昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ⑧

2016年08月17日 | 日記

翌5月5日、習慣化している朝5時の起床直後から、僕は時間を持て余していた。前日の夕焼けが表していたとおり、窓の外は一日の快晴を約束している。

大沢さんと桑原君はどんな休日を迎えているのだろう。そして、東京の啓子は?……。      

手紙を書きたい衝動が湧いてくる。が、強くはない。それよりも、仕事仲間二人の部屋と、それぞれと交わした会話が強く思い出される。

大沢さんの過去と宗教、桑原君の情報収集力、そして二人の異なる個性。おっちゃんとおばちゃんの、販売所夫婦になるに至った経緯などを思い描くと、“自立なくして自律なし!”などと息巻き、勇んで飛び出した自分が青臭く見えてならない。しかもそんなことを思い描きながらも、また襲ってくる眠気………。

“せっかくの休日なのに”と時折目覚めては思いつつ、僕はほとんど午前中を布団から身体を起こすことなく過ごした。しかし、12時を回った頃、さすがに耐え難くなった空腹に起き上がった。随分と久しぶりに頭が軽く、初夏を思わせる陽の輝きに部屋の空気も澄んで見えた。

外気に触れようと思った。青く澄み渡っているであろう初夏の空を眩しく仰ぎ見、鴨川のせせらぎを耳にしようと思った。本棚の上の小銭を、すべてポケットに入れて部屋を出た。

銭湯手前の駄菓子屋でクリームパン2個とラムネを買った。店先にぶら下げられた木製の栓開けでラムネを開ける。急いで瓶に口を付け、噴き出すラムネを押し留める。

大人たちの作業を手伝い手に入れた10円でラムネを買った時のことを思い出す。今手にしている小銭は仕送りの一部だが、これらもすべて僕自身の労働によるものになっていくのだ。

クリームパンを口いっぱいに頬張る。と、その時、手の中の小銭が現在の所持金のすべてであることに思い当たる。

4月の労働日数はわずかとはいえ、給料はもらえるはず。いや、もらわなくてはならない。もらったところで5月の生活費には足りない。条件付きと言われている前借りを申し込む必要がある。明日、朝刊を配り終わったら、給料のことと前借りが可能か否かを聞かねばならない。

クリームパンの残りをラムネで喉に流し込む。振り向くと、ラムネを握った少年が二人、僕の前にぶら下がる栓開けを待って並んでいる。そうか。今日は子供の日だ。

 

店を出る。向かいのタバコ屋の店先では、公衆電話に若い男が噛り付いている。電話台の上には高く詰まれた10円玉。長距離電話の相手は恋人なのだろうか、受話器を強く耳に押し当て、何か聞き返しては笑っている。僕と目が合った瞬間、盗み聞きを咎めるかのように睨み付け、背を向ける。しかし、楽しそうな会話は続く。

掌の中の小銭を見る。200円程度か。100円定食2回分だ。啓子に電話するわけにはいかない。

賀茂川に向かう。向こうに見える出雲路橋を行き交う人は少ない。さらに向こう、烏丸通りとの中間点辺りには、黒い人混み。籍を置いているだけに等しい予備校の校門辺りだ。気にはなるが、何が起きているのか確かめようという気にはなれない。

賀茂川右岸の河川敷に下りる。子供たちの嬌声の中を歩く。弁当を広げるカップルのすぐ横を通り抜ける。握り続けていたジャムパンを食べる。わずかなラムネの残りを喉に流し込む。頭を覆いかけていた暗鬱な雲が消えていくのを感じる。

北大路橋の橋桁を潜り抜ける。北山橋が見える。この際だ、と販売所に行ってみることにする。

河川敷から北山橋のたもとに上がる。と、販売所の引き戸が開くのが見えた。とっちゃんの姿が目に飛び込んでくる。斜め後ろに向かって何か叫んでいる。僕は頭を低くする。河川敷へと急いで下りる。しかし、後姿をとっちゃんに見られたような気がした。

 

5月6日、休日明けの朝刊から帰ってくると、販売所はちょっとした躁状態にあった。

「グリグリ~~~~~~。お疲れ~~~~!」

とっちゃんの声が、いつもよりひと際大きい。僕の名前を呼ぶ声がいつもより長く大きい理由はわからない。

「お帰り~~」「お疲れさん」

桑原君と大沢さんの声も心なしか明るいように感じる。一昨日の夕刊後の時間が僕との距離を縮めてくれたのだろうか。

「お疲れ、お疲れ」

おっちゃんの声も妙に明るい。タバコまで差し出してくれる。一体、何があったというのだろう。

訝しがりながらタバコを受け取り、とっちゃんに火をつけてもらう。

「ええことがいくつかあったんや。見てみい」

桑原君が耳打ちをして、顎をとっちゃんに向ける。

タバコの灰をとっちゃんの持つ灰皿に落としながら周辺を窺う。ええことの一つが、すぐ目に入ってくる。お菓子の盆にキスチョコが加わっているのだ。

「あ!」

思わず声を上げ、桑原君を振り向く。

「食べて、食べて。これからは毎日やからな。カズさんに感謝してや」

おっちゃんは上機嫌だ。とっちゃんの鋭い目線を避けながら、早速一つ摘み取る。チョコレートは久しぶりだ。

「昨日一日で新規が10軒以上取れたんやて。カズさん一人で」

大沢さんがおっちゃんの上機嫌の理由を教えてくれる。最近できたアパートとマンションでの勧誘活動の成果だろう。さすがカズさんだ。

突然、桑原君が意味ありげに脇を突く。思わず手にしたキスチョコを落としそうになる

急いでタバコを吸い終わり、キスチョコの銀紙を剥く。口に入れるとたちまちチョコの香りが口中を満たしていく。頬が緩む。

桑原君を見る。するとまた、顎をとっちゃんの方に向けている。そっと目をやると、とっちゃんがちょうどキスチョコの残りをポケットに入れるところだった。

 

翌朝から、朝のお菓子にキスチョコが加わった。そして、たったそれだけことが朝の光景を徐々に変えることになっていった。

ピーナッツの大部分を独り占めにしていたとっちゃんのことだ。きっとキスチョコもその多くを自分のものにしようとするに違いない。僕たち3人は暗黙のうちに、そう理解していた。が、現実は予測を超えていた。

僕がキスチョコの存在を確認できたのは、キスチョコがお菓子の盆に加わった初日だけ。二日目からは、見かけることはなくなった。

僕よりも配達から早く帰ってくる大沢さんは、

「8日の朝見たような気いするけどなあ」

と言ったが、大沢さんに遅れて帰ってくる桑原君は、

「8日に僕が帰ってきた時は、間違いなくあれへんかったで」

と証言した。

僕たち3人はキスチョコに出会えなくなった原因を考えた。大沢さんがまず分析する。

「おっちゃんの“これからは毎日やからな”という言葉に嘘がないとすれば、原因は二つしか考えられへん。一つは、おばちゃんからの反対やな。思った以上に金が掛かるという理由やろな。もう一つは、とっちゃんや。中途半端に残す方がまずい思うたん違う?少し残ったものは存在していたもののアリバイになるし、たくさん存在していたはずだと文句言われても反論できひんもんなあ。この際や、元々なかったことにしてまえ、ということ違う?」

桑原君は、珍しく慎重だ。

「後者やろうと思うけど、証拠なしに決めてまうわけにはいかんしなあ」

僕も同じ意見だ。が、ことは販売所からサービスで提供されるお菓子の盆にキスチョコの存在があるかなしかという話。いかにも子供っぽく、いじましい。3人は、「どっちにしても、あほらしい話やわなあ」と笑い合って、忘れることにした。

しかし、それから一週間も経たないうちに、僕たち3人は犯行現場を目撃してしまうことになった。

おばちゃんの二度寝が原因で、お菓子のお盆が出てくる時間が8時を回った朝。配達先が増えたカズさんも帰ってきて5人全員が揃っているところに、おばちゃんは現れた。

「ごめんなあ。堪忍やでえ。ちょっとだけ寝てもうてなあ」

僕たち3人は今がチャンスと目を凝らす。

「とっちゃん!みんなに分けてあげんとあかんえ」

いち早く手を延ばしてきたとっちゃんに一言注意をすると、おばちゃんは化粧をしていない顔を隠すように奥に消える。

「あたりまえやがな!」

とっちゃんはおばちゃんの背中に声を掛ける。僕たち3人は意味のない言葉を交わしながら、とっちゃんの手元を注視する。と、とっちゃんは、慣れた手つきで盆の向きを少し変え、キスチョコを僕たちの死角に入れた。「やっぱり」と桑原君は小声で言い、大沢さんと僕は首を小さく振りながら苦笑いを交し合う。

すると突然、

「グリグリ~~~。火、使うか~~?」

とっちゃんの大きな声。見ると、火を付けたライターを手僕の方に掲げている。右手は綿パンのポケットをまさぐっている。

「いや。まだええわ」

そう答え、横の桑原君を見ると、口が「取ってる、取ってる」と動いている。キスチョコのことだとすぐにわかる。犯行現場は僕からは見えないが、とっちゃんは、人が悪事を隠蔽しようとする時の顔付きになっている。そして、僕と目が合うと、にんまりと笑った。共犯者にされたような気分だ。

「さ、おばはんがうるさいし、帰るわ~~」

僕の目付きの変化に、とっちゃんはそそくさと立ち上がる。

“おばはん”という言葉が、気にかかる。明らかに販売所のおばちゃんとは別の人を指している。母親との二人暮らしのはずだが……。

大沢さんも桑原君も、関心はキスチョコから“おばはん”に移行しているようだ。

「困った子やなあ、まったく」

経緯を見守っていたおっちゃんが、玄関の引き戸が閉まるやいなや嘆息交じりに言うと、

「ほんまに」

と、カズさんの溜息が続く。

するとおっちゃんが、気まずい空気を断ち切るように明るくカズさんに声を掛ける。

「なんやろ?苦情が一件来とったなあ」

カズさんも明るく応じる。

「あ、昨日の夜の?あれ、誤解なんですわ。僕、ちょっと行ってきますわ」

「頼むわ」

おっちゃんは奥に消えていく。

残された僕たち3人はお菓子のお盆を間近に見つめる。おかきの中にキスチョコが一つ、顔を出している。

「焦ったんやな、とっちゃん」

桑原君がその一個を摘み上げ僕たちに見せて、再びおかきの中に押し込む。

「大目に見る?見なかったことにする?それとも、キスチョコは元々ないものと考える?」

大沢さんが静かに微笑む。

「いや。それは、したらあかんこと違います?」

桑原君が言下に抗う。

「見てるのに見てなかったことにするのは、現実逃避違います?たかがキスチョコであっても、したらあきませんよ。とっちゃんのためにもならへん。どうや?君は」

大沢さんの言葉が琴線に触れたのか、いつも燻っている大沢さんに対する不満と疑問に火でも点いたのか、とっちゃんのいじましい行動がいつも腹に据えかねていたのか、桑原君の言葉が突然熱い。

「とっちゃんの行動に、正直言って、僕はちょっと頭にきたんやけど‥‥」

桑原君の言葉は大袈裟だとは思ったが、僕は桑原君と同意見だ。

「それ、わかるわ~~。君、顔に出てたしなあ。とっちゃんも気い付いたんちゃう?」

桑原君は気をよくしたようだ。

「とっちゃんが早う帰ったんは、栗塚君が怒ったのがわかったからやろうなあ。気い小さいとこあるからなあ、彼」

大沢さんはとっちゃんの擁護を忘れない。

「僕はきちんと言うべきやないかと‥‥」

起きたことも見てしまったことも、とっちゃんが真ん中にあってのこと。問題は、とっちゃんという存在とその存在のあり方であることははっきりしている。僕たちはしっかりととっちゃんに問い掛けるべきだろう。

「とっちゃんに?どういう風に?」

大沢さんに訊かれ、僕は僕の中で突然、とっちゃんに語らなくてはいけない言葉が決まったような気がした。

「ちょっと待ったって~~。な!ちょっとまだそっとしといたってくれへん?」

僕たちのやり取りが耳に届いたらしく、おっちゃんがやってくる。カウンターに身を乗り出した顔は、いつもになく真剣だ。

「今ちょっとな、とっちゃん、事情あってな」

おっちゃんの手招きにカウンターに近付くと、とっちゃんが今抱えている事情を、おっちゃんは教えてくれた。

 

とっちゃん、最近荒れてる思わへんか?いやいや、自分の好きなお菓子全部取ろうとすんのは昔からやけど、最近取り方荒っぽい思わへんか?いやいや、そうやて。キスチョコのことにしたかて、みんなに一個も残さへんいうのは、今までないことやからなあ。他人からどう思われても気になんかせえへん、いうのは昔からやけど、“どう思われてもええわ!”いうやけっぱちな感じは最近やからなあ。何が?って?それや。理由は一個しか考えられへんのや。とっちゃん、さっき“おばはん”て言うたやろ?あれや。いやいや、とっちゃんにおばさんはいてへん。“おばはん”いうのは、とっちゃんの“おかん”のことなんや。そうや。昔は“おかん”言うてたやろ?いつ“おばはん”に変わったか気い付いたか?そうや。6日からや。5日の日、とっちゃん、貯金通帳見ようとしたんやて。ウチで働くようになってからずっとやから、そうやなあ‥‥30万くらいは貯まってるやろう。いやいや、それくらいは貯まってたはずや。そう!それがやなあ、ゼロになってたんやて。とっちゃん、すぐ自転車飛ばして来てなあ。「おっちゃん、おかんから何か聞いてへんか?」言うんやけど、「いや?!何?」言うたら、怖い顔になってなあ。「ほんまに知らへんのやな!」て怒鳴ってなあ、すぐ帰って行ったんやけど‥‥。あの後、おかあちゃんと喧嘩したんやろうなあ。いやいや、おかあちゃんが貯金下ろして使うたんかどうかはわからへん。けどやで、5日に通帳ゼロになって、6日から“おばはん”て言い始めたんやからなあ。おかあちゃんだったんやろうなあ。事情はあったんやろうけどな。とっちゃん怒るのもわかるわ。3年‥‥いや、4年近くになるかなあ。「通帳の数字が長うなったわ」言うて喜んでたんやもんなあ。がっかりしたやろうなあ。しかもおかあちゃんやからなあ、全部使うたんが。そりゃあショック大きかったやろう思うわ。な、わかるやろ?とっちゃんの執着心強うなるの、わかるやろ?な!せやから‥‥‥

 

説明が終わると、すっかり聞き入っている僕たち3人の表情に納得したのか、おっちゃんは2~3度頷き、奥へと消えていった。

「人は見えてるところだけではわからへんもんやなあ」

おっちゃんの後姿が住居部分の暗がりに消えると、大沢さんがポツリと言った。僕は、そのしたり顔が気に入らない。

「見えてるところも見えてないところも、その人なんですよね。氷山の一角だって氷山だし」

「見たことに対する自分の判断で動けばええんちゃうの?考え過ぎんこっちゃで」

桑原君は、行動力を重視する。

「そうなんやろうけどな。せめて、怒りに任せてぶつかるようなことは、せん方ががええんちゃうかな?ゆっくりと理解し合ってからの方が‥‥」

「争いにはならないと思いますけどね」

「問題抱えてる子なんや、いう目線は持っておいた方がええと僕は思うけどな」

「それ、差別ちゃいます?」

「個別対応と差別は違う!‥‥と僕は思うてる」

「対応の話違いますやん。意識の話ですやん、とっちゃんの場合は」‥‥‥。

大沢さんと桑原君のやり取りが続く。

二人の立ち位置の違いが、どんどん明確になっていく。法曹界を目指している大沢さんの価値観はわかるような気がする。が、桑原君の目指すところは見えない。

「普通の会話をもっとした方がいいんですかねえ」

論点を変えようと、口を挟む。

「僕たちのこと?」

大沢さんが、自分の鼻と桑原君を交互に指差す。

「いやいや、とっちゃんと、です」

「誰が?」

「僕たちが、です」

「普通の会話?それできるんやったら、もうしてるわ。君がやってみたらどやねん」

桑原君の言葉に、僕は思わず、

「じゃ、そうしてみようかなあ」

と答えてしまう。その時点では、話せば簡単にわかりあえるものと思っていたからだった

 

         Kakky(志波郁)

 


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