昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅   癌との共生へ。 ①

2010年10月21日 | 日記

その夜、従兄弟と会食。僕は率直に尋ねた。親父の容体は?治療法は?制癌剤治療以外の方法がないとすれば、制癌剤治療の問題点と患者が注意すべき点は?そして、………余命は?

従兄弟の答えは、優しく誠実な人柄が滲みこんだものだった。

「う~~ん。悪いねえ。はっきり言って治療法はそんなにないと思うねえ。僕も写真見たけど、何しろ無数にあるしねえ。雪が降ったような感じで…」「ベストと言えるかどうかはわからないけど、現時点で考えられる治療法としては、やっぱり制癌剤治療になるんだろうねえ…」「かなり副作用がきついからねえ。何しろ癌細胞に効くということは、健康な細胞にも影響が出ないわけはないわけで…」「まあ、はっきり言えることではないんだけど、経験から言うと、あくまでも僕のこれまでの経験から言うと、だけどね、う~~~ん、年内かなあ……」「もちろん、断定できる話じゃないし、ひょっとすると、ということもないわけじゃないけど。年内もってもらえればいい方かなあ…」「可能性がゼロなわけじゃないんだけど、そう思ってもらっておいた方がいいと思うよ」

それは、年内もてばいい方…、という点を除けば、親父から聞いた説明と寸分違わないものだった。彼の話を聞きながら僕は、親父を想った。たまらなく、いとおしかった。

 

11か月前は勝利が約束されていた闘いだった。そして勝った……と思っていた。しかし、今度の戦いは勝利なき戦いだ。多勢に無勢な上に、戦うべき武器も心許ない。

「いやあ、何かしてあげたいんだけどねえ。してあげられることがねえ……」と溜め息混じりにジョッキを飲み干す従兄弟に、「色々お世話になるね。ありがとう。これからも、よろしくね」と、僕は頭を下げる。

僕にショックはなく、僕の中に異変も起きてはいない。やけに淡々と事実を受け止めているだけだ。親父もまた、きっと同じだったのだろう。

「こういう時って、医者は本当に無力だよねえ。何度経験しても、そう思うよ。こういう時には、どういう人がいればいいんだろうねえ。役に立てるんだろうねえ」

飲み干したジョッキを焼酎のボトルに換え、二つのグラスに注ぎこむ従兄弟の吐息が深い。「うん。息子も同じ思いだよ」と一つを受け取り、「本当に、ありがとうね、いろいろ」ともう一度頭を下げる。

お互いの仕事の話、見つめてきた生と死の話……。従兄弟同士の会話は、深夜にまで及んだ。年内か……。と、時々思い起こす度に、従兄弟の存在が心強くうれしかった。

 

翌朝僕は、病院に電話もせずに東京へと帰って行った。いつものように「明日の朝は、別に来んでもええで」と言っていた親に従うことにしていたからだった。

ただ、これからはできるだけ帰って来よう、と決めていた。常に事態をきちんと把握し続け、僕にできることを探し続けよう、と思っていた。


もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記

 


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