ、空港はできていない。新幹線利用でほぼ半日の旅程。了解したものの、電話を切った後は、少しばかり後悔していた。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記

 


コメントを投稿